ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第33話:狂犬の愚痴と、前を向く白兎

迷宮都市オラリオの夜は、日中の喧騒をそのまま熱気に変え、酒場という名の坩堝(るつぼ)へと冒険者たちを飲み込んでいく。

その中でも一際賑わいを見せるのが、西大通りの一角に店を構える人気酒場『豊穣の女主人』だ。

女将のミア・グランドの豪快な笑い声と、アーニャやクロエといった個性豊かな店員たちが店内を駆け回り、美味そうな肉の焼ける匂いとエールの香りが満ちている。

 

だが、その陽気な喧騒から完全に孤立している席が一つあった。

店の隅のテーブル。そこに陣取っているのは、灰色の髪と狼の耳を持つ獣人(ウェアウルフ)——ベート・ローガだ。

彼の周囲には、すでに空になった木組みのジョッキがいくつも転がっている。

 

「……くそっ……。なんで……なんで上手くいかねぇんだよ……ッ!」

 

どんっ! と、ベートは乱暴にジョッキをテーブルに叩きつけた。

周囲の客が怯えたように視線を逸らすが、今のベートにはそんなものを気にする余裕など微塵もなかった。

ロキ・ファミリアを事実上『放牧』され、黄昏館の敷居を跨ぐことを禁じられた狂犬。彼に残されたのは、マヤからの「這い上がってこい」という言葉と、己の致命的なまでの弱さだけだった。

 

強くなければならない。マヤの教えを証明しなければならない。

そう焦燥感に駆られたベートは、一人でダンジョンの中層へと潜った。

だが、結果はどうだ。ミノタウロスの群れに遭遇し、力任せに暴れ回った挙句、陣形もクソもない単独戦闘の限界を露呈して数体を上層へ取り逃がしてしまった。

マヤから最も厳しく指摘されていた「独断専行の脆さ」を、よりによって放牧直後の初陣で自ら証明してしまったのだ。

 

「陣形? 連携? んなもん知るかよ……。俺の方が、速かったはずだろうが……!」

 

ギリッと奥歯を噛み締める。

言い訳などできない。自分の取りこぼしが、上層にいる初心者たちを危険に晒したことは明白だ。そして、その尻拭いをおそらく……いや、間違いなく、遠征から帰還中だったアイズたちにさせてしまった。

 

情けない。惨めだ。

這い上がれと言われて、すぐに心を入れ替えて立派になれるほど、人間は……いや、過去のトラウマに縛られたこの狂犬は、器用にできてはいなかった。

 

「あーあ、嫌だねぇ。酒に飲まれるような男は」

空になったジョッキを片付けに来た猫人(キャットピープル)のアーニャが、ジト目でベートを見下ろす。

「うるせぇ! さっさと次の酒を持て来い!」

「はいはい、ニャ。ミア母さんにフライパンでシッポ叩き潰されても知らないニャよ」

 

アーニャが呆れて立ち去った後、ベートはテーブルに突っ伏し、ギリギリと爪を立てた。

苛立ちの矛先は、己の不甲斐なさから、やがて『ある少年』へと向かっていく。

 

「あんな……弱ぇ、すぐ泣きそうな顔して逃げ回るだけの、Lv.1のトマト野郎が……ッ!」

 

黄昏館で見た、あの白髪の少年、ベル・クラネル。

マヤに「弟子にしてくれ」と懇願し、「這い上がれ」と背中を押されていたあのひ弱なウサギ。

マヤの圧倒的な強さを前にしても逃げ出さず、涙を流しながらも真っ直ぐに前を向いていたあの姿勢が、ベートにはひどく目障りだった。

 

「なんでマヤの野郎は、あんなゴミに期待してやがるんだ……! 弱え奴は、結局死ぬだけだろうが……! あんなヒョロガリ、ダンジョンの空気に触れただけで逃げ出して終わりだ……ッ!」

 

それは、完全な八つ当たりだった。

「弱かったせいで仲間を失った自分」と、「弱いのに誰かのために這い上がろうとするベル」との比較から逃げたいという、どうしようもない弱さの裏返し。

ベートは、ベルがすでにダンジョンで無残に心を折られていることを、心のどこかで願ってすらいた。

 

だが、その泥酔した狂犬の愚痴を、少し離れたカウンターの中から静かに聞き耳を立てている者がいた。

銀色の髪を揺らし、純朴な町娘の笑みを貼り付けた給仕の少女——シル(フレイヤ)だ。

 

(あら……?)

