「……あー、くそっ」
広間に響き渡っていた自身の熱を帯びた声がふっと途切れた後、マヤは急に我に返ったように、ガシガシと自らの赤髪を掻きむしった。
先ほどまでの、ベルの魂を震わせるような圧倒的な教官の顔、そしてロキとの馴れ初めを堂々と語っていた漢の顔から一転、その頬には微かな照れが浮かんでいた。
「ロキ、なんか俺、いらんことまでベラベラ喋っちまったな……。大勢の前で、なんか、すげぇ恥ずいな……」
普段の冷徹で隙のない姿からは想像もつかない、あまりにも人間臭く、不器用な照れ隠し。
マヤはソファーに深く沈み込みながら、天井を仰ぎ見た。
「なんか、昔のことを思い出してたらよ……柄にもなく、ワクワクしてきちゃってよ。今まで背負ってきたもんの重みが、一気に胸にきやがったんだ」
マヤの深紅の瞳が、静かに広間を見渡す。
そこには、ヴァレッタが淹れた紅茶の湯気が温かく立ち上り、アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤといった、彼がその身を挺して鍛え上げ、笑顔を守り抜いてきた少女たちがいる。そして、隣には愛してやまない正妻のロキがおり、正面には立派に成長した三幹部の姿があった。
「俺は……今、しっかりとやれてるか? ちゃんと、お前らの笑顔を守れてるか?」
ポツリと、誰に問うでもなく零れ落ちたその言葉には、最強の鬼が長年抱え続けてきた切実な祈りが込められていた。
誰かを壊してしまうことを恐れ、孤立を選ぼうとしていたかつての自分。その自分が、ロキという絶対的な命綱に出会い、フィンたちと共にこのファミリアを立ち上げ、数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた。
そして今、この黄昏館には、これほどまでに眩しい笑顔が溢れている。
「……それにしても、初めの頃のフィンを見た時のことは、今でも鮮明に思い出すぜ」
マヤはふっと息を抜き、目を細めて懐かしそうに笑った。
「なぁ、お前ら聞いてくれよ。あの日、まだ14歳の子供だったフィンが、一族の復興っていうクソ重たい覚悟を背負って、ウチのロキに『眷族にしてくれ』って必死に懇願してきた時のことをよ」
その話題が出た瞬間、フィンが「ぶっ!」と咳き込み、顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「ま、マヤ殿!? なぜ急にその話を……っ!」
「いいじゃないか、団長様。記念すべき俺たちの出会いの日だ」
マヤはニヤリと笑い、ベルやアイズたち若手に向かって、当時のロキの真似をしながら語り始めた。
『んん? ああ、なんや小っこい兄ちゃん。眷族になりたいやと? 悪いけどな、見ての通り今、ウチは旦那と絶賛イチャついとる最中なんや。そういう込み入った話は後にしてくれへん?』
マヤのあまりにも的確なロキの物真似に、若手たちがポカンと口を開け、ガレスが「がはははっ!」と腹を抱えて吹き出した。リヴェリアも口元を隠してクスクスと笑っている。
「笑えるだろ?」
マヤは自身の隣で顔を真っ赤にしているロキの頭を撫でながら、楽しそうに続けた。
「14歳の子供が人生懸けて頭を下げてんのに、こいつ、フィンに見向きもしなかったんだぜ? あの時から、ロキは俺にべったりで、片時も離れようとしなかった。……当時は、俺とロキと、フィンの三人だけだったんだ。それから、ガレスとリヴェリアが加入して、今の俺たちがある」
あの辺境のボロ屋で、神であるロキが人間の旦那といちゃつきながら始まった、ちっぽけなファミリア。
それが今では、オラリオ最大派閥へと成長し、あの時の背伸びをした14歳の少年は、Lv.8という前人未到の高みに立つ最強の団長へと成長を遂げている。
「本当に……長かったようで、早かったな」
マヤの口から、深い感慨の吐息が漏れる。
「今じゃ、こんなに大勢の家族がいる。モブ団員も増えて、オラリオ中が認めるでかい派閥になった。……あの時の震えてた子供たちが、今じゃ立派に成長して、俺の隣で笑ってくれてるんだ」
その時。
マヤの顔に、この世のすべての重圧から解放されたような、底抜けに優しく、穏やかな笑みが浮かんだ。
それは、かつて自らを犠牲にしてでも他者の笑顔を守ろうと業を背負い続けていた『泣いた赤鬼の青鬼』が、ついに自分自身の本当の居場所を見つけ、心からの安らぎを得て『破顔』した瞬間であった。
