黄昏館の夜は、いつも以上に静かで、そしてどこか温かな気配に包まれていた。
窓の外では、オラリオの街を包む夜風が木々の葉を揺らし、遠くで聞こえる夜警の足音が心地よいリズムを刻んでいる。
館の一角にある、ロキとマヤの寝室。
アルフィアの居候という新たな騒動の幕開けや、新人たち(アイズやリリたち)の成長の眩しさに少しだけ機嫌を斜めにしていたはずの主神——ロキの心は、今や完全に別の感情で満たされていた。
広々としたベッドの上。
ロキはマヤの膝の上にちょこんと陣取り、その首にしがみつくようにして、子供のように顔をうずめていた。
「……もう、自分もうすきすぎてたまらんわ……」
ポツリと、潤んだ声が漏れる。
「あんなん言われたらもう……涙が止まらんわ。マヤの膝の上から、絶対離れん……!」
先ほど広間でマヤが語った言葉。出会った頃の記憶、フィンたちと歩んできた長い歴史、そしてベルを見送る際に交わした「命懸けで生きろ」という不器用で深い愛情の数々。
それらすべてが、ロキの胸を激しく打ち震わせていた。自分たちの歩んできた道は間違っていなかった。この男と共に泥をかぶり、理不尽と戦いながら築き上げてきた『家族』の形は、世界で一番美しく、誇らしいものだったのだと、心の底から確信できたからだ。
「昔の自分たちと、ベルを重ねてしまってな」
マヤは、泣き腫らした顔で自分にしがみつくロキの背中を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、愛おしそうに撫でた。
「平原で途方に暮れていたロキを思い出したんだ。そうしたら、こうして歩み始めた歴史がどんどん思い出されてよ……。いつの間にか、背負うもんもでかくなったな。だが、それ以上に、お前の愛もでかくなったよ。愛してる、ロキ」
「っ……!」
その言葉を聞いた瞬間、ロキの瞳から再び大粒の涙が溢れ出した。
こいつは、どこまでもずるい。
不器用なくせに、一番言ってほしい言葉を、一番優しい声で、真っ直ぐにぶつけてくる。神としての長い長い生の中で、こんなにも魂を丸ごと包み込まれるような愛を他者から向けられたことなどなかった。
「……あたしも、愛してる。世界で一番、マヤが好きや……っ!」
ロキが潤んだ瞳を上げ、自らマヤの首に腕を回して唇を合わせた。
それは、昼間の喧騒や嫉妬、そしてこれまでのすべての不安を溶かすような、深く、熱い口づけだった。
——そして、夜の帳(とばり)と共に、本当の意味での『夜』が幕を開けた。
***
普段から身体を重ね、互いの愛を確かめ合ってきた二人。だが、この夜のマヤは違っていた。
かつて『泣いた赤鬼の青鬼』が、過去のトラウマや恐れを完全に克服し、自らの居場所と愛すべき正妻を見つけて『破顔』したことで、彼の内なる生存本能と、愛する者を全身全霊で満たしたいという野性的な衝動が、完全にリミッターを外していたのだ。
広大なベッドの上で、ロキの白い肢体が弓のようにしなる。
マヤの圧倒的な熱量と、転生者としての規格外の生命力が、神であるロキの存在そのものを飲み込むように押し寄せる。
他のヒロイン(アルフィアや、かつてすれ違った者たち)がどれほど強大で美しくなかろうと、マヤがその魂と肉体を交わすのは、この腕の中にいる正妻——ロキ・ファミリアの主神、ロキ、ただ一人だけだ。
ベルに説いた「たった一人の女を愛し抜く」という言葉。それを、マヤは自らの肉体と魂のすべてをもって体現していた。
「マヤ……っ、もっと、強く……! ウチを愛して……っ!」
「壊さないさ。お前を愛するたびに、俺の命の根が強くなるんだからな」
甘く、切なく、それでいて獣のように激しい愛の営み。
神の神格すらも蕩けさせるような濃厚な接触の繰り返しに、ロキの意識は何度も快楽の白濁のなかに沈みかけては、マヤの温かい手に引き戻された。
互いの吐息が混ざり合い、室温がみるみるうちに上昇していく。
