迷宮都市オラリオの夕闇が濃くなり、街のあちこちで魔石灯が温かな光を灯し始める頃。
冒険者たちの喧騒と美味そうな料理の匂いが入り交じる人気酒場『豊穣の女主人』の片隅で、マヤは一人、のんびりとエールが入った木組みのジョッキを傾けていた。
ロキ・ファミリアの本拠地である黄昏館が、先ほどの深層でのやらかし(狂犬の暴走)と、それに伴う自分自身の突然の失踪によって、ピリついた空気に包まれていることは容易に想像がつく。
だが、マヤはあえて席を外していた。
ファミリアの内部事情、特に「独断専行という最大の規律違反を犯した者の処遇」について、教官である自分がしゃしゃり出て決定を下すのは筋違いだからだ。組織の規律を守り、罰を与えるのは、主神であり最大のストッパーであるロキの役割。マヤは彼女の『神としての底知れなさ』を誰よりも信じていた。
「あら、マヤさん! 今日は一人で来てくれたのね。ふふっ、嬉しいわ」
心地よい喧騒の中、銀色の髪を揺らしながら歩み寄ってくる一つの影。
『豊穣の女主人』の看板娘であるシルだった。彼女は薄灰色の可愛らしいメイド服に身を包み、純朴な町娘そのものの笑みを浮かべてマヤの正面の席へと腰を下ろした。
(……なんでこいつ、いつもこんなことしてるんだ?)
マヤはジョッキを置き、目の前で嬉しそうに微笑むシルを見つめながら、心の中で
呆れたように溜め息をついた。
マヤの極限まで鍛え上げられた忍の感覚と観察眼は、彼女の『本質』をとうの昔に見抜いていた。言葉の端々に滲む隠しきれない高貴さ、そして何より、周囲の空間すらも無意識に魅了してしまいそうな、圧倒的で異質な気配。
だが、マヤはその正体を口にすることはない。相手が「シル」という町娘の殻を被って接してくる以上、自分もただの客として振る舞うのが大人の流儀というものだ。
「ああ。たまには外食をしたくてな。……しかし、シル。お前は本当に可愛いな?」
マヤは頬杖をつき、甘く、それでいて真っ直ぐな瞳でシルを見つめた。
敵意も、警戒もない。ただ純粋に、目の前にいる『美しい町娘』を口説くような雄の視線。
「えっ……か、可愛いだなんて……。あははは、もう、マヤさんったらからかわないでくださいよ」
シルは頬をほんのりと朱色に染め、照れたように身をよじった。
だが、その銀色の瞳の奥では、探るような光が明滅していた。
「それよりも……何かあったの? いつもはロキ・ファミリアの皆さんと一緒か、お買い物袋を提げているのに。今日はなんだか、一人で考え事をしているみたいだったから」
(なるほど、探りを入れてくるか)
オラリオ最大派閥の裏側を嗅ぎ回ろうとする、甘い罠。
マヤは口角を少しだけ上げると、テーブルの上でモジモジと指を絡ませていたシルの両手を、自身の大きな手でそっと包み込んだ。
「ひゃっ……!?」
突然の接触に、シルが素っ頓狂な声を上げる。
「あったな。……だが、今お前みたいな可愛い子と一緒に飯が食えてるんだ。最高にいいことがあったってことだな」
「マヤさん……」
シルが上目遣いでマヤを見つめる。
マヤは彼女の手を優しく撫でながら、自嘲するように、しかし微塵の恥じらいもなく言い放った。
「俺はな、ロキがいないとダメな男だからぇ〜。フィンたちが命懸けでダンジョンに潜って稼いだ金で、毎日あったかい布団で食っちゃ寝の日々だ。いやー、神に惚れられるってのも辛いねぇ〜。ロキじゃなかったら、こんな優雅な生活はできねーだろうな。本当に、ロキはいい女だぜ」
ケラケラと、底抜けに明るく笑うマヤ。
それは事実だった。ロキという絶対的な居場所(ストッパー)がなければ、マヤの精神はとっくに修羅の道へと堕ちていた。そして、ファミリアの莫大な稼ぎの恩恵に預かり、表向きは家事だけをしている専業主夫であることも事実だ。
マヤは一切の嘘をついていない。
だが、それを聞いたシル——そして、周囲の耳にはどう響くか。
『女の稼ぎに寄生し、他人の命懸けの金で遊び呆けている、正真正銘のクズなヒモ男』。
見事なまでのミスリードであった。
(え……?)
