ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第32話:憧憬一途

迷宮(ダンジョン)の空気は、地上とは全く異なる粘度と冷たさを持っていた。

薄暗い緑色の燐光を放つ苔に覆われた洞穴。どこからともなく響いてくる正体不明の咆哮や、岩肌を引っ掻くような不気味な音が、絶えず鼓膜を刺激してくる。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

オラリオの地下に広がる大迷宮、その第5階層。

白髪の少年、ベル・クラネルは、右手に握りしめた安物のナイフに力を込め、目の前で崩れ落ちていくゴブリンの姿を見つめていた。

魔石が砕け、魔物が黒い灰となって消滅していくのを見届けてから、ベルはようやく荒い息を吐き出して壁に背を預けた。

 

(やった……! 今日だけで、もう三匹目だ……!)

 

ベルの赤い瞳には、疲労よりも確かな手応えと充実感が宿っていた。

ヘスティア・ファミリアを結成してから数日。ベルは彼女から与えられた最低限の装備だけを身につけ、毎日この上層で泥臭く戦闘経験を積んでいる。

故郷の隠れ里でアルフィアやヘラから教わった基礎知識はあるものの、実戦は全くの別物だった。だが、ベルの心には少しの慢心も、恐怖に足をすくまされるような脆さもなかった。

 

『男なら、自分の足で泥水をすすって這い上がれ。俺の真似事をしてるうちは、俺を超えることなんて一生不可能だぞ』

 

あの黄昏館で、オラリオ最強の漢——マヤから突きつけられた厳しくも温かい言葉が、ベルの魂の中で常に熱い炎となって燃え続けているからだ。

 

(マヤさんは、僕を『息子』だと言ってくれた。……僕の帰る場所には、ヘスティア様がいる。だから、絶対に無茶はしない。地べたを這いつくばってでも生きて帰って、少しずつでも強くなるんだ!)

 

ベルはナイフの血振りを行い、再びダンジョンの奥へと鋭い視線を向けた。

慢心せず、しかし臆さず。自分だけの『英雄』への道を、一歩ずつ確実に踏みしめる。その姿勢は、紛れもなくマヤが説いた『漢の流儀』を体現するものだった。

 

——だが。

ダンジョンは時として、冒険者の意志や覚悟などお構いなしに、圧倒的な『理不尽』を牙を剥いて突きつけてくる。

 

ドォォォォォォンッ!!

 

突如として、階層全体を揺るがすような轟音が響き渡った。

「えっ……!?」

ベルが身構えた直後、迷宮の奥から凄まじい足音が迫ってきた。ただの魔物の群れではない。地鳴りのようなその足音は、明らかにこの上層に存在するはずのない質量のものだった。

 

その時、オラリオの地下では、一つの『人災』とも呼べるイレギュラーが起きていた。

事の発端は、ロキ・ファミリアから『放牧』の処分を受けた狂犬、ベート・ローガである。彼は己の弱さと惨めさに耐えきれず、鬱憤を晴らすかのように単独で中層へと潜り、遭遇したミノタウロスの群れに対して無謀な戦闘を仕掛けたのだ。

連携も陣形もなく、ただ力任せに暴れ回った結果、狂犬は敵の殲滅に失敗した。陣形のほころびから逃げ出した数頭のミノタウロスは、狂乱状態のまま上層へと駆け上がり、迷宮の生態系をパニックに陥れていたのである。

 

そして今、その理不尽の化身が、ベルの目の前の通路から姿を現した。

 

「グルルォォォォォォォォォッ!!!」

 

赤茶けた体毛。筋骨隆々の巨大な肉体。その手には、不釣り合いなほどに巨大で無骨な大剣が握られている。

第15階層から17階層の中層にのみ生息するはずの凶悪な怪物、ミノタウロス。

それが今、血走った眼球をギョロリと動かし、通路に立ち尽くす一人のひ弱な白兎を明確な『獲物』としてロックオンした。

 

「あ……」

ベルの全身から、一瞬にして血の気が引いた。

Lv.1の、しかもステイタスがほとんど育っていない新米冒険者が相対していい相手ではない。圧倒的な格上。一撃でも受ければ、身体は真っぷたつに引き裂かれ、肉塊と化すだろう。

本能が警鐘を鳴らし、全身の細胞が「逃げろ」と悲鳴を上げる。恐怖で足が縫い止められそうになる。

 

だが。

 

『生きろよ、ベル。……生きて、地べたを這いつくばっても、泥にまみれようとも、最後には必ず立ち上がれ』

 

極限の恐怖の中で、マヤの大きく温かい手の感触が、ベルの魂を強引に現実に引き戻した。

 

(——死ねない!!)

