迷宮都市オラリオの北西にそびえ立つ、巨大な尖塔群を有するオラリオ最大派閥の拠点『黄昏館』。
よく晴れた日の午後、その堅牢な鉄門の前に、二人の来訪者が静かに佇んでいた。
一人は、深い知性と近寄りがたいほどの気高さを漂わせる銀髪の美しい女性。
もう一人は、真っ直ぐな赤い瞳を持ち、どこか緊張した面持ちで立派な門を見上げている白髪の少年だった。
門番の知らせを受け、エントランスに出向いたロキ・ファミリアの三首領——フィン、ガレス、リヴェリアの三人は、その銀髪の女性の姿を認めた瞬間、大きく目を見開いて硬直した。
「……まさか、本当に。あの『静寂』のアルフィアか……?」
フィンが信じられないものを見るように、小さく声を漏らす。
マヤから以前、「アルフィアは生きている」という事実は知らされていた。しかし、実際に目の前に立つ彼女は、かつてオラリオ中に知れ渡っていた不治の病に侵された青白い姿ではなく、全盛期をも凌駕するほどの生命力と美しさに満ち溢れていたからだ。
「やあ、ロキ・ファミリアの首脳陣。久しぶりね。……随分と立派になったじゃない」
アルフィアは余裕のある、それでいて微かに柔らかな微笑みを浮かべて彼らに声をかけた。
「あ、ああ……君も。病が完全に癒えたと聞いてはいたが、こうして直接姿を見ると、言葉を失うな。マヤ殿の治癒魔法は、本当に規格外だ」
フィンがパルゥム特有の愛想の良い笑みを浮かべて応じる。
「立ち話もなんだ、とりあえず中へ入ってくれ。マヤ殿も、ロキも中にいる」
「がははっ、まさかお主がウチの敷居を跨ぐ日が来るとはな。歓迎するぞい」
ガレスも豪快に笑いながら道を空け、リヴェリアが静かに頷いて二人を館の奥へと案内した。
豪華なシャンデリアが下がるエントランスホールを歩きながら、隣の白髪の少年——ベル・クラネルは、見るものすべてに目を輝かせていた。
(ここが、マヤさんがいるオラリオ最大のファミリア……! すごい、みんな強そうな人ばかりだ……!)
ベルの胸の高鳴りが最高潮に達しようとした時、奥の広間から、ひどく間延びした、しかし隠しきれない警戒心を孕んだ声が響いてきた。
「んん〜? なんやなんや、ウチの可愛いマヤに会いに来たお客さんっちゅうのは……って」
ソファーにだらしなく座っていたロキが、アルフィアの姿を認めた瞬間、ピタリと動きを止めた。
「あら。相変わらず、貧相な体をしているわね。オラリオ最大の主神が聞いて呆れるわ」
「なんやとコラァ! いきなり喧嘩売っとんのか泥棒猫!」
バチバチと、二人の間に火花が散る。
アルフィアは全く意に介さず、涼しい顔で懐から大切に保管していた一通の封筒を取り出した。
「別に喧嘩を売りに来たわけじゃないわ。……マヤ、ヘラ様から手紙を預かってきたわ。直接、あなたに渡すようにとね」
その言葉を聞いた瞬間、ロキの脳裏に、かつてゼウスから泣きながら報告を受けた『あの日の出来事』が鮮明に蘇った。
自身の愛する旦那が、ヘラの手の甲に口づけをして「素敵な君」と口説いた、あの忌まわしき記憶。
「あンの時の色ボケ神かァァァッ!!」
ロキが顔を真っ赤にして凄む。その怒りの矛先は、手紙の主であるヘラだけでなく、目の前で涼しい顔をしているアルフィアにも向けられていた。
「なんやねん! 今更手紙やて!? あん時もあん時やけど、お前ら女ども、ウチの旦那にいつまでも色目使ってんちゃうぞコラァ!!」
蒸し返された強烈な嫉妬心。ロキは犬歯を剥き出しにしてアルフィアに威嚇のポーズをとる。
その修羅場を横目に、当の本人であるマヤは、ソファーからゆっくりと立ち上がり、アルフィアの手から封筒を受け取った。
「そうか。ロキ、すまないが、手紙は受け取らせてもらう。約束したからな」
マヤは極めて真面目な顔で、しかし悪びれる様子は一切なく告げた。
彼は義には礼を、真実には敬意を払う男だ。あの時、ヘラをゼウスの呪縛から解き放つために取った行動に、男としての微塵の後悔もない。
「な! な! むぅ〜〜〜ッ!」
ロキが地団駄を踏みながら、マヤの袖を力強く引っ張る。
「え、ええよ! 取り敢えず、手紙だけやで! 手紙だけ! ……でも、最近色々あって、ウチさみしなったなぁ〜。チラチラッ」
ロキはあからさまな嘘泣きのポーズを取り、上目遣いでマヤの顔を覗き込んだ。
正妻としての絶対的なアピール。
マヤはそんなロキの様子を見て、小さく息を吐き出すと、無言で彼女の細い身体を引き寄せ、その腕の中にすっぽりと抱きしめた。
「んんっ……!」
「ったく、お前は本当に可愛いな。安心しろ、俺の正妻はお前だけだ」
「えへへぇ……マヤぁ〜……」
マヤの温かい体温と、頭を撫でる大きな手に、ロキの怒りは一瞬にして氷解し、蕩けるようなだらしない笑顔(にやにや)へと変貌した。
(おお……っ!)
