層第37階層。
舞い散る階層主(ウダイオス)の灰が雪のように降り注ぐ中、オラリオの絶対的頂点に立つ三人の最高幹部たちは、冷たい白骨の大地に膝をついていた。
マヤから放たれた『浸透』の一撃。それは文字通り神経を直接焼くような理不尽な激痛であったが、今の彼らの胸中に去来しているのは、痛みへの恨み言ではなく、強烈なまでの自省であった。
マヤは血のついた棒を肩に担ぎ直し、膝をつくフィンたちを見下ろしながら、その深紅の瞳に静かな、しかし確かな知の光を宿して口を開いた。
「いいか。今回の抜き打ち遠征、ただの気まぐれや思いつきでやったわけじゃない。明確な目的が三つあった」
その言葉に、息を呑むファミリアの面々。
アイズやリリたち戦闘組も、後方で控えていたモブ団員たちも、そして地に伏せるベート・ローガも、全員がマヤの言葉に耳を澄ませた。
「一つ目。遠征における『行軍のスピード』と『陣形の維持』だ」
マヤは一つ指を立て、周囲を見渡した。
「これに関しては問題なかった。上層から中層、そしてこの深層に至るまで、お前たちは無駄な戦闘を避け、最適なルートで迷宮を踏破した。及第点だ」
「二つ目」
マヤの瞳が、スッと細められ、冷たい光を放つ。
「『絶対的な強者が背後にいるという安心感』が、お前たちの心に慢心を生み出さないかどうかの訓練だ。……これに関しては、一人が完全にダメだったな」
その視線が向けられた先は、言うまでもなくベートである。
マヤという『絶対に死なせない盾』、そして三幹部という『最強の保険』があるという事実が、彼の功名心と焦りを暴走させたのだ。「いざとなれば上が助けてくれる」という無意識の甘えが、あの愚かな単独突撃を引き起こした。ベートはギリッと唇を噛み切り、己の浅はかさに血の涙を流すような思いで俯いた。
「そして三つ目だ。よく聞け」
マヤは、ヴァレッタが完璧にセッティングした純白のテーブルと、最高級のティーセットを指差した。
「このティータイム。お前たちはこれを『ただの休憩』だと思っただろう。……だがな、ここは深層だぞ。いかに優雅に振る舞おうとも、迷宮(ダンジョン)の中に絶対の安全地帯など存在しない」
マヤの声が、37階層の冷気をさらに一段階凍てつかせる。
「俺があえてお茶会を開いたのは、戦場において『疑似的な気の緩み』を作り出すためだ。実戦において、この休憩状態が何を意味するか分かるか? それは『誰かが重傷を負って動けない状況』や、『魔力枯渇(マインドダウン)で疲労困憊の仲間を護衛している状況』の想定だ」
フィンが、ハッと息を呑んだ。
ただの悪ふざけのようなティータイム。しかし、その本質は『最も無防備な状態(要保護者がいる状態)での防衛訓練』だったのだ。
「俺は確かに『戦闘への介入はするな』と厳命した。……だが、『警戒を怠れ』とは一言も言っていないぞ?」
マヤの言葉に、幹部たちは雷に打たれたような衝撃を受けた。
「アストレア・ファミリアを襲った、あのイレギュラー(ジャガーノート)の件を思い出せ」
数年前、暗黒期の残党が引き起こした最悪の絶望。
「あの化け物は、俺とリヴェリアで屠った。アストレア・ファミリアの連中も、無事に救い出すことができた。……だが、あれは『何も起きないはずの安全な階層』で突然発生した絶望だ。ダンジョンとはそういう場所だ。何が起きてもおかしくない。常に最悪のイレギュラーを想定し、警戒の糸を張り巡らせておくべきだということだ」
マヤの背負う重絶な経験と、そこから導き出される生存への執念。
それは、どれだけステイタスが高くなろうとも決して忘れてはならない、冒険者としての絶対の鉄則であった。
そこまで語ると、マヤはふっと、それまでの冷徹な教官の顔を崩した。
「……とはいえ。説教はここまでだ」
マヤは肩に担いでいた棒をスッと懐にしまい、今度は極めて温かく、誇らしげな笑みを浮かべた。
「戦闘組。アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤ。一名の愚か者を除き、お前たちの動きは完璧だった。文句のつけようがない」
「えへへっ……!」
「マヤ様に褒められましたぁっ!」
名前を呼ばれた少女たちは、先ほどの緊張から一転、花が咲いたような笑顔を見せて胸を張った。
「それから……お前たち三幹部だ」
マヤの視線が、再びフィン、ガレス、リヴェリアへと向けられる。
三人は「まだ何か叱責されるのか」と身構えたが、マヤの口から出たのは予想外の言葉だった。
「先ほどの『罰』に対する、お前たちの俺への反応。……満点だ」
「「「……えっ?」」」
三人が呆けたような声を漏らす。
「フィン。お前は重い黒剣を持たされていて防御が間に合わなかったが、俺の殺気に対して最も早く筋肉を硬直させ、最小限のダメージで済む体勢を咄嗟に作っていた。いつもの槍を持っていれば、完全に反応して初撃を捌けていただろう」
「っ……!」