 

「うおおおおおおおおっ!!」

ベルは恐怖の呪縛を気合いの咆哮で打ち破り、一目散に踵を返して駆け出した。

戦わない。逃げる。それは決して無様な『敗走』ではなく、マヤの教えを忠実に守り抜くための、完璧に理にかなった『生存(サバイバル)』であった。

 

「ブモォォォォォォォッ!」

獲物が逃げたことに激昂したミノタウロスが、地響きを立てて猛追してくる。

その圧倒的な歩幅と筋力による突進は、逃げるベルとの距離を瞬く間に縮めていく。

背後から迫る、死のプレッシャー。

(速いっ……! こんなの、すぐに追いつかれる……っ!)

 

ベルは全速力で走りながらも、必死に思考を回転させた。

ただ直進するだけでは、いずれスタミナが尽きるか、背中から大剣で両断される。

「くそっ……!」

ベルは通路の分岐に差し掛かると、壁を蹴って直角に曲がり、ミノタウロスの突進の軌道を逸らそうと試みた。

 

ドゴォォォォンッ!!

巨体が曲がりきれずに壁に激突し、大量の岩盤が崩れ落ちる。

しかし、怪物は痛痒を感じる様子もなく、すぐに瓦礫を吹き飛ばして再びベルを追い始めた。

 

(曲がり角を利用するしかない……! でも、ずっとは持たない……!)

息が上がり、肺が焼けるように熱い。脚の筋肉は悲鳴を上げ、視界がチカチカと点滅し始める。

それでもベルは、転がり、這いつくばり、時には壁の出っ張りを利用して死角へ飛び込み、決死の撤退戦を繰り広げた。

 

「ハァッ……! ハァッ……!」

だが、Lv.1の身体能力の限界は、あまりにも早く訪れた。

入り組んだ通路を抜け、少し開けた小部屋に出た瞬間、ベルの脚がもつれて地面に倒れ込んだ。

「あ……っ!」

立ち上がろうとするが、疲労困憊の脚は思うように動かない。

そして、その背後から、怒り狂ったミノタウロスが凶悪な大剣を高く振り上げながら突っ込んできた。

 

死の影が、ベルの身体を完全に覆い尽くす。

 

(ここまでか……? 僕は、何一つ成し遂げられないまま……ヘスティア様を一人にして……マヤさんとの約束も……)

 

絶望が心を支配しかけた、その時。

 

——シュンッ。

 

風が、鳴った。

 

それは、迷宮の淀んだ空気を切り裂く、あまりにも鋭く、そして美しい一陣の風。

 

「え……?」

ベルの瞳に映ったのは、ミノタウロスの背後から音もなく虚空を駆け下りてきた、一人の少女の姿だった。

 

金色の髪。磨き抜かれた白銀の軽鎧。

そして、その手に握られた、白く輝く細身の剣(デスペレート)。

 

彼女の顔には、恐怖も、焦りも、殺意すらも浮かんでいない。

ただ静寂。無表情のまま、彼女は空中で身体を捻り、流れるような、しかし一切の無駄がない極致の剣技を放った。

 

——ザァァァンッ!!

 

一閃。

ベルを両断しようと振り下ろされていたミノタウロスの大剣が、いとも容易く切断された。

「ブモッ……!?」

怪物が驚愕の声を上げる間すら与えない。

少女は着地と同時に大地を蹴り、残像すら残さない神速の踏み込みでミノタウロスの懐に潜り込むと、下段から跳ね上げるような連撃を叩き込んだ。

 

肉を断ち切り、骨を砕き、魔石を正確に粉砕する、凄まじい暴力の連鎖。

それはもはや戦闘ではなく、一方的な『解体(蹂躙)』であった。

 

「…………」

ほんの数秒。

それだけの時間で、ベルをあそこまで追い詰めた巨大な怪物は、頭から真っ二つに裂け、大量の血飛沫を上げながらダンジョンの床へと崩れ落ちた。

 

赤い血の雨が降り注ぐ中、少女は剣を振り抜き、ゆっくりと振り返った。

金色の髪がフワリと揺れ、無機質だが底知れぬ力強さを秘めた金色の瞳が、腰を抜かしてへたり込んでいるベルを見下ろす。

 

『剣姫』アイズ・ヴァレンシュタイン。

ロキ・ファミリアの誇る最強の剣士であり、マヤの理不尽なまでの暴力を最も身近で受け、鍛え上げられた最高傑作(一番弟子)。

彼女は、ベートの残した痕跡(イレギュラー)を追って上層へと駆けつけ、間一髪でベルの命を救ったのだ。

 

「……大丈夫?」

 

アイズの透き通るような声が、血塗られた小部屋に響いた。

 

ベルは、ただ呆然と彼女を見上げていた。

助けられた安堵感? 違う。

命の恩人に対する、一目惚れのような甘い感情? それも違う。

 

ベルの魂を激しく揺さぶっていたのは、圧倒的なまでの『強さの証明』に対する畏敬と、そして——血が滲むほどの『悔しさ』だった。

 

(あの人が……アイズ・ヴァレンシュタイン。マヤさんの、一番弟子……!)

