最高級のダージリンの香りが漂う黄昏館の広間。
ヴァレッタの手によって完璧にセッティングされたティータイムの席は、オラリオ最大派閥の首脳陣と、かつての『静寂』、そして一人の純真な白兎が囲むという、極めて異質な空間となっていた。
「……というわけで、私はベルがどこのファミリアに入ろうと、この子についていくつもりよ。私が共にダンジョンへ潜り、階層をすべて更地にすれば、この子は指一本怪我をすることなく安全に冒険者になれるわ」
優雅にティーカップを傾けながら、アルフィアが至極当然のように言い放った。
その瞬間、ティーカップを持っていたフィン、ガレス、リヴェリアの三幹部が同時に「ブッ」と紅茶を吹き出しそうになる。
「更地、だと……?」
「ダンジョンをなんだと思っとるんじゃ、この女は……」
ベル・クラネルという少年の自立を促したマヤの言葉には賛同したアルフィアだったが、彼女の『甥っ子への過保護ぶり』は常軌を逸していた。自分を不治の病から救ってくれたマヤへの恩義や微かな恋心とは別に、姉の忘れ形見であるベルの身の安全に関しては、完全に理性のタガが外れているのだ。
「叔母さん……っ! それじゃあ僕、いつまで経っても強くなれないよ! マヤさんに言われただろ!? 男なら自分の足で泥水をすすって這い上がれって!」
ベルが顔を真っ赤にして抗議するが、アルフィアは涼しい顔だ。
「泥水など啜らなくていいわ。私がすべて浄水してあげる。マヤの言う『男の流儀』は立派だけれど、怪我をするのは別問題よ」
過保護極まりない叔母の暴走。ベルが涙目でマヤに助けを求める視線を送る。
マヤは一つ深いため息をつくと、残っていたパウンドケーキを一口で放り込み、真っ直ぐにアルフィアを見据えた。
「単刀直入に言うぞ、アルフィア」
マヤの低く、静かな声が響くと、広間の空気が一瞬にして引き締まった。
「お前、この館に住め」
「……は?」
アルフィアが目を丸くし、隣でロキが「ふぎゃっ!?」と変な声を上げた。
「さっきは『俺の団じゃない』と言ったが、オラリオ最大派閥って名目でお前を保護する。……ベルについていくことは許さねぇ」
マヤは理詰めの刀を抜くように、淡々と事実を並べ立てた。
「元・怪物が、新人の狩り場をウロウロすんな。お前の力は過保護すぎる。ベルの成長の絶対的な邪魔だ。それに、考えてみろ。お前たちゼウスとヘラの両陣営は、黒龍討伐に失敗して表舞台から消え、里へこもったことになっている」
フィンが、ハッと息を呑む。
マヤの言う通りだ。世間的には、アルフィアたちは黒龍との戦いで敗走し、壊滅したことになっている。(その実態が、マヤという赤髪の鬼一匹に完膚なきまでにへし折られ、治療まで施されて田舎に隠居させられたという事実は、この場にいるごく一部しか知らない)。
「つまり、お前とベルの関係は、世間に見せちゃいけねぇんだよ」
マヤの深紅の瞳が、鋭く光る。
「もし、ベルが『静寂のアルフィアの甥』だと知れ渡ってみろ。お前をおびき出そうと、ベルを人質にとる阿保な残党や、情報を欲しがる連中が必ず出てくる。お前が常に隣にいれば、ベル自身の力でそれを退ける機会すら奪うことになる」
「それは……っ」
アルフィアが言葉に詰まる。甥の安全を第一に考える彼女にとって、自身の存在が逆にベルを危険に晒す、あるいはベルの成長の芽を完全に摘み取ってしまうという論理は、最も効く猛毒だった。
「だから、お前はここで大人しく茶でも飲んでろ」
マヤはポンと、黄昏館のソファーを叩いた。
「ま、待てやマヤァッ!」
ここで我慢の限界に達したロキが、テーブルに身を乗り出して叫んだ。
「な、なんでこの泥棒猫がウチの館に住み着くことになんねん!? 冗談やろ!? 手紙だけや言うたやんか! なんでまた女が増えるんや!?」
ロキの嫉妬のレーダーが限界突破し、ギャーギャーと騒ぎ立てる。
