深層第37階層の冷たい大気を震わせていた喧騒は、すでに過去のものとなっていた。
オラリオの冒険者たちが絶望をもって語る『白の迷宮』の階層主、ウダイオス。その巨大な骸骨の王は、少女たちの圧倒的な蹂躙劇の前に成す術もなく崩れ去り、ただの大量の灰と巨大な魔石の欠片へと成り果てていた。
無限に湧き出すはずだった不死の兵士(スパルトイ)たちも、彼女たちの手によって一匹残らず粉砕され、広大な空間には再び不気味なほどの静寂が戻ってきている。
「終わったー! マヤ、ちゃんと見ててくれた!?」
「マヤ様っ! リリの完璧なサポート、いかがでしたかっ!」
「……ん。私、いっぱい斬った」
息一つ乱していない少女たちが、まるで近所の公園で遊び終えた子供のような無邪気な足取りで、安全圏のティータイム席へと戻ってくる。彼女たちの装備には、階層主との死闘を物語るような傷一つ、汚れ一つついていない。
そのあまりにも現実離れした光景を前に、お茶を片手に見学していた三首領たちは、ホッと深く安堵の息をつき、完全に全身の力を抜いていた。
「やれやれ……見事なものだ。ワシらの出る幕など、最初から一ミリもなかったわい」
ガレスが太い腕を組みながら、呆れたように、しかしどこか誇らしげに笑う。
「ああ、彼女たちの成長には目を見張るものがある。個々の技量はもちろん、味方を一切巻き込まないレフィーヤの砲台としての判断力も完璧だった。……僕たちはもう、すっかりお役御免かもしれないね」
超重量の『ウダイオスの黒剣』を抱えてプルプルと震えていたフィンも、この時ばかりは剣の重さを忘れ、次世代の頼もしさに目を細めていた。リヴェリアもまた、静かに頷きながら安堵の表情を浮かべている。
オラリオ最強の三人が、完全に『気が緩んだ』瞬間であった。
「お前たち、よくやった。えらいぞ」
マヤはティーカップをテーブルに置き、戻ってきた少女たちを優しく迎え入れた。大きく温かい手が、ティオナ、ティオネ、レフィーヤ、リリ、そしてアイズの頭を順番にポンポンと撫でていく。
「えへへぇ……マヤの頭ポンポン、最高ぉ……」
「はわわわわっ……マヤ様に、撫でて、いただけ……っ!」
極上のご褒美を与えられ、少女たちは全身を蕩けさせて歓喜の声を上げる。
だが、その温かく和やかな空気は、次の瞬間、突如として絶対零度の氷点下へと叩き落とされた。
マヤの深紅の瞳が、少女たちから外れ、後方で這いつくばったまま立ち上がれないでいる一人の青年に向いたのだ。
手柄を焦り、陣形を無視して単独で突撃し、リリに蹴り飛ばされた狂犬——ベート・ローガ。
「——おい」
たった一言。
マヤの口からこぼれ落ちたその低い声が、37階層の冷気すらも凌駕する恐るべき重圧(プレッシャー)となって空間を支配した。
(っ……!?)
モブ団員たちが一斉に息を呑み、歓喜に沸いていた少女たちでさえ、ビクリと肩を震わせて直立不動の姿勢を取る。
マヤは静かな足取りでベートの元へ歩み寄ると、見下ろすように冷徹な視線を突き刺した。
「隊列を乱した奴は、後ろから味方に殺されても文句は言えないからな。……次はないと思えよ」
その言葉には、普段の教官としての厳しさだけではない、もっと根源的で、底知れぬ『怒り』が孕んでいた。
「隊列を乱す。それはすなわち、敵前逃亡、味方への誤射と同じだ。陣形の乱れは戦闘の乱れ。そしてそれはな……!」
マヤの瞳の奥で、ドロドロとした黒い炎——修羅の業火が渦を巻き始めた。
「全員を殺す行為なんだよ! クソがッ!!」
怒声が、深層の壁をビリビリと震わせた。
オラリオ最強の武人たちでさえ、本能的な恐怖にすくみ上がるほどの純粋な『暴』の気配。
今、この場所にはマヤの絶対的な命綱であり、唯一のストッパーである正妻・ロキが不在だった。彼女の「笑顔」という楔がない深層の闇の中で、マヤが長年抱え込み、必死に抑え込んできた『理不尽な死への憎悪』と『仲間を喪う恐怖』が、修羅の片鱗としてほんの僅かに漏れ出していたのだ。
「俺は散々言ったはずだ。女の笑顔を守れと!! 笑顔がないと、人は生きていけねぇんだよ! お前のその身勝手な自己顕示欲が、ここにある全ての笑顔を殺したかもしれないと思え!」
マヤはベートの胸ぐらを掴み、ギリギリと締め上げた。
「『孤高』と『孤立』を履き違えるな。一人で突っ込んで死ぬのはただの犬死にだ。お前のくだらねぇプライドのせいで、誰かが泣くことになってもいいのかッ!」
「あ……、が……っ」
ベートは完全に圧倒されていた。
マヤから放たれる実質的な殺意と、自身の浅はかさを根底から否定する正論の刃。自分がどれほど愚かな真似をしたのか、この男がどれほどの覚悟で他者の『笑顔』を守ろうとしているのか。その圧倒的な魂の格差を前に、狂犬の牙は完全にへし折られていた。
その凄まじい怒気を背後で浴びていたフィンは、自身の身体に起きている『異常な現象』に気づいていた。
(……剣が、軽い……?)