世界で一番強い鬼の夫と、世界で一番愛された女神の妻。その二人の間に交わされる愛は、もはや神話の神々すらも嫉妬するほどの純度と熱量を帯びていた。
***
——どれほどの時間が経っただろうか。
狂おしいまでの愛の奔流が去った後の寝室には、静かで甘い余韻だけが残されていた。
しかし、そのベッドの上で。
オラリオ最大派閥を率いる最強の主神・ロキは、今や完全に『死んだカエルのような姿』をして、ぐったりとシーツに沈み込んでいた。
「……まや……もう、かんにんしたって……っ、あいしとる……」
うわ言のように、か細い声で慈悲を乞うロキ。
マヤの愛が凄まじすぎて、神である彼女の体力と精神力は完全にキャパシティを超過していた。
(動けん……指一本動かす気力すらない……。あんなん、毎晩あんなペースでやられたら、ウチが身ごもる前に、物理的に身がもたんかもしれへん……。マヤが昼間に『妾か第二夫人(ストッパーの分散)』を真面目に提案してきたのも、今なら身をもって全力で理解できるわ……。神のウチが壊れるって、本気で命の危機感じるもん……)
幸福すぎる悩み。
だが、その限界を迎えた思考の渦の中で、ロキはふと、これまでマヤから聞いていたマル秘の秘密を脳裏に思い返していた。
——この男は、この世界の人間やない。別の、はるか遠い『別世界』からやってきた転生者や。
神であるロキにとって、天界の理や下界の法則は絶対のものだ。その最たるものが、「神と下界の住民(人間や亜人)の間には、絶対に子供は宿らない」という、覆しようのない天界の常識だった。神は永遠であり、下界の命とは次元が違う。だからこそ、神が眷族をどれだけ愛そうとも、血のつながった子供が生まれることはない。
しかし。
目の前で自分を優しく抱きしめ、心地よい体温を残してくれているこの男は、神々の定めた世界の理の外側にいる『規格外の来訪者』なのだ。
しかも、マヤ自身の身体は恩恵(ファルナ)を刻んだが、ステイタスは常に『Lv.0』のゼロカンスト。神の理の枠組みすらも自らの肉体だけで完結させている雄。
(神と人との間には、子供はできへんってのが天界の常識やけど……。でも、ウチの旦那はこの世界とちゃうところからきてはるから……もしかしたら……)
ロキは、自身の中に注ぎ込まれたマヤの熱すぎる種の感触をふと思い出し、ぼんやりと、しかし真剣に思考を巡らせた。
——もしかすると、この男の規格外の愛と血なら、神の常識や恩恵の縛りなんて軽々とブチ壊して、本当に子供ができたりするんとちゃうか……?
もし、マヤとの間に子供ができたら。
神の神格と、あの鬼の規格外の血を引く命が、もし自分のお腹に宿ったら。
その子が、黄昏館の皆に囲まれて「お父ちゃん!」「お母ちゃん!」と笑顔で走り回っている光景を脳裏に思い描いた瞬間、ロキの顔には自然と、どうしようもなくだらしない、幸せに満ちた笑みが浮かんだ。
だが同時に、神である自分の身体がその重みに耐えられるのかという、本気の前途多難な恐怖もすぐさま脳裏をよぎる。
(……まあ、先のことは、その時になってから考えたらええか……)
今はまだ、この広大なベッドを独占できるのは自分だけだ。
この愛しくてたまらない男の熱も、匂いも、甘い言葉も、すべて自分だけのもの。
しばらくは、二人だけのこの特等席を、たっぷりと満喫させてもらおう。
「……マヤ。大好きやで……」
ロキが最後に力なく、けれど最高に満ち足りた声でそう呟いて、完全に心地よい眠りの底へと落ちようとした、その瞬間。
彼女の額から鼻筋、そしてぷるぷるに腫れた唇へと、羽のように軽く、けれど酷く甘い口づけが落惹された。
「ああ。おやすみ、俺の可愛い女神」
マヤの低く優しい声が、ロキの耳膜を心地よく撫でる。
オラリオ最大派閥を率いる主神は、愛する男の温もりに完全に包み込まれながら、誰よりも幸せな夢の中へと、静かに落ちていった。