迷宮都市オラリオの北西に位置する、巨大な工房と店舗を構えるヘファイストス・ファミリアの本拠地。
絶えず炉の火が燃え盛るその最奥、主神の執務室では、一人の女神が盛大なため息をついていた。
「……で? 天界が退屈だからと家出同然で下界に降りてきたはいいが、住む場所もファミリアの当てもないから、私のところに転がり込みたいと?」
右目に眼帯をつけた鍛冶の女神ヘファイストスが、こめかみを揉みながら目の前の厄介者を見下ろす。
「そうなんだよヘファイストス〜! ボクには君しか頼れる友人がいないんだ! どうか、どうかこの通り! ほんの少しの間でいいから、ボクをここで養ってくれないかい!?」
床に額を擦り付けるようにして土下座しているのは、黒髪をツインテールに結んだ小柄な女神、ヘスティアである。
その小柄な体躯には不釣り合いなほどに豊満な双眸を床に押し付け、なりふり構わず親友に泣きついている姿は、神としての威厳など微塵もなかった。
「はぁ……。お前という奴は、相変わらず無計画にも程があるだろう。少しは自分の神格というものを——」
バンッ!!
ヘファイストスが説教を始めようとしたその時、執務室の重厚な扉が蹴り破られんばかりの勢いで開け放たれた。
「よっ! 邪魔するでぇヘファイストス! なんや、天界から頭の悪い迷い犬が転がり込んできたって噂を聞いたんやけど、ほんまやったんか!」
「ロ、ロキ……ッ!」
上がり込んできたのは、朱色の髪を細く束ねたオラリオ最大派閥の主神、ロキであった。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる彼女の背後には、オラリオの喧騒には似つかわしくない、穏やかな空気を纏った一人の青年の姿がある。
赤髪に赤眼、サイドを刈り上げたツーブロックの髪型。
そして、その鍛え上げられた分厚い胸板の上に、なぜかフリルのついた可愛らしい『エプロン』を身につけている男。
彼こそが、ロキ・ファミリアの裏の支配者であり、ロキの絶対的な正妻としての地位を確立させている最強の鬼、マヤである。
「げっ……ロキ! なんで君がここにいるんだよ!」
ヘスティアが土下座の姿勢から勢いよく跳ね起き、親の仇でも見るような目でロキを睨みつけた。
「なんでって、そりゃあウチのファミリアの武具のメンテナンス依頼(という名目の冷やかし)に決まっとるやろ! それにしても相変わらずやなぁ、その無駄にでかいだけの脂肪の塊(牛女)! 下界に降りてきて早々、親友にたかるとはええご身分やな!」
「なんだとこのちんちくりん! 君こそ相変わらず見事なまでのまな板じゃないか! 前も後ろも真っ平らで、下界の男たちもさぞかしガッカリしてるだろうね!」
ギリィッ、と。二柱の女神の間に激しい火花が散る。
天界にいた頃から顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた二人の、いつもの光景。しかし、今日のロキはかつてのように貧乳をからかわれて激昂することはなかった。
むしろ、余裕たっぷりに鼻で笑い、背後に立つマヤの太い腕にギュッと抱きついたのだ。
「ふんっ、吠えよるわ。ええかヘスティア、ウチにはな、そんな無駄な脂肪なんぞなくても、ウチの全部を愛してくれる『最強の旦那』がおるんや!」
「だ、旦那ぁ!?」
ヘスティアの目が点になる。神であるロキが、あろうことか下界の男を旦那と呼んで擦り寄っている。しかもその男は、どう見ても戦士というより、エプロン姿の『専業主夫』にしか見えない。
「せや! 顔も良くて、強くて、料理も洗濯も完璧! さらに言えば、夜のベッドじゃウチの腰が砕けそうになるくらい激しくて、もう最高に気持ちええんやでぇ〜! あんたみたいな貧乏で独り身の神様には、一生わからん極上の幸せやな!」
「なっ、ななななっ……! は、破廉恥な! 神の分際で下界の男にうつつを抜かすなんて! しかもなんだその男は、噂に聞く『ロキのヒモ』じゃないか! 偉そうにエプロンなんか着て、男の風上にも置けないね!」
顔を真っ赤にして指を差すヘスティアに対し、ロキは得意げにマヤの腕に頬を擦り寄せる。
そんな騒がしい女神たちの口論を他所に、マヤは苦笑しながらヘファイストスの前へと進み出た。
「騒がしくてすまないな、ヘファイストス。ロキからいつもお前の打つ武具の素晴らしさは聞いている。今日はうちの子供たちがお世話になっている礼と、俺の得物の手入れをお願いできないかと思ってね」
マヤはそう言うと、布に包まれた『綺麗な木の棒』と、無骨な『サバイバルナイフ』をそっとテーブルの上に置いた。
ヘファイストスはため息をつきながらも、鍛冶神としての真剣な眼差しでその得物を手に取る。
「……驚いたな。かなりの戦闘をくぐり抜けているはずなのに、武器の重心も刃こぼれも全くない。よほど持ち主の技量が極まっているか、あるいは……」
そこまで言いかけたヘファイストスの手元を、マヤの大きく温かい手がそっと包み込んだ。
「え……っ?」
「貴方の手は、素敵な手だ」
マヤは、長年ハンマーを振り続け、熱い炉の火で無骨に荒れたヘファイストスの手を、まるで壊れ物を扱うように優しく撫でた。
「このオラリオにいてくださり、その武具で皆の命を支えてくれている。あなたは間違いなく、この都市の『母』だ。俺は、女が眉間に皺を寄せている顔より、笑っている顔が好きでね」