パルゥムの小さな身体には持ち上げることすら困難だったはずの『ウダイオスの黒剣』が、今は嘘のように軽く感じられた。それは彼がLv.8に到達しているからではない。マヤの放つ本物の殺気と怒りを前に、フィンの生存本能(アドレナリン)が限界を突破し、超常的な火事場の馬鹿力を引き出していたのだ。
(ベートの奴……とんでもない地雷(やらかし)を踏みやがって……っ。下手すれば、僕たち全員、ここでマヤ殿に殺されるぞ……!)
フィンだけでなく、その場にいた全員が、マヤという男が持つ『底なしの優しさ』の裏側にある、『笑顔を奪う者への純粋な修羅の怒り』を骨の髄まで理解した瞬間であった。
***
「……ふぅ」
張り詰めた沈黙の中、マヤは小さく息を吐き、ベートの胸ぐらを放した。
彼自身の強靭な精神力によって、漏れ出していた修羅のオーラがスッと収束し、深紅の瞳にいつもの理性の光が戻る。
マヤは倒れ込むベートから視線を外し、遠くを見つめながらポツリと呟いた。
「しかし……過剰戦力だったな。だが、悪くない。……だが」
マヤはくるりと踵を返し、ティータイム席で硬直しているフィン、ガレス、リヴェリアの三首領へと向き直った。
先ほどの修羅の怒りからは一転、マヤの顔にはいつもの飄々とした、それでいて極めてタチの悪い『教官の顔』が張り付いていた。
「先に謝っておこう。……みんな、すまぬな」
マヤが、突然の謝罪を口にする。
(え……? なぜマヤ殿が謝るんだ……?)
フィンが疑問符を浮かべた、そのコンマ数秒後のことだった。
シュンッ——。
音もなく、マヤの右手に『ドス黒い血がべっとりとこびりついた木の棒』が握られていた。
「なっ——」
「気が緩んでいるぞ、オラリオの頂点」
ダンッ!!
マヤの身体がブレた。
狙われたのは、重い黒剣を抱えて両手が塞がっているフィンである。
(しまった、防御できな——!)
マヤは普段のような骨を粉砕する全力のフルスイングではなく、手首のスナップだけを利かせた軽い打撃——魔力(チャクラ)の『浸透』だけを目的とした一撃を、フィンの鳩尾に正確に叩き込んだ。
「が、はァァァァァァァァッ!?」
皮膚も筋肉も骨もスルーし、内臓の神経に直接突き刺さるような理不尽な激痛。フィンはウダイオスの黒剣をその場に取り落とし、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
「ふ、フィン!? 貴様、突然何を——ごふぁッ!?」
すぐさま大戦斧を構えようとしたガレスの脇腹にも、神速の棒が突き刺さる。
「マヤ! こような場所でこのような横暴が許されると——あぐぁッ!?」
抗議の声を上げようとし、杖をもった、リヴェリアの肩にも、的確な『浸透』の一撃が振り下ろされた。
ドサリ、ドサリ、ドサリ。
わずか数秒の間に、オラリオが世界に誇るLv.8の最強冒険者三人が、腹を押さえ、肩を抱き、涙目になりながら石畳の上で痙攣する羽目になった。
モブ団員たちはもちろん、先ほどまで歓喜していたアイズたちでさえ、突然の地獄絵図に「ヒッ……!」と息を呑んで後ずさった。
「理不尽だとでも言いたげな顔だな」
マヤは血のついた棒を肩に担ぎ、地面で悶絶する三首領を見下ろしながら、極めて真面目な、重みのあるトーンで告げた。
「気が緩んでいると言ったはずだ。後輩が階層主と死闘を演じている最中に、お前たちは完全に見学気分でお茶を飲んでいた。もし、未知のイレギュラーが発生して少女たちが全滅しそうになった時、お前たちはあの弛緩した状態から即座に最高速度で救出に入れたか?」
「っ……」
フィンが脂汗を流しながら、ぐっと言葉を詰まらせる。マヤの言う通りだった。ウダイオスがあっけなく倒されたことで、彼らは完全に安堵し、戦場における最低限の警戒すら解いてしまっていたのだ。
「それに、もう一つ」
マヤは背後で呆然としているベートを一瞥し、再びフィンたちに向き直った。
「一人の先行、先走りの罰は、お前たちが受けろ。団長と幹部だ。下のミスは、上役が罰を受ける道理だろうが」
