迷宮都市オラリオの中央にそびえ立つ白亜の巨塔、バベル。
その最上階に位置する『女神の部屋』は、神々しいまでの静寂と、息が詰まるほどの重厚な空気に支配されていた。
「…………」
オラリオの夕暮れを見下ろす窓辺で、美の女神フレイヤは豪奢な長椅子に身を横たえ、銀色の瞳を細めていた。
彼女の視線の先にあるのは、都市の繁栄でも、自身の眷族たちの武勲でもない。ただ一つ、オラリオの北西に位置するロキ・ファミリアの本拠地だけだ。
『——その安っぽい作り笑い、見てて吐き気がするんだよ、ババア』
かつて、彼女の絶対的な権能である『魅了』を正面から完全に無効化し、あまつさえ虫でも見るような冷酷な瞳で放たれたその言葉。神の尊厳を粉砕する、これ以上ないほどの侮辱。
しかし、その言葉を反芻するたび、フレイヤの豊満な胸の奥では、甘く焼け焦げるような悦悦と執着が渦を巻くのだ。
(ああ……マヤ。あなたは、どうしてあんなにも冷たく、そして……温かいの)
彼女は知っている。あの男が冷酷なのは、彼自身の『正妻』と、大切な家族を守るための防壁にすぎないということを。その内側に秘められた、底なしの器の大きさと純度100%の優しさに触れた瞬間から、フレイヤは狂おしいほどの渇望に囚われていた。
「フレイヤ様」
静寂を破り、部屋の奥から重々しい声が響いた。
女神の最強の剣であり、オラリオの頂点の一角を担う猪人(ボアズ)の武人、オッタルである。
「お呼びでしょうか」
膝をつき、深く頭を下げるオッタル。その巨大な肉体からは、歴戦の戦士だけが持つ凄まじい覇気が立ち上っている。だが、フレイヤの銀眼は、彼を纏う『停滞』の気配を正確に見抜いていた。
「オッタル。あなた、最近焦っているわね。……夜な夜なダンジョンのに一人で潜っては、無茶をしていると聞いたけれど?」
「……申し訳、ありません」
オッタルはギリッと奥歯を噛み締めた。
彼のステイタスは現在『Lv.6』。オラリオの冒険者にとって、それは間違いなく最強の証であり、常人には決して到達できない神の領域である。
だが、その絶対的な誇りは、数年前から完全に粉砕されていた。
ライバルであったはずのロキ・ファミリアの首脳陣——フィン、ガレス、リヴェリア。
彼らは現在、オッタルの遥か頭上、『Lv.8(Lv.9到達直前)』という前人未到の次元に立っている。
オッタルは強さを求めて血の滲むような鍛錬を重ね、強敵との死闘を繰り返してきた。しかし、見えない『越えられない壁』が、彼の前にはどうしようもなく立ち塞がっていた。
(なぜだ……。彼らと私の間に、どれほどの差があるというのだ。フィン・ディムナ……貴様らは、何を対価にしてその高みへと至った……!)
血を吐くような武人の苦悩。強さを極めんとするオッタルにとって、自身の停滞は死以上の苦痛であった。
その要因が、あの赤髪の男——マヤにあることは明白だ。しかし、主神であるフレイヤが過去にマヤに手を出して(やらかして)一刀両断された以上、オッタルがロキ・ファミリアに教えを乞うことなど、武人の矜持が許さなかった。
オッタルが抱える絶望的なまでの格差と渇望。
しかし、フレイヤはそんな最強の武人の苦悩など、どこ吹く風であった。
「別にいいのよ、オッタル。あなたがLv.6のままでも、私にとっては可愛い子供の一人であることに変わりはないわ」
フレイヤはワイングラスを傾けながら、妖艶に微笑む。
「それよりも……ああ、早く彼に会いたいわ。あの赤鬼の心と身体、すべてを私の鎖で縛り付けてしまいたい……」
オラリオの強者たちが血の涙を流して直面する「限界の壁」など、美の女神にとっては取るに足らない事象でしかない。バベルの最上階には、ただひたすらに、一人の男への異常な執着だけがどろどろと渦巻いていた。
***
一方その頃。オラリオの絶対的頂点に君臨するロキ・ファミリアの本拠地では、突如として理不尽な嵐が吹き荒れていた。
ズドォォォォォォォンッ!!!