だが、そのロキの抗議を止めたのは、他ならぬ団長のフィンだった。
「いや、ロキ。……マヤ殿の提案、僕は飲んでいただきたい」
「ふぇっ!? フィ、フィンまで何言うとんの!?」
「リヴェリア、ガレス。君たちも同じ意見のはずだ」
フィンが目配せすると、リヴェリアが重々しく頷いた。
「一理ある。いや、理に叶いすぎている。……見たところ、アルフィアのベルに対する過保護ぶりは病的だ。彼女にダンジョンへ同行されて階層を更地にされては、ダンジョンの生態系や他の冒険者への影響が計り知れない。何より、ベルの自立の妨げになる」
ガレスも腕を組んで頷く。
「ロキ・ファミリアという看板で彼女を『客』として保護し、ここに軟禁しておくのが、オラリオの治安維持のためにも一番安全じゃ。バカな奴らが黒龍失敗だなんだと嗅ぎ回ろうが、ウチの防壁(マヤ殿)を突破できる者などおらんからな」
幹部三人のあまりにも冷静かつ完璧な計算。
自分以外の全員が「アルフィアの同居」を肯定する流れになり、ロキは顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「うぅ……っ。お前らまでマヤの味方すんのか……! マヤのばかぁ……またええ女囲って……ウチのことなんか……っ」
嫉妬でいつもの冷静な判断力が鈍り、完全にただの拗ねた嫁と化しているロキ。
それを見たマヤは、苦笑しながら立ち上がり、ロキの細い身体を優しく抱きしめた。
「ロキ。大丈夫だ。お前が一番の正妻だろ?」
「う、うぅ……っ」
「どーんと構えてろ。俺の帰る場所は、お前の笑顔の場所だけさ」
マヤの大きく温かい手が、ロキの背中を優しく撫でる。
「それに、俺の特性は知ってるだろ? 『一夫多妻』ってやつだ」
その瞬間、広間がシンと静まり返った。
ベルは「いっぷたさい……!?」と目を丸くし、アルフィアの頬がカッと朱に染まる。
マヤは全く悪びれず、抱きしめたロキの耳元で囁いた。
「俺の中の闘争本能……修羅の業の重圧を分担するため、お前を物理的に壊さないために、俺にはそれが必要だ。……でも、それはお前が『認めたら』いいことになってる。お前を通さない女は抱かない。そうだろ?」
とんでもない爆弾発言。
夜の寝室で、二人の間だけで交わされた『重い真実』と『命懸けの懇願』。それをこの公の場で、堂々と肯定してみせたのだ。
ロキは実際にその条件を認めている。認めているが、こうも目の前で真っ直ぐに言われると、怒りも嫉妬も全てが吹き飛んでしまう。
「ほんま……そういうとこやで、お前は……っ」
ロキは涙目でマヤの胸をポカポカと叩きながら、最後にはギュッと力強く抱きついた。
「もう……でも、大好き。ウチが一番やからな! 少しでもウチを蔑ろにしたら、噛み殺すからな!」
「ああ、わかってるよ」
完全にマヤの手のひらの上で転がされ、懐柔される主神。
その夫婦の圧倒的な絆と、マヤの『女の笑顔を守るためなら己の業すらも曝け出す』という規格外の器の大きさに、アルフィアはポカンと口を開け、ベルに至っては震えるほどの感銘を受けていた。
「ここなら、他の派閥も邪魔できない。お前は『客扱い』でいいだろ?」
マヤはアルフィアに向き直り、優しい笑みを向けた。
「お前は今まで、病と戦い続けてきたんだ。もう戦わなくていい。縁側にでも座って、ヴァレッタの茶でも飲みながらゆっくり休んでろや。……遊べなかった時間を、ここで取り戻せ」
その言葉に、アルフィアの瞳からツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「マヤ……あなたって人は、本当に……」
「甥っ子に頼りきりになるのは、女として格好悪いぞ。ベルのことは、男として信じてやれ」
「ええ……ええ、そうね。分かったわ。私はここで、美味しいお茶を飲みながら……あの子の帰りを待つことにするわ」
