「よし、ほんならそこにうつ伏せになりなはれ。ウチの血を媒体にして、お前の背中に神聖文字(ヒエログリフ)を刻んだるわ」
拠点として改築された廃屋の広間。ロキの言葉に従い、マヤは真新しい戦闘服の上着を脱ぎ捨て、広い背中を露わにした。
その瞬間、ロキは思わず息を呑み、自身の目を疑った。
マヤの背中は、ただ筋肉質であるという言葉では片付かない異様な完成度を誇っていた。
極限まで鍛え抜かれた鋼のような筋肉群が、まるで意志を持っているかのように隆起し、複雑な陰影を作り出している。
その凹凸が組み合わさった様は、まるで——『怒れる鬼の顔』が背中に張り付いているかのように見えた。
(なんや、この背中……。彫刻みたいに整っとるのに、背筋が凍るような凄みがある。いつ見ても見とれてまうわ……っていかんいかんっ!)
ロキはぶんぶんと首を振って邪念を振り払い、神としての威厳を取り繕うように咳払いをした。
「えーと、ほんならウチの指に針を刺して……っと。いくで、マヤ」
ぷくりと浮かんだ赤い神血(イコール)の一滴を、マヤの広い背中の中心に垂らす。
その瞬間、淡い光がマヤの背中を包み込み、神のシステムである神聖文字が浮かび上がろうとした。
——しかし、異常はすぐに起きた。
『ガガッ……ジジジジッ……』
光が明滅し、浮かび上がろうとした文字が痙攣したようにブレる。それはまるで、システムそのものがマヤという存在の総量を処理しきれず、限界を超えて悲鳴を上げているかのようだった。
「なっ!? ウチの血が弾かれとる!? いや、違う! システムがパンクしとるんや!」
ロキは慌ててマヤの背中に手を置き、強引に神聖文字を定着させようと神威を練り上げた。数分間の格闘の末、どうにか文字が背中に刻み込まれ、光が収まる。
しかし、ロキがそこから読み取ったステータスは、彼女の何千という神の知識を根底から覆すものだった。
「……Lv0。基本ステータス、筋力から魔力まで、全部『0』……?図り切れない?」
ロキは呆然と呟いた。
そんな馬鹿な話はない。下界の人間であっても、最低限の数値は存在する。それがオールゼロなど、まるで『カンストしすぎてメーターが振り切れ、初期値に戻ってしまったバグ』のような状態だった。
「なんだ、終わったか?」
うつ伏せから身を起こし、首をポキポキと鳴らすマヤ。
「お、終わったけど……マヤ、お前、ステータス全部『0』やぞ……?」
「0? なんだその数字は。俺の戦闘力はこんな安っぽい桁じゃ測れねぇよ」
「安っぽいないわ! 神様の恩恵をなんやと思っとるんや!」
マヤは全く気にした様子もなく、自分の肩を叩きながら鼻で笑った。
「お、そうか。要するに背中に文字を刻むのがこの世界の流行りなのか? なら、俺の得意な『投擲』とか『ナイフ』って彫っとけよ、ロキ」
「タトゥーとか入れ墨ちゃうわ! ファルナはそういうもんやない! 基本能力はな、『I』から始まって、熟練度を積むごとに『H』『G』と上がっていって、最高が『S』なんや!つまりや、規格外ってこっちゃ。たぶん?」
「ほう、アルファベットか。なら適当な文字を彫っておけ。そうだな、『Love0』とかどうだ?」
「それじゃ愛がないみたいになるやないかい! アホかお前は!」
ハリセンでもあればフルスイングでツッコミを入れたい気分だった。神聖な儀式を、ただの背中のタトゥー感覚でいじり倒すマヤの無知っぷりに、ロキは頭を抱える。
「それに、魔力が0だと言ったな? そんなことはないぞ」
マヤは右手を軽く掲げた。すると、彼の掌の上に淡い緑色の光——医療忍術のチャクラ——が球体となって浮かび上がった。
「なっ、なんやそれ! 魔法陣も詠唱もなしに……!」
「俺の世界ではチャクラと呼んでいたが、この世界に『魔法』や『魔力』という概念があ
るなら、それに無理やり当てはめればいい。要は、体内のエネルギーをどうこねくり回すかの違いだろ」
圧倒的な理詰め。神が定めたシステムの枠組み(ステータス)を完全に無視し、己の力と法則だけで超常現象を引き起こして自己解決してしまう。そのゴリ押しすぎる真実に、ロキはもはや乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「……マヤ殿、お茶をお持ちし——」
ちょうどその時、拠点での仕事を終えたフィンが、お盆に茶器を乗せて広間に入ってきた。
「おお、少年。丁度いいところに来たな」
マヤは上着を着ることもなく、彫刻のような筋肉と、その上に無残な『0』の羅列が刻み込まれた背中を、横にいたフィンへ向けてフルオープンにした。
「おい少年、お前の背中にはなんて書いてあるんだ? 俺のはこうだぞ」
「——ッッッ!?」
ガシャンッ! と、フィンの手からお盆が滑り落ち、茶器が派手な音を立てて砕け散った。
14歳の聡明な小人族の顔面から、一瞬にして血の気が引く。
「ま、マヤ殿!? ななな、何をッ、見せ、えええ!?」
「ん? なんだ、俺はオールゼロらしい。少年のも見てみたいと思ってな」