「ガレス、リヴェリア。お前たちも俺の神速の一撃に対し、即座に武器(斧と杖)を握り直すところまで反応が追いついていた。気が緩んでいたとはいえ、あの極限の奇襲に対して無意識下でそこまで動けるのは、お前たちがオラリオの頂点たる証だ。……よくぞここまで鍛え上げたな。文句のつけようがないさ」
オラリオ最強を育て上げた鬼の教官からの、これ以上ないほどの極上の賛辞。
「あ……」
「マヤ殿……」
「フッ……ワシらも、伊達に死線を潜っておらんということじゃな」
フィン、リヴェリア、ガレスの三人は、理不尽な激痛を腹の底に抱えながらも、どうしようもないほどの達成感と照れくささに襲われ、思わず頬を赤らめて視線を逸らした。あのマヤに『満点』と言わしめたのだ。これほどの誉れはない。
「そして、後方支援のポーション部隊。モブ共もよくやった」
マヤが後方の団員たちに視線を向ける。
「お前たちもただ怯えるのではなく、いつでも回復薬を投げられるよう前線の状況を注視していたな。見事だ」
「は、はいぃぃぃッ! ありがとうございますッ!」
モブ団員たちは、最強の男からの労いに感極まって涙ぐみながら敬礼した。
「ヴァレッタ。お前の荷物持ちと茶の用意も完璧だった。あの戦況下で、カップの紅茶を一滴も溢さなかったのは見事なバランス感覚だ」
「はひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
狂信メイドのヴァレッタに至っては、マヤからの直接の称賛を受け、顔面から蒸気を噴き出してそのまま昇天(気絶)しかかっていた。
全員が照れと歓喜に包まれ、ファミリアとしての強固な絆と温かさが37階層の冷たい空気を完全に塗り替えていく。
だが、その温かな輪の中で、たった一人。
ベート・ローガだけが、氷のように冷たい地面に這いつくばったまま、誰からも称賛されることなく、己の孤独と惨めさを噛み締めていた。
「……ベートについては、幹部に一任する」
マヤは、ベートを見下ろすことなく、フィンに向かって静かに告げた。
「このままじゃ、こいつは腐る。ファミリアから追い出してもいいぞ」
「お、おいだす……っ!?」
ベートが弾かれたように顔を上げる。その顔には、かつての傲慢さは微塵もなく、ただ縋るような絶望だけが張り付いていた。
「さっきも言ったが、戦場における『先行』は重い罪だ」
マヤの言葉は、冷徹な事実として空間に突き刺さる。
「『単独先行』と言えば聞こえはいい。勇猛果敢な狼のようにな。……だが、それを別な言葉に言い換えてみろ。戦場においては『独断専行』であり、『規律違反』となる。英雄気取りの暴走が、味方の連携を崩し、全員を危機に陥れる。それがどういうことか……上の立場になったお前たちなら、よく分かるはずだ」
フィンは重々しく頷いた。
「……ええ。冒険者において、独断専行は死に直結します。ベート、君の処遇については、帰還後に幹部間で厳密な会議を開く。覚悟しておきたまえ」
「っ…………」
ベートは唇から血が出るほど噛み締め、深く、深く頭を地面に擦り付けた。
言い訳など一つもできなかった。マヤの言う通り、自分の行いは英雄的行動などではなく、ただの利己的な規律違反だったのだ。俺のせいだ。俺の愚かさが、すべての空気を壊した。狂犬は初めて、己の弱さと真っ向から向き合い、慟哭のような後悔を抱えていた。
「……さて」
場の空気を引き締めるべきところは引き締め、褒めるべきところは褒めた。
マヤはパチン、と一度大きく指を鳴らし、全員の視線を自身へと集めた。
「お前たち幹部がその高みにいる以上、これからさらなる深層を目指すのは容易だろう。だが、絶対に慢心するな。強さとは、己を過信するためではなく、大切なものを守るためのものだ」
マヤは愛用のサバイバルナイフをくるりと回して鞘に納めると、ファミリアの全員を見渡し、この世で最も温かく、力強い声で言い放った。
「笑顔で戻ってこい。……何があっても、全員生きて、笑って俺の正妻(ロキ)の待つ家に帰るぞ。それが、俺たちロキ・ファミリアの絶対の掟だ」
「「「はいッッ!!!」」」
アイズたち少女の無邪気な声、幹部たちの力強い声、そして後方部隊の涙声が一つになり、37階層の玉座の間に高らかに響き渡る。
オッタルが焦りと孤独の中で停滞する一方で、マヤの理不尽なまでの愛と暴力によって鍛え上げられたロキ・ファミリアは、圧倒的な実力と、決して折れることのない強靭な結束を手に入れていた。
「さーて、帰ったらロキの奴を思いっきり甘やかしてやるか。あいつ、俺がいないとすぐ寂しがるからな」
オラリオの最強冒険者たちを震え上がらせる鬼の教官は、帰りを待つ愛しの正妻の顔を思い浮かべ、ただのデレデレの愛妻家へと戻りながら、迷宮の出口へと歩き出した。
彼らが歩むその道程には、もはやどんな深層の絶望も立ち塞がることはできない。
迷宮都市の歴史に燦然と輝く『黄金期』の伝説は、こうして数々の理不尽と愛に彩られながら、確固たるものへと昇華されていくのであった。