マヤの深紅の瞳が、ヘファイストスの眼帯に隠された顔の半分をも真っ直ぐに見つめ抜く。そこには一切の偏見も、神への過剰なへりくだりもない。ただ純粋に、日々を懸命に生きる一人の『女性』に対する、底なしの敬意と優しさがあった。
手のひらから、ほんの僅かに流し込まれる温かい力の波動(チャクラ)が、ヘファイストスの身体の疲労をスーッと抜いていく。
「ぁ……、あ……」
オラリオの鍛冶を束ねる厳格な主神の顔が、瞬く間に林檎のように真っ赤に染まり上がった。自身の荒れた手を褒められ、男からこれほどまでに優しく触れられたことなど、神の長い歴史の中でも初めての経験だったのだ。
「お、おいマヤ! 少しヘファイストスに甘いんちゃうん? 自分!」
すかさずロキがマヤの背中をバシバシと叩き、頬を膨らませる。マヤが困ったように笑ってロキの頭を撫でていると、完全に蚊帳の外に置かれたヘスティアが地団駄を踏んだ。
「ちょっと! ボクを無視するな! だいたい、君みたいな女たらしのヒモ男が、ロキの旦那だなんてボクは絶対に認めないからな!」
ヘスティアがマヤに向かってキャンキャンと吠え立てる。
マヤにとって、女性からの好意は彼を狼狽えさせるが、逆にこうした敵意や悪態は、全く痛くも痒くもない。むしろ、家もファミリアも持たず、お腹を空かせて意地を張っているヘスティアの姿は、マヤの『女の悲しい顔を見たくない』という鬼の保護欲を刺激するには十分すぎた。
マヤは敵意を剥き出しにするヘスティアの前にしゃがみ込み、ふわりと微笑みかけた。
「うちの嫁がいつも世話になっているようだな。遠路はるばる、下界へようこそ」
「な、なんだよ! 媚びたって無駄だぞ!」
「なんだかんだで、こうして遠慮なく言い合える者がいるというのは、ロキにとってもいいものです。俺は女の笑顔が好きだからな……あなたの笑顔も、きっと最高です」
そう言うと、マヤはエプロンのポケットから、可愛らしい小袋を取り出し、ヘスティアの手の中にそっと押し付けた。
「俺の手作りだ。甘いものを食べれば、少しは気も晴れるだろう」
「ふ、ふんっ! 手作りのお菓子くらいで、ボクが誤魔化されると——」
ヘスティアは悪態をつきながらも、袋から取り出した黄金色に輝くパウンドケーキ(サツマイモと蜂蜜をふんだんに使った極上の品)を一口かじった。
「——!?」
瞬間、ヘスティアの青い瞳が見開かれ、背後に無数の花畑が幻視されるほどの衝撃が走った。
外はサクッと、中はしっとり。噛むほどに広がる上品な甘さと、疲れた脳を直接癒やすような優しい風味。それは、神の舌すらも唸らせる、マヤの極まった主夫力の結晶であった。
「な、なんだこれ……! 美味しい! 美味しすぎるじゃないかぁぁぁっ!」
ヘスティアはあっという間にケーキを平らげ、幸せそうな満面の笑みを浮かべてマヤの手にすがりついた。
「君、ヒモなんて言ってごめん! お料理上手なんだね! こいつ……すごくいい奴じゃないか!」
「だろう? 腹が減ったら、いつでもうちの館に来るといい。ご飯くらい、いくらでも作ってやる」
「本当かい!? やったぁ!」
先ほどまでの険悪な空気はどこへやら、マヤの手料理一つで完全に餌付けされ、絆されてしまったヘスティア。
その光景を見て、ついにロキの独占欲が爆発した。
「ああああっ! ウチの旦那の文句を言うなや!……って、褒めてるんやけど、それはそれで腹立つわ! こいつはウチのやで!!」
ロキはヘスティアを引き剥がし、マヤの首に思い切りしがみついた。そして、牽制するようにヘファイストスとヘスティアに向けてシャアァッ! と猫のように威嚇する。
「マヤの手料理も、マヤの優しさも、全部ウチのもんや! 誰にも渡さへんで!」
周囲の女性を無自覚に笑顔にしてしまうマヤの性質は、彼が『修羅』に堕ちないための防衛本能であり、純粋な優しさゆえの行動だ。ロキもそれを痛いほど理解しているからこそ、本気で怒ることはない。だが、正妻としてのマウントだけは、絶対に譲れない絶対領域(テリトリー)であった。
「わかったわかった、ロキ」
マヤは笑いながら、首にすがりつく主神の華奢な背中を優しくポンポンと叩いた。
「あとで、夜にでもお前の好きなものを色々作るから、これくらい許せ。……それと、寝る時の『サービス』もな」
マヤがロキの耳元で、少しだけ声のトーンを落として甘く囁く。
その瞬間、ロキの顔がボォッと音を立てて真っ赤に染まり、威嚇していた猫から一瞬にして蕩けた乙女の顔へと変貌した。
「ほ、ほんまっ!? 絶対やな!? 夜、ウチが満足するまで寝かさへんからな!」
「ああ、約束する」
マヤの絶対的な包容力に、ロキはヘニャリとだらしなく相好を崩す。そして、ヘスティアたちに向けて勝ち誇ったように胸を張った。
「ふふんっ! 見たか! やっぱり、ウチの笑顔が一番なんやね〜!」
その底抜けに幸せそうなロキの顔を見て、マヤは心底愛おしそうに目を細めた。
「ああ。お前の笑顔が一番だ」
最強の鬼が放つ、正妻への揺るぎない愛の言葉。
それを見せつけられたヘスティアとヘファイストスは、これ以上ないほどの『痛快なマウント』を叩き込まれ、ただ呆然と、甘すぎる夫婦の空間に当てられ続けることしかできなかった。