その理屈は、理不尽でありながらも、ファミリアという組織を束ねる者にとっては逃れられない絶対の真理であった。
「仮にもオラリオ最強を名乗るファミリアだ。団員の結束の乱れは、秩序の乱れだ。もし今回、リリが咄嗟に蹴りを入れて制圧していなかったら、ベートはウダイオスに挽肉にされて死んでいたかもしれない。……もしそうなっていれば、どうするつもりだった?」
マヤの静かな問いかけが、フィンたちの心に重くのしかかる。
「俺たちが後ろで見ていたから、安心して先行したのか? だとすれば、尚更タチが悪いと思わないか。絶対的な安全地帯があるという甘えが、あの狂犬の首を絞めたんだ。……それを防ぎ、正しく教育すべきなのは、俺じゃない。お前たち上役の仕事だ」
マヤは血のついた棒で、足元の氷壁をコンコンと叩いた。
「次の遠征の時、お前たちがいなくて、こいつら若手だけで潜らせたとする。そこで不測の事態が起き、今日のように誰かが独断で先行でもしてみろ。……連携は崩壊し、全滅だぞ」
マヤの言葉には、冒険者たちが嫌というほど見てきた『迷宮の真実』が含まれていた。
「失敗やミスは誰にでもある。焦ることもある。だが、味方との連携を無視することだけは、絶対に許されないと叩き込まなければならない。もしこれが、他派閥との共同戦線だったらどうする? 味方が突出して死にました、ではオラリオ中に大恥を晒すことになる。……ロキに、そんなみっともない思いをさせたくねぇんだよ」
マヤの行動の根源。それはいつだって、彼が誰よりも愛し、命綱としている正妻・ロキの尊厳と笑顔を守るためだった。
「そのための、上役の罰だ。……俺の言うこと、理解できたか?」
腹を押さえながら、フィンはゆっくりと立ち上がった。その顔には、先ほどまでの激痛による歪みは消え、ファミリアを率いる団長としての深い自覚と反省が浮かんでいた。
「……ええ。おっしゃる通りです、マヤ殿。僕たちは、強くなった彼女たちに甘え、組織としての教育と警戒を怠っていました。……この痛みは、僕たちが甘んじて受けるべきものです」
「ワシらの落ち度じゃ。すまなかった、マヤ」
「全く……いつもいつも理不尽な男だが、今回ばかりは反論の余地がないな」
ガレスとリヴェリアも立ち上がり、真っ直ぐにマヤを見つめて頷いた。
彼らが素直に非を認めたのを見て、マヤは満足げにフッと微笑んだ。
「お前達も、ロキにはずっと笑顔でいてほしいだろ? 俺のファミリアを頼むぞ。……まあ、俺自身も理不尽に暴力を振るった罰は、後で正妻にたっぷり怒られる(お仕置きされる)予定だがな」
冗談めかして笑うマヤの言葉に、重苦しかった空気がふっと緩む。
「みんな、今日はお疲れ。最高の手際だったぞ」
マヤは再び全員を労うと、最後に幹部たちを見てニヤリと悪戯っぽく笑った。
「しかし、幹部の連中も……随分とこの『痛み』に耐えられるようになったな。昔なら三日は寝込んでいた浸透の一撃だぞ? ……よし、今度はもう一段階、威力を上げてみるか」
「「「謹んでご辞退申し上げますッ!!!」」」
オラリオ最強の三人が、声を揃えて全力で拒否の叫びを上げた。
「あははははっ! マヤ、最高ー!」
「すっごーい! さすがマヤ様ですっ!」
アイズたちが無邪気に歓喜の声を上げる中、遠巻きに見ていたモブ団員たちと、己の未熟さを痛感したベートは、ただ青ざめた顔で顔を見合わせていた。
(下のミスで、オラリオ最強のLv.8がまとめて沈められるのか……。いや、あのマヤって男……)
(間違いなく、階層主(ウダイオス)より怖ぇぇぇぇぇぇっ……!!)
狂犬のちっぽけなプライドは完全に砕け散り、彼は「俺のせいでフィンたちが……」という強烈な罪悪感と、マヤという男の底知れぬ強さへの畏怖を、その魂の底に深く刻み込むことになった。
理不尽と暴力、そして深すぎる愛情。
ロキ・ファミリアの常識外れな日常は、こうして深層の死地すらも彼らの成長の糧へと変えながら、オラリオの黄金期を確固たるものにしていくのであった。