迷宮(ダンジョン)深層、第37階層。
『白の迷宮』と称されるその領域は、上位の冒険者であっても足を踏み入れることを躊躇う、死と絶望が支配する極限の氷壁と白骨の世界である。
特にその最奥、広大な空間に君臨する階層主(モンスターレックス)『ウダイオス』の恐ろしさは、オラリオの歴史に幾度も血文字で刻まれてきた。巨大な白骨の王は、それ自体がLv.6に相当する圧倒的な戦闘力を持つだけでなく、周囲の地面からLv.4相当の骸骨兵士(スパルトイ)を文字通り『無限』に生み出し続ける。
どれほど強力な前衛がいようとも、絶え間なく湧き出る骨の軍勢に押し潰され、やがて疲労と絶望の中で陣形を崩され全滅する——それが、一般的な冒険者たちが抱く37階層の常識であり、絶対的な絶望であった。
……だが。
そんな死の領域のど真ん中で、オラリオの常識を根底から覆す、あまりにも異常な光景が繰り広げられていた。
「ほう。ヴァレッタ、なかなかいいお茶をここでも出せるようになったな。香りも飛んでいない、とてもいいぞ」
「はひぃぃぃぃっ! もったいなきお言葉ぁッ! マヤ様の五臓六腑を温めるためならば、このヴァレッタ、階層主の瘴気ごとき結界魔道具と私の殺気で完全に浄化してみせますぅぅっ!」
地響きを立ててスパルトイの大軍が這い出してくる最前線から、わずかに離れた安全圏。
そこに広げられた純白のテーブルクロスの前で、マヤは優雅にティーカップを傾けていた。狂信メイドのヴァレッタは、周囲に展開した風除けと瘴気払いの結界の中で、顔を真っ赤にして感涙に咽んでいる。
「ふむ……確かに、この過酷な深層の環境下で、これほど完璧な温度と風味を保つとは。メイドとしての彼女の技量は、もはや神業の域だな」
「がははっ! ダンジョンの底で飲む最高級の紅茶とスコーンも、オツなもんじゃわい!」
リヴェリアが感心したように息を吐き、ガレスが豪快に笑いながらマヤの手作りスコーンを頬張る。
三首領たちもまた、完全な見学モード(ティータイム)を満喫していた。
ただ一人、団長のフィン・ディムナを除いて。
「マヤ殿……あの、そろそろこの剣、下ろしてもいいですか……? 指先の感覚がもうないんですが……」
「ダメだ。しっかり持ってろ、団長様」
フィンは自身の身の丈ほどある超重量の『ウダイオスの黒剣』を両手で必死に抱え上げ、全身の筋肉と魔力を極限まで酷使してプルプルと震えていた。もはやティーカップを持つ余裕すらなく、ただひたすらに理不尽な筋トレを強いられている。
その後方では、大量の回復薬を抱えたモブ団員たちが「なんなのあの人たち……頭おかしい……」と、畏怖と呆れが入り交じった視線を向けていた。
「しかし、いいねぇ」
マヤはティーカップを置き、周囲の異様な景色を見渡しながら、ふっと優しく、底抜けに温かい笑みを浮かべた。
「こうしてみんなでピクニックに来るのは最高だ。俺は、お前ら家族の笑顔が大好きだからな」
その言葉に、戦場特有の張り詰めた空気が一瞬にして蕩けた。
「……ただ、ここにロキが入れないのだけが、すげー悲しくなるわ。こんなに美味い茶と菓子があるのに、俺の正妻が隣にいないなんて……帰ったら、一番に抱きしめてやらないとな」
ポツリとこぼした、正妻への深すぎる愛情と寂しさ。
普段の圧倒的な武力と冷酷な指導からは想像もつかない、素直で愛妻家すぎるその発言に、お茶を飲んでいたガレスもリヴェリアも、黒剣を抱えるフィンですら、たまらずニヤリと口角を上げてしまった。
「……相変わらず、主神のことが好きすぎる男だ」
「ふふっ、ロキが聞いたらまたオーバーヒートして倒れるぞ」
そして、マヤのその極上の笑顔と優しい言葉を、最前線で陣形を組んでいた討伐メンバーの少女たちが聞き逃すはずがなかった。
「ああっ……! マヤ様が、マヤ様が笑ってくださった! 今すぐマヤ様のところへ飛んでいって撫でてもらいたいですが……ダメです、まずはあの骨どもを粉砕して、最高の手柄を捧げなくては!」
