オラリオの北西に位置する、巨大な尖塔群を有するロキ・ファミリアの本拠地『黄昏館』。
深層37階層という死の領域からの遠征を終え、エントランスの大扉をくぐった一行を待っていたのは、オラリオ最大派閥を率いる主神の、間延びした呑気な声だった。
「おっかえり〜! みんな、怪我はないかー?」
ロキはソファーから勢いよく立ち上がると、満面の笑みでパタパタと駆け寄ってきた。その瞳は、帰還した団員たちの無事を確認すると同時に、一番に抱きしめてくれるはずの『最愛の旦那』の姿を無意識に探していた。
「んふふ〜、マヤ〜! お土産のジャガ丸くんは……あれ?」
ロキの足が、ピタリと止まる。
団長であるフィンを先頭に、ガレス、リヴェリア、そしてアイズやリリたち若手戦闘組。さらにはモブ団員たちや、縮こまっている狂犬ベート・ローガまで全員が揃っているというのに、ただ一人。彼女の絶対的な半身である、赤髪の青年の姿だけがどこにもなかった。
「…………フィン」
その瞬間。
黄昏館のエントランスを、絶対零度の冷気が撫でた。
先ほどまでデレデレに緩みきっていたロキの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引く。細められた朱色の瞳の奥に宿るのは、底知れぬ暗い光。それは、人間の妻が夫の帰りを心配するそれではなく、天界から下界の事象を俯瞰する『神』としての、異質で冷酷な眼差しだった。
「……マヤは、どこや」
地を這うような、底冷えのする声。
パルゥムでありながらオラリオ最強の団長たるフィンでさえ、その声色に含まれた本物の重圧に、背筋をゾクリと震わせた。
「……申し訳ありません、ロキ。マヤ殿は、街へ向かいました」
フィンは重苦しい息を吐き、静かに、そして正確に事の顛末を報告した。
深層37階層の玉座の間で起きた、ウダイオスの討伐。その最中にベート・ローガが手柄を焦り、陣形を無視して独断専行を行ったこと。それをリリが力ずくで制圧し、被害は出なかったものの、マヤが激怒したこと。
そして——『俺抜きでベートの処遇を決めろ』と言い残し、姿を消したこと。
「……なるほどな。階層主の御前で、独断専行(おイタ)をやらかしたと」
ロキは静かに呟くと、そのまま無言でエントランスを背にし、ファミリアの首脳陣が集まる執務室へと足を向けた。その後ろ姿が放つ「ついてこい」という無言の圧力に、フィン、ガレス、リヴェリアの三幹部は冷や汗を流しながら従うしかなかった。
執務室の重厚な扉が閉められた瞬間。
「この、どアホウどもがァァッ!!」
ロキの怒声が、部屋の空気を物理的にビリビリと震わせた。
「マヤが! わざわざ自分から大群(若手)を引率してダンジョンに潜るやなんて、初めての事やったんやぞ! 絶対に何か裏がある、イレギュラーの想定か慢心の戒めのための訓練やと、なんでお前ら上のモンが気づかんかったんや!」
ロキの叱責は、的確に彼らの『慢心』を抉り出した。
フィンたちは反論できなかった。実際、彼らはマヤという最強の盾がいることに安心し、ウダイオスが倒された瞬間に完全な油断を晒して、マヤの浸透の一撃(制裁)を受けていたのだから。
「フィン。黒剣を持たされてハンデを背負わされとったとはいえ、お前にもお前らの監督責任にも落ち度はあるで」
「……はい。それは確かに否めません。マヤ殿の真意に気づけず、下の暴走を未然に防げなかったのは、団長たる僕の失態です」
フィンが深く頭を下げ、ガレスとリヴェリアも沈痛な面持ちで同意する。
「マヤは『俺抜きで決めろ』言うた。つまり、お前ら(ファミリア)の自浄作用と、ウチの判断に委ねたんや。……リヴェリア、お前はどう思う」
水を向けられたハイエルフの王族は、静かに目を閉じ、考えを口にした。
「マヤはあの場において、はっきりとベートに告げていた。『次はないと思え』とな。もしマヤが本当に彼を不要だと切り捨てるつもりなら、その場でオラリオの地形ごと消し飛ばしていただろう」
リヴェリアはロキの瞳を真っ直ぐに見返す。
「私は、ベートの追い出しには反対だ。マヤの『次はない』という言葉は、逆を言えば『今回は(ギリギリの)猶予を与える』という意味合いだ。その意図を汲むべきだと思う」