その一部始終を、少し離れた場所から見ていたベル・クラネルの赤い瞳は、感動と興奮でキラキラと輝いていた。
(すごい……! あれほど美しくて強いアルフィア叔母さんやヘラ様といった女性たちを惹きつけながらも、一切のブレなく正妻の嫉妬を受け止め、一瞬で笑顔にしてしまう……! これが、真の漢(英雄)の振る舞い……っ!)
ベルの心の中で、幼い頃からヘラやアルフィアに叩き込まれてきた「マヤ至上主義の漢の教育」が、目の前の現実と完璧にリンクしていた。ゼウスが語っていた下劣なハーレム思想など、彼の頭の中には一ミリも存在しない。
ベルは、自身の内に燃え上がる熱い衝動を抑えきれず、マヤの前に進み出ると、勢いよく深々と頭を下げた。
「マヤさん! 僕はベル・クラネルと言います! ずっと、ずっとあなたに憧れてきました! お願いです、僕をマヤさんのファミリアに入れてください! 弟子にして、漢の生き様を教えてくださいッ!」
少年から放たれた、純度百パーセントの真っ直ぐな熱意。
広間にいたフィンやアイズたちも、そのあまりにも純粋な眼差しにハッと息を呑んだ。
だが、マヤの答えは、静かで、冷徹な事実の提示だった。
「……ここは、俺の団ではないさ」
マヤはロキの頭を撫でたまま、ベルを見下ろして淡々と告げた。
「俺はあくまで、このロキの旦那(ヒモ)だ。このファミリアの主神はロキで、団長はフィンだ。俺は家事をしてるだけで、ファミリアの運営には何も口出ししちゃいねーよ」
「そ、そんな……! でも、マヤさんはオラリオで一番——」
「いいか、ベル」
マヤはベルの言葉を遮り、鋭く、しかし確かな熱を帯びた深紅の瞳で少年の真っ直ぐな目を射抜いた。
「女や子供なら、俺がこの温室(ファミリア)でいくらでも匿ってやるし、命の保証もしてやる。……だが、お前は男だ」
その言葉の重みに、ベルの肩がビクリと震える。
「男なら、自分の足で泥水をすすって這い上がれ。俺の背中に隠れて、最初から守られた安全圏で剣を振ってるうちは、お前は絶対に『本物』にはなれない。俺の真似事をしてるうちは、俺を超えることなんて一生不可能だぞ」
突き放すような、厳しい言葉。
しかし、その奥には、一人の男として、ベルという少年の可能性を誰よりも信じているからこその『期待』が込められていた。
「強くなりたきゃ、孤立無援の野に下れ。そこで自分だけの『守るべき女(正妻)』を見つけて、自分の命を懸けてそいつを笑わせてみせろ。それができなきゃ、漢じゃねぇ」
マヤは、ふっと口角を少しだけ上げ、優しい声で付け加えた。
「でもな、ベル。……お前自身がどこかの団長になって、自分だけの『英雄』を目指すのは、決して悪くねぇよな?」
「ッ……!」
マヤの言葉が、ベルの魂の最も深い部分に突き刺さった。
弟子になること、守ってもらうことを望んでいた自分の甘さを粉砕され、同時に「お前ならできる」と背中を力強く押されたのだ。
「……はいッ!」
ベルは、溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、真っ赤になった目で、もう一度深く、深く頭を下げた。
「僕、自分の足で立ちます! 泥水をすすってでも這い上がって……絶対に、マヤさんの隣に立てるような『本物の英雄』になってみせます!」
その強靭な決意の光に、アイズも、リリも、フィンたち幹部も、思わず温かい笑みをこぼした。
「……楽しみにしてるぜ、白兎」
マヤは満足げに頷き、ロキの頭をポンポンと叩いた。
「さて、と。立ち話もなんだし、ここらでお茶にしようぜ」
「はいぃぃぃっ! マヤ様、皆様! 最高級のダージリンと、マヤ様特製のパウンドケーキをご用意いたしましたぁぁっ!」
マヤの言葉を待っていたかのように、狂信メイドのヴァレッタが、凄まじい手際でワゴンを押して広間に現れた。純白のテーブルクロスが敷かれ、美しい陶器のティーカップから芳醇な香りが立ち上る。
「うむ。相変わらずヴァレッタの淹れる茶は絶品だな」
マヤが褒めると、ヴァレッタは「ひゃわぁぁぁっ!」と奇声を上げて身悶えし、アルフィアは「……相変わらず、メイドの教育も規格外なのね」と呆れたようにため息をついた。
和やかなティータイムが始まり、ベルはヴァレッタの淹れた紅茶の美味しさに目を丸くしながらも、その胸の中では先ほどのマヤの言葉を何度も、何度も反芻していた。
「さて、アルフィア」
マヤがティーカップを置き、正面に座る銀髪の女性へと視線を向ける。
「病が治ったとはいえ、お前ほどの元・怪物がオラリオをウロウロするのは色々と問題がある。……これからの身の振り方について、話し合おうか」
マヤのその一言から、過保護すぎる叔母の処遇を巡る、ロキ・ファミリアとアルフィアの奇妙な話し合いが幕を開けるのであった。