広間の頑丈なオーク材のテーブルに、巨大な質量の塊が叩きつけられ、周囲のティーカップが派手に跳ね上がった。
「……マヤ殿。これは、一体何の冗談かな?」
団長のフィン・ディムナ(Lv.8)が、引きつった笑顔で目の前の『物体』を指差した。
テーブルにめり込んでいるのは、身の丈ほどもある巨大な大剣。漆黒の刀身からは、触れるだけで呪われそうな禍々しい冷気と、圧倒的な重圧が放たれている。
「ダンジョン深層37階層の階層主、ウダイオスの単独討伐ドロップ品……『ウダイオスの黒剣』だな」
マヤが腕を組み、さも当然のように言い放つ。
広間に集まっていた団員たちが、一斉にざわめいた。
「う、ウダイオスの単独ドロップ!? いつそんなもの手に入れてきたんだよ!?」
「マヤ様ってダンジョンに潜ってたっけ……? いつもエプロン着てお料理してる専業主夫じゃ……」
混乱する若手たちの中で、ガレスとリヴェリアだけは「ああ、あの時か」と深く頷いていた。
「確か数年前、お前さんが『ちょっと裏山のタケノコでも掘ってくるわ』みたいなノリで散歩に出かけた日があったじゃろ。あの時、倉庫にぶん投げてあった黒い鉄くずか」
「……全くだ。階層主のレア泥棒を、漬物石代わりに倉庫の奥に放置するなど、相変わらず無茶苦茶な男だ」
モブ団員たちが「散歩のついでに深層の階層主を単独討伐……!?」と白目を剥く中、マヤはトンッと黒剣の柄を叩いた。
「実はな、もうすぐ37階層にウダイオスが再ポップする時期だ。だから、これから遠征(ダンジョンアタック)に行くぞ」
「えっ、今からですか?」
フィンが瞬きをする。
「ああ。若い奴ら主体で組ませる。俺や、お前ら三幹部は引率だ。で、フィン。お前への指示だが……」
マヤはニヤリと、鬼のように凶悪な笑みを浮かべた。
「今日はお前、槍禁止な。この『ウダイオスの黒剣』を持って戦場を見学してろ」
「…………は?」
小人族(パルゥム)であるフィンの思考が、一瞬完全に停止した。
フィンの戦闘スタイルは、その極限まで鍛え上げられた敏捷性と技巧を活かした長槍(スピア)による近接遊撃である。対して、目の前にあるウダイオスの黒剣は、ドワーフの重戦士ですら扱いを持て余すほどの超重量級の大剣だ。
それを、体格の小さなパルゥムに持たせて深層を歩けと言うのである。
「ま、マヤ殿!? いくらなんでも理不尽すぎませんか!? 僕はパルゥムですよ!? こんな鉄塊を引きずって歩いたら、指揮はおろか歩くことすら——」
「前衛が状況に応じてどんな武器でも扱えるようになるのは基本中の基本だろ? 大丈夫だ、重ければチャクラ(魔力)を全身に流して無理やり筋肉を動かせばいい。いい筋トレになるぞ」
「筋トレのレベルを超えてますッ! というか、今回は若い子たちの遠征ですよね!? なぜ僕にそんな理不尽な縛りを!?」
「なんだ、不服か?」
マヤがスッと目を細め、懐から『血のついた棒』を半分だけ覗かせた。
「いやっ! 喜んで持たせていただきますッ!! ウダイオスの黒剣、最高ですね!!」
フィンは光の速さで前言を撤回し、顔面を蒼白にしながら自身の身の丈よりも遥かに巨大な黒剣を「ふんぬっ!」と抱え上げた。
「よろしい。ガレス、リヴェリア。お前たちも手出し無用だ。今回はアイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、ベート、レフィーヤの6人だけで階層主を倒させる。いいな?」
「「「了解した」」
「そして、前衛、アイズ、リリ、ティオネ ティオナ、中衛ベート 後衛レフィーヤでいけ。」
「「「「「はい」」」」」
その理不尽極まりないやり取りの背後で、カチャカチャと美しい陶器の音が響いていた。
「ふふふ……深層37階層、白骨の王の玉座。マヤ様がお座りになるティータイムの席として、これほど相応しい舞台はございませんねぇ……!」
狂信メイドのヴァレッタが、血走った目で超高級ティーセット一式と、マヤの手作りスコーンを、絶対に割れないように衝撃吸収材の魔道具と共に巨大なリュックへ詰め込んでいた。
「モブの皆さぁん! あなたたちは戦闘には一切参加禁止ですが、マヤ様と私がお茶を楽しむための『風除け』と、怪我人が出た場合の『ポーション運搬係』として同行を許可しますぅ! もしマヤ様のティーカップに骨の粉一つでも入れたら、オラリオの底のシミにしますからねぇぇッ!!」
「は、はいぃぃぃっ!!」
元絶対悪の幹部による殺意100%の業務連絡に、モブ団員たちは泣きながら敬礼した。
最強の鬼の気まぐれな宣告によって、突如として幕を開けた深層遠征。
オラリオの他の冒険者たちが命を懸けて挑む絶望の階層は、今、ただの『若手の抜き打ちテスト会場』兼『ティータイムのテラス席』として蹂躙されようとしていた。