「……っ」
そのあまりにも美しく、愛に満ちたマヤの笑顔を見て、フィンの瞳からボロリと涙がこぼれ落ちた。
「マヤ殿……それは、反則です……」
フィンは顔を真っ赤にして照れながらも、自身の目元を腕で乱暴に拭った。ガレスもリヴェリアも、マヤからの最大級の愛情表現に言葉を失い、ただ深く、温かい感動に胸を震わせていた。
「ほんま……えぐいな〜。あんた、急にそんなこと言うなんて……ほんま、反則やで……っ」
ロキは、マヤの胸に顔を押し付けたまま、嗚咽を漏らしていた。
神としての威厳も何もない、ただ一人の妻としての涙。
この不器用で、誰よりも強くて優しい旦那と共に歩んできて、本当によかった。彼を愛し、彼に愛された自身の選択は、この世界の何よりも尊い奇跡だったのだと、ロキはとめどなく溢れる涙と共に噛み締めていた。
アイズも、リリも、双子たちも、レフィーヤも、ヴァレッタでさえも。
マヤがどれほどの思いで自分たちを守り、育ててくれたのかを魂で理解し、全員が感涙に咽び、肩を震わせていた。
広間が、言葉にならない温かな涙と感動で満たされる中。
マヤは静かに視線を動かし、その光景を圧倒されたように見つめている一人の少年に目を向けた。
「……なぁ、ベル」
マヤの静かな呼びかけに、ベルがハッと姿勢を正す。
「俺にとっちゃあな、お前も俺の子供みたいなもんなんだ」
その一言に、ベルの瞳が大きく揺れた。
マヤは、アルフィアやメテリアを隠れ里に留まらせたことで、ベルという少年の運命を大きく変えてしまったという『責任』を、誰よりも重く感じていた。だからこそ、彼はベルを単なる客人としてではなく、自身の血を分けた息子と同等の覚悟を持って見つめていた。
「俺がお前を、あの平和な里に縛り付けたようなもんだ。その責任は、俺が一生背負ってやる。……だから、アルフィアのことはこっちに任せて、お前は自分自身の人生を、全力で走り抜けてこい」
マヤは立ち上がり、ベルの目の前まで歩み寄ると、その華奢な肩に、分厚く温かい両手を力強く置いた。
「生きろよ、ベル」
それは、最強の鬼から白兎へ贈る、魂の祝福にして絶対の命令だった。
「どんなに絶望的な壁にぶつかっても、絶対に生きろ。生きて、地べたを這いつくばっても、泥にまみれようとも、最後には必ず立ち上がれ。……お前が信じた仲間を信じ、共に生きて帰ってこい」
マヤの脳裏に、かつて独断専行で陣形を崩し、破滅しかけた狂犬(ベート)の姿がよぎる。
「いいか、自分一人の力を過信しての『先行(独断専行)』なんてのはもってのほかだ。絶対にやるな。一人で勝とうとするな。仲間を信じ、背中を預けろ。いいな? ベル」
「……っ、はいッ……!」
ベルの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「ただし」
マヤはベルの頭を、乱暴に、しかし最高に優しく撫で回した。
「絶対に、仲間を見捨てるな。そして……お前が女を泣かす時は、相手の『笑顔の涙(うれしなき)』の時だけにしろ。悲しませて泣かせるようなクズにだけは、絶対になるなよ?」
「はい……! はいッ! 誓います! 僕、絶対にマヤさんに恥じない……本物の漢に、英雄になりますッ!!」
ベルは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、オラリオの最強の漢に向かって、生涯決して折れることのない誓いを立てた。
その真っ直ぐすぎる魂の叫びに、アイズも、リリも、アルフィアでさえも、静かに涙を流して頷いていた。
「……よし。行け、白兎」
マヤが手を離し、顎でエントランスの扉をしゃくる。
「オラリオは広いぞ。お前だけの『女神(居場所)』を、お前の足で見つけてこい」
「行ってきますッ!!」
ベル・クラネルは、深く深く頭を下げた後、振り返ることなく黄昏館の扉を開け放った。
吹き込んでくるオラリオの風が、彼の白い髪を揺らす。
マヤの圧倒的な愛と、男としての流儀を魂に刻み込んだ少年。
彼は今、誰も知らない彼だけの『英雄譚』を紡ぐため、迷宮都市の広大な空の下へと、力強く、そして確かな足取りで駆け出していった。
その小さくも頼もしい背中を、オラリオ最大の家族たちは、いつまでも温かな涙と笑顔で見送っていた。