 

ベルは、彼女の剣技の中に、マヤの教えの極致を見た。

無駄のない動き、恐怖を完全に排除した精神、そして圧倒的な格上すらも瞬殺する暴力。彼女は間違いなく、マヤの背中を追いかけ、泥水をすすって這い上がってきた『本物』だ。

 

それに比べて、自分はどうだ。

マヤに「隣に立つ」と大見得を切っておきながら、ただ逃げ回ることしかできず、最後には力尽きて倒れ込んだ。もし彼女が来てくれなければ、自分は確実に死んでいた。

命を繋ぐための生存優先の逃走は間違っていなかった。マヤの教え通りに命を拾った。

だが、その結果として突きつけられた『絶対的な実力差』が、ベルのちっぽけなプライドを根底から粉々に打ち砕いたのだ。

 

(悔しい……ッ!)

 

ベルの拳が、ギリッと強く握りしめられる。

手のひらに爪が食い込み、血が滲む。

 

(あの人は、マヤさんの教えを受けて、あんなにも高く、美しく、強い場所にいる。……なのに僕は、地べたに這いつくばって、助けられるのを待つだけだった!)

 

悔しい。悔しい。悔しい!

恥ずかしいのではない。己の無力さが、弱さが、どうしようもなく悔しいのだ。

 

『俺の真似事をしてるうちは、俺を超えることなんて一生不可能だぞ。強くなりたきゃ、孤立無援の野に下れ』

 

マヤの言葉が、ベルの魂の中で爆発的に燃え上がる。

自分はまだ、野に下ったばかりのただの弱い兎だ。

だが、絶対にこのままでは終わらない。終わらせてたまるものか。

這い上がる。這い上がって、絶対にあの人のように、マヤさんのように、自分の力で誰かを守れる本物の英雄になってやる。

 

「……っ!」

ベルはアイズの差し伸べた手を取ることなく、自らの足でフラフラと立ち上がった。

「え……?」

アイズが微かに目を丸くする。

ベルは、血と泥にまみれた顔を上げ、アイズを——いや、彼女の向こう側にある『最強の男の背中』を睨みつけるように見据え、深く頭を下げた。

 

「助けていただき、ありがとうございました! でも……次は、僕が必ず、自分の足で立ちますッ!」

 

それだけを叫ぶと、ベルは振り返り、ボロボロの身体を引きずりながら、迷宮の出口へ向かって走り出した。

逃げるためではない。次こそ前を向いて戦うための、己の弱さを焼き払うための前進。

 

「あ……」

残されたアイズは、走り去っていく白髪の少年の背中を、ただ静かに見つめていた。

彼女の胸の奥に、かつて自分が強さを求めて足掻いていた頃の記憶と、マヤから初めて『満点だ』と言われた日の熱が、不思議と重なって蘇る。

 

(あの子……)

アイズの金色の瞳に、これまでに見たことのない、確かな興味の色が宿っていた。

 

***

 

その日の夜。

豊穣の女主人の裏手にある、ヘスティア・ファミリアの拠点たる廃教会の隠し部屋。

ボロボロになって帰還したベルを泣きながら治療したヘスティアは、彼が眠りについた後、ステイタスの更新(アップデート)を行うためにベルの背中に神血(イコール)を垂らしていた。

 

「まったく、無茶して……。マヤくんの言う通り、這い上がるのはいいけど、命があってこそなんだからね……」

ヘスティアはぶつぶつと文句を言いながら、羊皮紙に神聖文字を写し取っていく。

 

だが、その背中に浮かび上がった『新たな記述』を見た瞬間。

彼女の動きが、完全に停止した。

 

「……な、なんだ、これ……?」

 

基本ステイタスの下に、今まで存在しなかった一文が、強烈な光を放ちながら刻み込まれていたのだ。

 

【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】

・懸想が続く限り効果持続。

・懸想の丈により効果向上。

 

それは、神々の歴史上でも類を見ない、あまりにも純粋で、あまりにも強烈な『成長の促進』を約束するレアスキル。

 

「懸想……。あの強すぎる男(マヤ)への憧れと、その一番弟子(アイズ)に見せつけられた己の弱さへの、底なしの悔しさ……。それが、ベルくんの魂をここまで……!」

 

ヘスティアは震える手で羊皮紙を握りしめた。

ベルの心には、ゼウスが吹き込もうとしたような不純な動機など微塵もない。

あるのはただ、「最強の漢に恥じない自分になりたい」「あの高い場所へ這い上がりたい」という、純度百パーセントの憧憬と闘志だけ。

 

その熱すぎる魂の炎が、神の理すらも捻じ曲げ、一つの奇跡(スキル)を発現させたのだ。

 

「……ふふっ。マヤくんに負けてられないね、僕も。……君の居場所は、僕が絶対に守るから。だから、君は真っ直ぐに走っておいで、ベルくん」

 

眠るベルの背中を愛おしそうに撫でながら、ヘスティアは決意に満ちた笑顔を浮かべた。

最強の鬼によって魂を導かれ、最強の剣姫によって己の弱さを知った白兎。

その爆発的な成長の物語(ファミリア・ミィス)が、今、静かに、しかし確かな産声を上げたのであった。

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