迷宮都市オラリオの中央にそびえ立つ、天を突く摩天楼『バベル』。
その最上層に位置する豪奢な部屋から、美の女神フレイヤは黄昏に染まる街並みを静かに見下ろしていた。
手にしたワイングラスの中で、深紅の液体がゆらゆらと揺れる。しかし、その銀色の瞳に映っているのは、眼下に広がる都市の繁栄ではなく、ただ一人の男の姿だけだった。
「……マヤ」
甘く、熱く、そしてどこか苛立たしげな吐息と共に、その名を口にする。
かつて、オラリオに君臨する彼女の絶対的な権能である『魅了』を正面から完全に無効化し、あまつさえ「作り笑いのババア」と一刀両断してのけた規格外の存在。神である彼女の自尊心を粉砕したその男に、フレイヤは屈辱と同時に、かつて経験したことのない底知れぬ執着——身を焦がすような愛しさと渇望を抱いていた。
欲しい。彼が欲しい。あの冷たくも優しく、力強い眼差しで自分を縛り付けてほしい。
だが、事態は彼女の思い通りには進んでいない。
「オッタル。ロキのところの動向は?」
背後に控える屈強な猪人(ボアズ)の武人、オッタルが重々しく口を開く。
「……変わりありません。フィン、ガレス、リヴェリアの三名は、変わらず底知れぬ威圧感を放っております。そして……何故彼らが急激に限界を突破し、前人未到の『Lv.8』へと至ったのか、その要因はいまだ掴めずにおります」
オッタルの声には、隠しきれない苦悩と焦燥が滲んでいた。
彼自身、かつてはオラリオ最強の座に最も近いと謳われた猛者である。しかし、現在彼のステイタスはLv.6の壁にぶつかり、完全に停滞している。それに対し、ライバルであったはずのロキ・ファミリアの首脳陣は、いつの間にか遥か高みへと駆け上がってしまったのだ。
あの赤髪の男……マヤが何か関与しているとしか思えません。しかし、表向きの彼はただの『ロキのヒモ』であり、ファミリア内で家事をこなす主夫として振る舞っている。……実態が、見えませぬ」
「ふふ……本当に、食えない男ね」
オッタルやフレイヤは知らない。
ロキ・ファミリアの異常な急成長の裏に、マヤによる『死の淵を反復横跳びさせる地獄の稽古』が存在していることを。アイズやリリが外部にそれを漏らすはずもなく、マヤが前衛を粉砕しては回復させるという理不尽な反則技で団員たちの恩恵(エクセリア)を荒稼ぎさせているなど、常識の範疇で想像できるはずがなかった。
***
同時刻、夕闇が迫るオラリオの市場。
石畳の通りを、ひと際目を引く一団が歩いていた。
「マヤ、今日の夕飯はなんや? ウチ、この前作ってくれた分厚い肉のやつがええんやけど!」
「ロキ、お前昨日も肉だっただろ。たまには魚も食わないと栄養が偏るぞ」
先頭を歩くのは、オラリオ最大派閥の主神ロキと、その正妻の座を射止めているマヤである。
二人はお揃いのペアルックを身に纏っていた。黒を基調とし、所々に鮮やかな朱色の意匠が施された動きやすそうな戦闘服。ただし、マヤの服のほうが装飾が豪華であり、その逞しい体躯の美しさを際立たせている。家の中ではフリルのエプロンを着けている彼も、一歩外に出れば、近づきがたいほどの雄のフェロモンと王者の風格を漂わせていた。
その後ろを、団長のフィンと、二人の少女がついていく。
「アイズ先輩、こっちのトマトの方が新鮮ですよ! マヤ様に買って帰れば、絶対に褒めてもらえます!」
「……ん。リリ、よくやった。後で頭を撫でてあげる」
「ふふん、リリは先輩よりもマヤ様に撫でてほしいんですけどね!」
「……生意気。私の方が先輩だから、私が先にマヤに撫でられるの」
12歳にしてLv.5という異常なステータスを持つアイズ・ヴァレンシュタインと、11歳でLv.3へと駆け上がったリリルカ・アーデ。マヤの庇護と教育のもと、過酷なダンジョンでも笑って生き抜く力を手に入れた二人は、姉妹のようにじゃれ合っている。
身内以外には基本能面で口数の少ないアイズだが、マヤやリリの前では年相応に感情を出し、少しばかり先輩風を吹かせるようになっていた。
「こらこら、二人とも。あまりマヤ殿を困らせないようにね」
フィンが優しく、穏やかな口調で二人を宥める。マヤの死と隣り合わせの稽古を受け続け、真の強さと余裕を手に入れたフィンの声には、かつてのような焦りは一切ない。
そんな平和で楽しげな一家の買い出しの空気が——前方から歩み寄る二つの影によって、ピタリと止まった。
「奇遇ね、ロキ。それに……マヤ」
妖艶な笑みを浮かべ、優雅な足取りで近づいてきたのはフレイヤだった。その後ろには、巨城のようにオッタルがそびえ立っている。
道のど真ん中で対峙する二大ファミリア。周囲の喧騒が、水を打ったように静まり返る。
(……面倒なのが来たな)
マヤは内心で深いため息をついた。かつて魅了を仕掛けてきたこの美の女神にはうんざりしているが、波風を立てて女たちを不安にさせるのは彼の流儀ではない。
マヤは黒と朱色の外套を僅かに揺らし、軽く頭を下げた。
「神フレイヤ、今日もお美しいかぎりで」
社交辞令の言葉。しかし、マヤの深紅の瞳は逃げることなく、フレイヤの銀色の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。
「……っ」
その揺るぎない、強烈な雄の視線を受け、フレイヤの胸の奥がドクンと大きく跳ねる。
(ああ……なんて冷たくて、熱い目。彼は私を拒絶しながら、それでも私から目を逸らさない。私に惹かれているのね……)
完全にフレイヤの勘違いであったが、彼女の顔には隠しきれない歓喜と愛しさが滲み出していた。
一方、その後方では、オッタルがじっとフィンを見下ろしていた。
(フィン・ディムナ……貴様は、どうやってその高みへ至ったのだ。何を為せば、Lv.8の壁を越えられるというのだ……!)