最強の元・怪物が、ついに剣を置き、一人の女性として平穏な時を過ごすことを受け入れた瞬間だった。
「すごい……」
ベルはただただ、圧倒されていた。
言葉と、理屈と、そして底なしの優しさで、周囲のすべてを笑顔に変え、最適な場所に収めていく。
これが、マヤという男の流儀。
「そして、ベル。お前に助言だ」
マヤはロキを抱いたまま、目を輝かせているベルへと視線を向けた。
「俺は、ロキを見たのはお前が生まれる前だ。そう、こいつが天界から下りてきたばかりで、オラリオの片隅で一人でいやがった時だ」
マヤは愛おしそうに、昔を懐かしむように語り始めた。
「その時、こいつの胸が真っ平らだったから、最初は男かと思ったよ。でもなぁ、こいつを見た瞬間、『あ、こいつだな』って直感で思ったもんだ」
「マヤ、ウチの胸板の話は今せんでもええやろ!」とロキが抗議するが、マヤは笑って続ける。
「そして話をしたら、こいつ、初対面の俺に何て言ったと思う? 『おい兄ちゃん、ウチの旦那になりなはれ』って、いきなり逆プロポーズしてきやがったんだよ」
「ええっ!?」
ベルが驚きの声を上げる。
「で、俺はこう返した。『俺の子を産むならいいぞ』ってな。そうしたら、こいつ……」
マヤの脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
「『神様舐めんなよ!』って、最高にいい笑顔で笑い返してくれたんだ。すげーいい笑顔だったよ。……俺は、泣いた女の顔は見たくねぇ。だからこそ、あの笑顔を守りたいと心の底から思ったんだ」
マヤの顔に、無邪気な少年のように、宝物を見つけた時のような特大の笑顔が浮かんだ。
誰もが息を呑むほどに眩しい、純粋な愛の形。ここまで女の笑顔にこだわり、愛し抜く男の生き様。
「神ってのはな、会った瞬間に何か波長が合うもんさ。オラリオには、星の数ほどの神がいる。その中で、お前の魂と波長が合う神を見つけてみるのもいいんじゃないか?」
マヤはベルの肩にポンと手を置いた。
「波長が合わずに、無理やり打算でファミリアに入ってしまった奴らもいる。だが、お前は自由だ。自分の足で探し出せる環境に恵まれてる」
「僕の、波長の合う神様……」
「ああ。もし神じゃなく、別の女を愛する時が来た時もそうだ。打算や嘘はいらねぇ。真っ直ぐにぶつかっていけ、ベル」
マヤの視線が、ふと広間の隅に向けられる。
「なぁ、ヴァレッタに、リリ」
「「はいっ!!」」
急に名前を呼ばれ、メイド服のヴァレッタと小柄なリリがビシッと直立不動の姿勢をとった。
「お前たちも、自分の居場所を見つけて、真っ直ぐにぶつかってきたからここにいる。……そして、その波長を見抜けずに、孤高と孤立を履き違えて野に下った愚か者(狂犬)もいたくらいさ」
マヤは、かつてここで自身の弱さと向き合えず、放牧されたベートの顔を思い浮かべながら、少しだけ寂しそうに笑った。
「ベル。お前はお前の物語を作れ。這い上がって、いつかお前の『正妻』の笑顔を自慢しに来い」
「……はいッ!」
ベル・クラネルは、溢れる涙を腕で力強く拭い、真っ直ぐに前を見据えた。
「僕、絶対に強くなります! マヤさんのように、愛する女の人の笑顔を守り抜けるような、本物の漢に……英雄になりますッ!」
オラリオの歴史に、新たな風が吹いた。
ゼウスの下劣なハーレム教育は完全に浄化され、マヤの圧倒的な『漢の流儀』を魂に刻み込んだ白兎。
彼は、過保護な叔母に見送られながら、自分だけの女神を探すため、迷宮都市の喧騒の中へと力強く駆け出していった。
黄昏館の広間には、その眩しい背中を見守る最強の家族たちと、紅茶を啜りながら「あの子の初陣、こっそり見に行こうかしら……」と呟くアルフィアを、「縁側から一歩でも出たら縛り上げるぞ」と釘を刺すマヤの、賑やかで温かい日常が残されていた。