「……せやな」
ロキはニヤリと、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「マヤが次はないと言った後に、ウチらが感情で追い出す。……これは、ウチらが試されとるんや。だから、追い出さん(ファルナ剥奪はしない)。ウチはあいつの正妻や。あいつの暴走のストッパーであり、一番の理解者でなきゃあかん」
だが、とロキは凄絶な笑みを深めた。
「罰は与える。ファルナ(神の恩恵)を刻んだまま、しばらく放牧する。この黄昏館の敷居はまたがさん。自力で野を生きろという試練や」
「なっ……」
ガレスが目を見開いた。
「ロキ、看板(ロキ・ファミリアの紋章)を背負わせたまま、あの狂犬を街へ放り出すというのか? それは不味いのではないか」
「私は賛成だ」
リヴェリアが即座にロキの意図を補足する。
「ベートは群れを成していなかった。今まで、自分がどれだけ恵まれた環境(最強の教官の庇護下)にいたのかを、彼は全く理解していなかったはずだ。どれほどマヤの稽古が厳しかろうと、オラリオの最強派閥でそれを無償で受けられることの意味を。……フレイヤ・ファミリアでも、似たような洗礼(野放し)は行われていると聞く」
「そういうこっちゃ」
ロキはソファーに深く腰を沈め、足を組んだ。
「放牧されて、自分で宿を借りるなり、その日暮らしの飯を食うなり、すべて一人で対処せなあかん。……せやけどな、マヤの理不尽なまでの強さの『片鱗』を味わった直後や。色々な人物が寄ってくるやろなぁ」
ロキの言葉に、フィンがハッと息を呑んだ。
「フレイヤ、イシュタル……情報を欲しがっている連中ですか」
「せや。なんでロキ・ファミリアの幹部が急に強うなったのか、なんでアイズやリリがあんなバケモノじみた力を手に入れたのか。……どこのファミリアも、マヤのことを『ウチの可愛いヒモ』やと思っとる。そりゃあええ。ウチがそう見せかけとるんやからな」
ロキの瞳が、底知れぬ悪意と愉悦に歪む。
「本質を見誤った者の末路が、あの狂犬(ベート)ちゅうこっちゃ。マヤの真の強さを知った今、アイツは情報を欲しがる連中からすれば極上の餌や。ソーマんとこのクズ共に拾われて、神酒(ソーマ)でも飲まされたら……おもろいことになりそうやなぁ?」
「内部情報を漏洩させるかどうかの、忠誠心の試練……」
フィンは戦慄した。酒癖が悪いベートの性質も相まって、最悪の事態は十分にあり得る。
だが、ロキはそれを承知の上で、盤上遊戯の駒のようにベートを街へ放り出そうとしているのだ。
「ガネーシャ・ファミリアのところに一時勉強という形で学ばせるのもありだと思ったのだがな。治安維持の仕事なら、あいつの気性も少しは落ち着くじゃろう」
ガレスが提案するが、ロキは首を振った。
「それも悪うない。だが、何を選ぶかはあいつ次第や。本来なら恩恵を外して物理的に追放してもおかしくない、それほどの愚行なんやからな」
その瞬間、幹部三人は冷や汗を流しながら悟った。
いつもマヤに抱きつき、デレデレといちゃついているだけの主神。しかしマヤが不在となった今、彼女がオラリオ最大派閥を率いる『神(トリックスター)』としての恐るべき本性を剥き出しにしていることを。
***
数分後、執務室に呼ばれたベートは、まるで死刑宣告を待つ罪人のように顔面を蒼白にしていた。
部屋には三幹部とロキ、そして今回の遠征に参加した若手たちが揃っていた。
かつての傲慢な狂犬の面影は、そこには微塵もなかった。
自身の才能への過信。それを粉々に打ち砕いた、リリの超絶的な速度と威力。アイズや双子たちが笑いながら階層主を解体していく異常な光景。そして何より、マヤが放った修羅の殺気と、フィンたちLv.8を軽々と沈めた絶望的なまでの『暴力の差』。
自分がどれほど滑稽な井の中の蛙であったかを思い知らされ、ベートのプライドはすでに修復不可能なほどにへし折られていた。
「……ベート」
静寂を破ったのは、普段は自ら口を開くことの少ないアイズだった。
彼女は能面のまま、一切の感情を交えない冷酷な瞳でベートを見据えた。