シルの笑みが、ほんの一瞬だけ引きつった。
彼女の持つ、対象の魂の色(本質)を正確に見透かす『眼』。その眼に映るマヤの魂は、彼が口にしている最低なヒモ発言とは裏腹に、一点の曇りもない純粋な愛と、圧倒的な光り輝く気高さに満ちていたのだ。
言葉はクズそのものなのに、魂には打算も嘘も、微塵の濁りもない。
その凄まじい矛盾に、シルは頭の中を激しくかき乱されていた。
(な、何なのこの人……。どうして、こんな言葉を吐きながら、魂があんなにも美しいの……?)
シルの表情に生じた微かな動揺。厨房の奥から、女将のミアが「おいシル、仕事しろ」と口を挟もうと大股で歩み寄ってきたが、シルは背中に目をつけたかのような鋭い視線(サイン)を飛ばし、ミアの足をピタリと止めさせた。
シルは深呼吸をして動揺を隠し、再び純朴な笑みを浮かべてマヤの顔を覗き込んだ。
「マヤさん、そんなこと言って……神様が好きなんですか? オラリオには他にも、素敵で美しい神様がいっぱいいるじゃないですか」
それは、ギリギリの誘導。
オラリオで最も美しく、すべての者を虜にする美の象徴。そんな存在への興味はないのかという、シル自身のプライドを懸けた探り。
マヤはシルの言葉を聞き、面白そうに目を細めた。
「素敵ねぇ……。俺は、シルのほうがいいなって思うわ。まー、その辺は色々あらーな」
マヤの思考は単純明快だった。
『打算にまみれて他者を盤上の駒のように扱う神の姿より、演技であっても、今目の前にいる純朴な町娘(シル)の姿のほうがよっぽどマシで可愛い』という意味である。
だが、その真意が伝わるはずもない。
「え……っ」
シルは目を見開いた。
神である自身の美しさよりも、この作られた町娘(シル)の姿のほうが好みだと言われたのだ。
(この人は……私の正体に気づいていない? それとも、気づいた上で『神』である私より、『人』としての私を愛おしいと言ってくれているの……?)
シルの胸の奥で、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
マヤの何気ない言葉は、彼女の『マヤを手に入れたい』という異常な執着を、さらに深く、熱く、狂おしいものへと煽り立てる結果となってしまった。
一方その頃。
『豊穣の女主人』の窓の外、暗い路地裏の影から、その様子を鋭い眼光で監視している二つの影があった。
「……チッ。あの野郎、ウチのシルに気安く触りやがって」
猫人(キャットピープル)の青年、アレンが忌々しげに舌打ちをする。
「なんだあいつは。オラリオ最強のファミリアの幹部が急成長した裏には、あの赤髪の男が絡んでいると聞いて監視に来てみれば……ただ女の稼ぎで飯を食い、あまつさえ別の女の口説いているただのナンパ野郎のヒモじゃないか」
「…………」
隣で腕を組む巨漢、猪人(ボアズ)のオッタルもまた、険しい顔で酒場の中を睨みつけていた。
「主神のお言葉では、底知れぬ実力を持つ男とのことだったが……今の姿を見る限り、武人の覇気も、強者の警戒も一切感じられぬ。本当に、ただのヒモ男に見えるな」
彼らには、マヤが完全に気配と闘気を『ゼロ』にまで抑え込んでいる状態(忍としての絶技)を見抜くことができなかった。
シルの手を握り、下劣なヒモ発言を繰り返すマヤの姿は、オッタルとアレンに「マヤはただのクズ男であり、脅威ではない」という致命的な見誤り(誤認)を植え付けるには十分すぎた。
マヤの計算されたミスリードは、最高の結果をもたらしつつあった。
***
酒場での腹の探り合いを適当に切り上げ、マヤは夜風に当たりながら黄昏館への帰路についていた。
石畳の道を歩き、ファミリアの巨大な鉄門が見えてきたところで、マヤの足が止まった。
門の外。暗い街灯の下で、項垂れるようにして立ち尽くしている人影があった。
ベート・ローガだった。
彼の背中には大きな荷物袋が背負われている。ロキによって『放牧(事実上の追放)』を宣告され、黄昏館の敷居を跨ぐことを禁じられた狂犬は、行くあてもなく、ただかつての居場所の門前で亡霊のように立ち尽くしていたのだ。
「…………」
マヤの足音に気づき、ベートがビクッと肩を震わせて振り向く。
その顔は蒼白で、両目には後悔と絶望の色が濃く滲んでいた。マヤの圧倒的な強さの片鱗を味わい、己の愚かさによってすべてを失った彼は、マヤの顔を見た瞬間、何かを懇願しようと口をパクパクと動かした。