前衛のリリルカ・アーデLv6なりたて、が、顔を真っ赤にして興奮のあまりクナイを握る手を震わせている。
「……マヤ、笑った。帰ったら私も一緒に抱きしめてもらう。絶対に」
前衛のアイズ・ヴァレンシュタインLv6の金色の瞳に、凄まじいまでの闘志とモチベーションの炎が灯る。普段の能面のような無表情が嘘のように、その口元はルンルン気分で緩み切っていた。
「アタシたちもいいところ見せないとね! ティオナ、気合い入れるわよ!」
「うんっ! マヤにかっこいいとこ見せて、お婿さんにしてもらうんだから!」
前衛のティオネとティオナの双子もまた、マヤの笑顔によってテンションが最高潮に達し、アマゾネスの闘争本能を爆発させていた。後衛のレフィーヤLv4に至っては、マヤの言葉に完全にガチ恋を拗らせて「ひゃわわわっ!」と顔から湯気を出して魔力を暴走寸前まで練り上げている。
少女たちの士気は、ただ『マヤが笑った』というたった一つの事実によって、階層主すら一瞬で蹂躙しかねない恐るべき限界突破状態へと引き上げられていた。
だが、その和やかで狂気に満ちた空気の中で、一人だけ蚊帳の外に置かれ、激しい苛立ちを募らせている者がいた。
狼人の青年、中衛のベート・ローガLv4である。
(チッ……! どいつもこいつも、ふざけやがって……ッ!)
ベートはギリッと鋭い牙を剥き出しにし、周囲の仲間たちを睨みつけた。
深層の階層主という絶望を前にして、なぜあんな赤髪のヒモ男の言葉一つでヘラヘラと笑っていられるのか。なぜ、あんな趣味の悪い体罰のような稽古を受けただけで、自分より年下の小娘どもが第一級冒険者のような顔をして前線に立っているのか。
ベートには、それが全く理解できなかった。
マヤの『素手の恐ろしさ』も、あの狂った回復ループによる地獄のレベリングの恩恵も知らないベートは、この3年間、己の才能だけを信じて単独での鍛錬を続けてきた。その結果、彼のステイタスは未だLv.4で完全に停滞していた。
しかし、本人はそれに気づいていない。自分こそがこの中で最も強く、最も才能があり、あのヒモ男などいつか必ず超えられると信じて疑っていなかったのだ。
ゴゴゴゴゴォォォォッ!!
地鳴りと共に、巨大な白骨の王『ウダイオス』が玉座から立ち上がり、おびただしい数のスパルトイが地中から這い出してきた。
「ウオォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
空気を震わせる咆哮。モブ団員たちが鼓膜を押さえて悲鳴を上げる。
「来るぞ! 前衛は防御網を——」
双子の姉ティオネが冷静に指示を出そうとした、その瞬間だった。
「どけッ! 俺が一番乗りだァァァッ!!」
(なんで俺が、、前衛じゃねーんだよ・・・そんなありえないだろ)
狂犬が、動いた。
功を焦り、自身の圧倒的な力(と思い込んでいるもの)を見せつけるため、ベートはティオネの指示を完全に無視して陣形から飛び出した。
金属のブーツを鳴らし、ウダイオスの懐へと単独で突撃していく。
「喰らいやがれェッ!」
その速度は、一般的なLv.4としては間違いなく最速の部類であった。
しかし——オラリオの絶対的頂点(マヤの地獄)を味わい尽くし、Lv.6へと駆け上がった怪物たちから見れば、それは止まっているも同然の『鈍亀』の動きでしかなかった。
「……はぁ」
呆れたような、冷ややかなため息が一つ。
直後、空気が弾けた。
「——なっ!?」
ベートの視界から、周囲の景色が一瞬にして消失した。
突撃の軌道上。完全に死角となる真横から、小柄な人影が『音を置き去りにして』現れたのだ。
前衛件サポーターであるはずの少女、リリルカ・アーデ。
彼女は『幻影影法師(シンダー・エラ改)』による極限の隠密状態から、マヤ直伝の無音の歩法でベートの懐に潜り込んでいた。
「隊列を乱すな、三流。足手まといは後ろで這いつくばってろ」
ドッッッッゴォォォォォン!!!