「リリが蹴っていなければ、マヤの言う通り、あなたはウダイオスに挽肉にされて死んでいた。……あなたが隊列を乱したせいで、マヤが私たちを庇うために動かなくちゃいけなくなるかもしれない。マヤの足手まといになるなら、いらない。……ほんと、ざっこ」
「ッ……!」
アイズのその言葉は、ベートの胸に致命傷となって突き刺さった。
「アイズ先輩の言う通りです。マヤ様の助言を理解できないものは、あの死地には不要です」
リリが冷たく同意し、ティオナとティオネも「マヤが怒るようなことするなんて、最低だね」と見下すような視線を向ける。
かつては「弱者」と見下していた少女たちからの、完膚なきまでの事実の突きつけ。
ベートはギリッと奥歯を噛み締め、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に耐えていた。
「さて、ベート・ローガ」
ロキが冷徹な声で告げる。
「お前の処遇やが。……お前には、ファルナを残したまま、しばらくの間『放牧』を命じる。黄昏館の敷居はまたがさん。マヤが帰ってくる前に、さっさと荷物をまとめて出て行け」
「ほ、放牧……!? 出て行け、だと……っ!?」
ベートが弾かれたように顔を上げる。
追放ではなく放牧。それはつまり、ロキ・ファミリアとしての加護を受けられないまま、オラリオの街で自活しろという過酷な宣告だ。
「ま、待ってくれ! 頼む、置いてくれ!!」
狂犬が、地に這いつくばって懇願した。
それは、かつての彼からは想像もできないほど惨めで見苦しい姿だった。
「俺が間違ってた! マヤのあの男の強さも、あいつの稽古の意味も……やっと、やっと分かったんだ! 俺にはあいつの教えが必要だ! だから、どうか頼む、置いてくれ! 俺にもあの稽古をつけてくれぇっ!!」
強さへの異常な渇望。
マヤという規格外の存在の『本物の強さ』を見せつけられた今、ベートにとってロキ・ファミリアから離れることは、最強への道を絶たれることと同義であった。プライドなどとうに粉砕されていた。這いつくばってでも、泥水を啜ってでも、あの絶対的な強者の背中を追いかけたかった。
だが——その哀れな懇願に対するロキの返答は、絶対零度の怒りだった。
「今更、アホンダラァッ!!!」
ドッゴォォォォォォンッ!!!
ロキの怒声と共に、部屋の空気が凄まじい質量を持って爆発した。
「なっ……!?」
「ヒッ……!!」
ベートのみならず、アイズやリリたちまでもが息を呑み、本能的な恐怖にすくみ上がった。フィンたち幹部でさえ、顔を青ざめさせて身構える。
それは、下界の理に縛られているはずの神の威圧(神気)が、制限の枠を超えて漏れ出した本物のプレッシャーだった。
普段の、マヤの腕の中で蕩けるように笑っている少女の面影など一ミリもない。そこにあるのは、オラリオの頂点に君臨する神としての、絶対的な畏怖の象徴。
「お前、自分が何言うとるか分かっとるんか!? 圧倒的な力(片鱗)を見せつけられたから『お願いします』やと!? 舐め腐っとんのか!!」
ロキの朱色の瞳が、見下すようにベートを射抜く。
「アイズも、リリも、双子も、レフィーヤも! フィンたちかてそうや! マヤの理不尽な暴力を前にしても、歯ァ食いしばって、血ィ吐いて、必死に食らいついてあそこまで行ったんや! お前は何年、ウチのファミリアでふんぞり返って舐め腐っとったんじゃ!!」
「あ、が……っ」
ベートは完全に言葉を失い、圧倒的な神威の前に、ただガタガタと震えることしかできなかった。
「マヤはな、お前みたいな『力を笠に着て孤立するアホ』が一番嫌いなんや。お前のその甘ったれた根性が治らん限り、マヤがお前に稽古をつけることなど天地がひっくり返ってもありえへん」
ロキは冷酷に言い放ち、最後に宣告した。
「さっさと失せろ。野垂れ死のうが、他のファミリアに尻尾を振ろうが、お前の自由や。……せやけどな、もしウチのファミリアと、ウチの愛する旦那(マヤ)の顔に泥を塗るような真似をしたら……お前、自分の魂ごと消滅すると思えよ」
絶対的な神の裁定。
マヤという最強のストッパーが不在となった黄昏館の執務室は、ロキの放つ凄絶な神気によって満たされ、誰一人として言葉を発することができないまま、重苦しい静寂の中で幕を閉じた。