(頼む、俺を見捨てないでくれ。強くなりたいんだ……)
声にならない声が、ベートの表情から痛いほどに伝わってくる。
だが、マヤは歩みを止めなかった。
懇願しようとするベートの横を、一切の感情を交えない冷たい横顔で通り過ぎる。
「ま、マヤ……っ!」
耐えきれずにベートが手を伸ばそうとした、そのすれ違いざま。
「這い上がってこい」
夜風に紛れるような、低く、しかし力強い一言。
「え……?」
ベートが目を見開いて振り返った時には、マヤはすでに鉄門を押し開け、黄昏館の敷居を跨いでいた。
突き放すような言葉。だが、そこに込められた『見限ってはいない』という微かな期待の響きに、ベートは伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、ギリッと奥歯を噛み締めて夜の闇の中へと消えていった。
「……マヤ」
門をくぐり、庭園を抜けてエントランスの扉を開けた瞬間。
マヤの胸元に、小さな身体が勢いよく飛び込んできた。
「おわっ」
マヤがしっかりと抱きとめたのは、オラリオ最大派閥を率いる主神、ロキだった。
「マ、マヤぁ……っ、遅い、遅いんや……っ」
いつもの能天気な様子はどこへやら、ロキはマヤの胸に顔を埋め、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくっていた。
マヤが意図的に席を外し、処遇を丸投げした意味。
それは、ロキに『神としての非情な裁定者(汚れ役)』をやらせるということだった。
ファルナを刻んだままの放牧。それは追放以上に過酷であり、一つ間違えればベートが命を落とすか、最悪の形でファミリアを裏切る可能性すらある危険な盤上遊戯。
ロキはマヤの意図を完璧に汲み取り、幹部たちの前で恐るべき神威を放って見せた。だが、その裏で彼女の心は「マヤの期待に応えられたか」「やりすぎではなかったか」という不安と重圧で押し潰されそうになっていたのだ。
「ロキ……」
マヤは、震えるロキの背中を大きく温かい手で包み込んだ。
周囲を見渡せば、フィン、ガレス、リヴェリアの三幹部を筆頭に、アイズやリリ、若手戦闘組からモブ団員に至るまで、ファミリアの全員がエントランスに集まり、温かい眼差しで二人の帰還を見守っていた。
誰一人欠けることなく、無事に生きて帰ってきた家族の姿がそこにあった。
「……よくやってくれた。お前は、最高の主神だ」
マヤは優しく微笑むと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしているロキの顎を指ですくい上げ、その薄い唇に、深く、甘いキスを落とした。
「んっ……ぁ……」
突然の口付けに、ロキが驚きに目を瞬かせる。
周囲の団員たちから「ひゃあああっ!」「マヤ様の大胆なキス……っ!」と歓声と悲鳴が上がる中、マヤは唇を離し、ロキの耳元でただ一言、心からの言葉を紡いだ。
「ありがとう。俺の汚れ役を引き受けてくれて」
その言葉に、ロキの瞳から再び大粒の涙が溢れ出した。
「ば、ばかぁ……っ、ウチは正妻やぞ……旦那のやりたい事くらい、全部お見通しなんやからな……っ!」
ロキは照れ隠しのようにマヤの胸をポカポカと叩きながら、再びその温かい腕の中へと強く抱きついた。
「おかえりなさい、マヤ殿」
フィンが柔らかな笑みを浮かべて声をかけ、アイズたちが「マヤ、おかえりー!」と嬉しそうに駆け寄ってくる。
黄昏館は、最強にして最高の『家族』の温かな光と笑い声に包まれていた。
……だが。
その光と熱を、鉄門の隙間から遠巻きに見つめている影が一つ。
暗い路地裏で一人、重い荷物を背負ったベートは、光り輝くエントランスの中で笑い合うファミリアの姿——自分がいるはずだった『居場所』の光景を、血の涙を流すような思いで見つめていた。
(俺は……なんて馬鹿なことを……)
最強の教官、絶対的な主神、そして共に背中を預けられる仲間たち。
自分が失ったもののあまりにも巨大な喪失感に、ベートの胸は引き裂かれそうだった。
だが、すれ違いざまにマヤから投げられた「這い上がってこい」という一言だけが、今の彼を辛うじて立たせる唯一の熱として、魂の奥底で燻っていた。
狂犬は最後に一度だけ、まぶしい光に満ちた黄昏館を深く目に焼き付けると、自らの弱さと向き合うため、オラリオの漆黒の闇の中へと一人、歩みを進めていった。