オッタルは喉まで出かかった問いを、必死に飲み込んでいた。主神であるフレイヤがマヤに対して過去に手を出した(やらかした)という負い目がある以上、彼から気安く教えを乞うことなど、武人の誇りが許さなかった。
オッタルが沈黙の苦悩を抱えていると、彼の視線の下から、冷ややかな声が響いた。
「……なによ、オッタル」
金糸の髪を揺らし、無表情(能面)のままオッタルを見上げているのは、アイズだった。
彼女はオッタルの全身から漂う焦燥感と、実力の『停滞』を、その極限まで鍛え上げられた感覚で正確に見透かしていた。
マヤという圧倒的な強者の背中を見続け、自身の力を磨き上げてきた彼女にとって、過去の栄光にしがみついて足踏みをしている巨漢は、どこか滑稽に映った。
アイズはこてんと小さく首を傾げると、能面のまま、薄く形の良い唇を歪めた。
「まだLv.6のままで止まってるの? うわぁ〜……ざっこ♡」
——ピキッ。
周囲の空気が凍りついた。
12歳の少女から放たれた、あまりにも容赦のない、そして的確すぎるメスガキめいた煽り。
身内には甘いアイズだが、自分たちの平穏な時間を邪魔し、敵対心(あるいは奇妙な執着)を向けてくる者に対しては、マヤ譲りの毒舌と冷酷さを隠そうとはしなかった。
「な、貴様……ッ!」
オッタルの顔面が怒りと屈辱で朱に染まる。オラリオの猛者たる彼が、一回りも二回りも年下の小娘に見下され、あまつさえ「ざっこ♡」などと言い捨てられたのだ。
「ほんとですねー、アイズ先輩!」
そこに、荷物を抱えたリリが気さくな笑顔で便乗する。
「なんだか成長が止まってるみたいで、可哀想です! アイズ先輩なら、あんなのすぐに追い抜いちゃいますよね!」
「……ん。今のオッタルなら、私の『風遁剣姫(アリエル・改)』で関節の三つや四つ、簡単に外せる」
淡々と恐ろしい解体予告をするアイズと、ニコニコと笑うリリ。
その容赦のない言葉の連打に、オッタルはギリッと奥歯を噛み締め、巨大な拳を震わせた。
「こらこら、アイズ、リリ」
見かねたフィンが、二人の頭をポンポンと優しく叩いて宥める。
「他ファミリアの団長さんをからかってはいけないよ。オッタルも苦労しているんだ。……まあ、僕たちも『色々』あったからね。強くなるというのは、本当に大変なことだよ。ねえ、マヤ殿?」
フィンはチラリと、全ての元凶である『地獄の教官』へと視線を向けた。
マヤはフィンの視線を涼しい顔で受け流し、フレイヤたちに向かって淡々と告げた。
「うちの子供たちが失礼したな。だが、事実でもある。停滞は衰退だ。精進するんだな」
それはただの事実の提示であり、強烈な牽制でもあった。
「はっはっは! うりゃうりゃ、悔しかったらウチらに追いついてみぃ!」
ロキが勝ち誇ったように腰に手を当てて高笑いし、マヤの腕にこれみよがしに胸を押し付ける。
「マヤはウチの旦那やし、ファミリアの子供たちはウチらの大切な家族や! お前らが入り込む隙なんて、ミリ単位でも残ってへんで!」
圧倒的な『家族』としての結束と、それを裏打ちする暴力の頂点。
フレイヤはその光景を前にして、妖艶な笑みを崩さなかったが、ドレスの裾を握る手には僅かに力が入っていた。
「ふふ……ええ、今はまだ、そう言っておきなさい。でも、私は諦めないわよ。マヤ……あなたは必ず、私のものになるのだから」
捨て台詞のように妖しく囁き、フレイヤはオッタルを引き連れて背を向けた。
立ち去る彼らの背中を、マヤはただ冷ややかに見送る。
「さて、買い出しの続きと行くか。今日は魚のムニエルにしよう。リリ、アイズ、手伝ってくれるか?」
「はいっ! リリがお魚捌きます!」
「……私も、小麦粉まぶすのやる」
「うむうむ、ウチは食べるの専門や!」
「お前も少しは手伝え、ロキ」
夕日に照らされるオラリオの街角。
狂おしいほどの執着と停滞の焦りに苛まれる美の女神の陣営とは対照的に、赤鬼の守る家族の輪には、今日も温かで平和な笑い声が響いていた。