リリの小さな足から放たれた回し蹴りが、ベートの脇腹に完璧なタイミングでめり込んだ。
「が、ぼァァァァァァッ!?」
規格外の魔力(チャクラ)が乗ったLv.6の圧倒的な一撃。
ベートの身体は、まるで弾き飛ばされた小石のように宙を舞い、数メートル後方の氷壁に激突して、無様な姿で地面に転がった。
「がはっ……、ごぉ……っ!? な、なんだ……今、のは……っ」
激痛で呼吸が詰まり、立ち上がることすらできないベート。
彼の視線の先では、自分を蹴り飛ばしたサポーターの小娘が、クナイを弄びながら冷たい目で見下ろしていた。
信じられなかった。
荷物持ちの底辺だと思っていた小人族(パルゥム)の少女。彼女の速度も、蹴りの重さも、どれもが自分の全力を遥かに凌駕していた。Lv.4である自分の視覚が、彼女の動きを全く捉えられなかったのだ。
「あーあ、ベート。一人で何やってるの?」
そこへ、金糸の髪を揺らしながらアイズが歩み出てくる。彼女は地面で蹲るベートを一瞥すると、こてんと首を傾げて、冷酷で美しい『メスガキスマイル』を浮かべた。
「せっかくマヤが笑ってくれて、最高にいい気分なのに。……無様な突撃で邪魔しないでよ。ほんと、うわぁ〜……ざっこ♡」
「な、貴様ら……ッ」
「アイズの言う通りだねー! ベート、遅すぎー! 止まってるみたいだったよ!」
「アタシたちの足手まといになるなら、そこで寝てなさいな!」
ティオナとティオネもまた、容赦のない言葉を投げかけてベートを通り過ぎていく。
(ざこ、だと……? 俺が……遅い……?)
ベートの瞳孔が開き、ガクガクと全身が震え始めた。
彼のプライドは、たった一発の蹴りと、年下の少女たちからの侮蔑によって、音を立てて完全に粉砕された。
この3年間、自分が信じていた才能も、強さも、すべてが井の中の蛙の虚勢であったという絶望的な現実が、彼の脳髄を容赦なく殴りつけていた。
「……あちゃー。見事に吹き飛ばされたねぇ」
後方のティータイム席では、巨大な黒剣を抱えてプルプルと震えているフィンが、哀れな狂犬を見て苦笑していた。
「マヤ殿の地獄の稽古(エクセリア稼ぎ)から逃げ続けた結果が、あれだ。ステイタスも実戦経験も、もはやあの子たちとは絶望的なまでに開いてしまっている」
「ワシらも、一歩間違えればあの様じゃったということか……背筋が凍るわい」
ガレスが紅茶を啜りながら、真顔で呟いた。モブ団員たちも、「なにやってんだあいつは……サポーターに蹴り飛ばされる前衛って……」とドン引きの視線を送っている。
「さて」
マヤがスコーンを飲み込み、深紅の瞳を静かに前線へと向けた。
「狂犬は退場したか。。なんともなぁ。……しかし、見せてみろ、お前たちの力を」
絶対的な強者による見学のもと、オラリオの歴史に新たな伝説を刻む『少女たちの蹂躙劇』が、今、静かに幕を開けようとしていた。