「見ちゃいけないやつです!! ファルナは、自分の能力の底を他人に晒す行為! 冒険者にとって最大のタブーにして、絶対に隠すべき秘密中の秘密なんですよ!? なんでそんな、今日の晩飯のメニューみたいなノリで見せびらかすんですかぁぁッ!」
年下のフィンが、頭を抱えて盛大に冷や汗を流し、大絶叫した。
「……そうなのか? 別に見られたところで、俺の強さが変わるわけでもないが」
「そういう問題じゃありません! 早く服を着てください! 僕は何も見てません! 記憶
から消去しますッ!」
パニックに陥ったフィンは、脱兎のごとく広間から逃げ出していった。
その様子を見て、マヤは「この世界の常識は窮屈だな」と肩をすくめ、ようやく黒と朱色の戦闘服に袖を通した。
広間に静寂が戻る。
笑い疲れたロキが、呆れたようにため息をついた。
「ほんま、お前は規格外にもほどがあるわ。フィンが可哀想になってきたで」
「あいつは賢すぎる。たまにはああやって常識を壊してやった方が、いい団長になるさ」
マヤはそう言って、ゆっくりとロキの前に歩み寄った。
先ほどまでのふざけた空気が一変し、マヤの深紅の瞳に、静かで、しかし底知れぬ重力を持った真剣な光が宿る。
「ロキ」
「……なんや、急に真面目な顔して」
「お前に嘘はつかねぇ。そう決めた。だから、俺のすべてをお前には言っておく」
マヤは床に腰を下ろし、ロキと視線の高さを合わせた。
「俺の特殊能力……『天上天下唯我独尊』という技の秘密だ」
ごくり、とロキは生唾を飲み込んだ。
「それは、二段詠唱で完成する技だ。第一段階『天上天下(慈愛の深淵)』。これを発動すれば、物理法則を完全に無視して事象を書き換える。家屋が壊れ、人が傷つき、絶望して涙を流している……それらをすべて完全修復し、この世の理を無視した『完全なる癒し』で対象に笑顔を与える」
「完全な……癒し……」
「そうだ。泣いた赤鬼を救う、青鬼の役目だ。だが、その代償として第二段階『唯我独尊(修羅の鬼)』が強制発動する。笑顔をもらった鬼は、その返礼として自ら修羅と化す。定めたターゲットを殺すまで、どこまでも暴走する殺戮の鬼にな。……そして、その過程で周囲の人間から『恐怖』や『絶望』の念を受ければ、心まで完全に鬼に蝕まれる。完全な鬼と化し、向かってくるものすべてを蹴散らし、悪を滅ぼし終えた後修羅としていきるか、……その世界から消滅する。」
ロキの心臓が、早鐘のように鳴った。
それは強すぎるがゆえの、あまりにも悲しい自己犠牲の力。
「俺は……前の世界で、これを最終段階まで使ったことがある」
マヤの声は淡々としていたが、その裏にある途方もない経験の重みが、ロキの胸を締め付けた。
「悪を滅ぼし、俺は後者を選んだそして転生した。……それが俺の真実だ」
沈黙が降りた。
ロキは、この圧倒的な力を持つ男が、なぜ「笑顔」にこだわり、「泣いた赤鬼」を救おうとするのか、その真髄に触れた気がした。
「……それにな」
マヤはふっと表情を和らげ、大きな手でロキの朱色の髪を優しく撫でた。
「俺は、正妻がいないとダメなんだ。簡単なことだ、笑顔をくれる存在だ」
「笑顔をくれる存在……?」
「ああ。俺の力は笑顔だからな。笑顔があれば最強だ。俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる絶対的な笑顔の存在。それがお前だ、ロキ」
マヤはロキの細い目を、真っ直ぐに射抜いた。
「最初、お前が『ウチの旦那になりなはれ』と言った時、冗談だったかもしれない。だが、俺は『お前だ』と思ったからこそ、子供を産む覚悟があるかと聞いた。ただのからかいじゃない。俺にとって、お前を正妻に迎えるというのは、自分の魂の命綱を預けるほど、それほど大事なことだったんだ」
ロキの瞳から、自然と涙が溢れそうになった。
神である自分の眼力(アルカナ)が、マヤの言葉に一切の嘘がないことを証明している。
出会ったばかりの男が、自分をただのおもちゃや退屈しのぎではなく、魂の伴侶として、文字通り命を懸けて選んでくれたのだ。
「今言ったことに、嘘はあったか?」
優しく髪を撫でながら問うマヤに、ロキは首を横に振った。
「……ない。お前、ほんまにズルい男やで」
ロキは乱暴に目元を拭うと、神としての威厳と、一人の女としての底なしの愛情を込めて、マヤの胸倉を掴んで引き寄せた。
「ええよ。その重たいもん、全部ウチが背負ったる。お前が鬼になって消えそうになったら、ウチが力ずくでも引き戻したるわ。ウチはお前の正妻や。ストッパーでもなんでも、なったる!」
ロキは力強く宣言すると、先ほどマヤの背中からステータスを写し取った一枚の羊皮紙——オールゼロのバグ数値が記されたファルナの紙——を、マヤの胸元に押し付けた。
「ほれ、これがお前のステータスや。数字なんてどうでもええ。お前は、ウチのモンや」
「ああ。俺はお前を愛してるぞ、ロキ」
「ウチもや……愛してるで、旦那様」
マヤは渡された紙を受け取ると、ロキの腰を抱き寄せ、その唇を優しく塞いだ。
神と鬼。規格外の二人の絆は、システムや数字などの安っぽい尺度では到底測れない、深い次元で確固たるものとして結びついていた。