 

シルは布巾でグラスを磨きながら、銀色の瞳を細めた。

(あの赤髪の男……マヤが、そこまで期待をかける少年がいるのね。しかも、この狂犬がこれほどまでに嫉妬と苛立ちを覚えるほどの、何かを秘めた白髪の少年……。ふふっ、面白くなってきたわね)

マヤという規格外の魂への執着が、彼に認められたという『未知の原石』への興味へと派生していく。

オラリオの頂点に君臨する美の女神のレーダーが、静かに、しかし確実にベル・クラネルという存在をロックオンした瞬間だった。

 

「いらっしゃいませー!」

 

シルの思考を遮るように、店の入り口から元気な声が響き渡った。

カランカラン、とベルを鳴らして『豊穣の女主人』の扉を開けたのは、見慣れない二人連れだった。

 

「わぁっ……すごい活気だね、ヘスティア様!」

「ふふんっ! 君の初ダンジョン生還と、僕たちのファミリア結成のささやかなお祝いだからね! 今日は僕の奢りだ、思いっきり食べるといいさ、ベルくん!」

 

目を輝かせる白髪の少年と、彼の手を引く小柄な女神。

ベル・クラネルと、ヘスティアだった。

二人は案内された席に座り、運ばれてきた山盛りのパスタや肉料理に目を輝かせている。

 

「——ッ!」

その姿を視界の端に捉えたベートの酔いが、一瞬にして冷めた。

(あいつ……あのトマト野郎……ッ!)

先ほどまで「どうせ逃げ出して終わっている」と見下していた少年が、ピンピンした姿で、しかも女神と共に笑い合って飯を食っているのだ。

 

しかも、ベルの様子が、ベートの予想とは決定的に違っていた。

 

「……ベルくん? どうしたんだい、手が止まってるよ。美味しくないかい?」

ヘスティアが心配そうに覗き込むと、フォークを握ったまま宙を見つめていたベルは、ハッと我に返って首を振った。

「あ、いえ! すごく美味しいです! ただ……少し、考えてしまって」

 

ベルの赤い瞳には、ミノタウロスという死の恐怖を味わったばかりの者特有の『怯え』や『トラウマ』が、微塵も存在していなかった。

あるのは、極めて真剣で、熱を帯びた探求の光。

 

「今日、僕はアイズさんに助けられてしまいました」

ベルは、自身の握るフォークをじっと見つめながら、静かに、しかし力強い声で語り始めた。

「僕は、ただ逃げることしかできなかった。マヤさんの教え通り、生き延びるために必死に這いずり回りました。……でも、アイズさんは違った。マヤさんの一番弟子であるあの人は、あんなにも巨大な怪物を、瞬きする間に切り伏せてしまったんです」

 

ベルの脳裏に、血飛沫の中で剣を振るうアイズの無表情で美しい横顔が蘇る。

 

「悔しかった。……自分の弱さが、情けなくて、悔しくてたまらなかった」

ベルはフォークを置き、両手でギュッと拳を握りしめた。

「ヘスティア様。僕は……どうすれば、彼女のように、マヤさんのように強くなれるんでしょうか。どうすれば、あの高みに……本物の英雄に這い上がることができるんでしょうか」

 

「ベルくん……」

ヘスティアは、ベルの背中に刻まれた【憧憬一途】のスキルを思い出し、優しく、しかし確かな信頼を込めて微笑んだ。

「君なら、きっとなれるよ。その悔しさを忘れない限りね」

 

「はいっ……! 僕、絶対に強くなります。誰かに助けられるんじゃなく、僕がヘスティア様を……誰かの笑顔を守れるように!」

 

それは、惨めさに打ちひしがれて逃げ出す弱者の顔ではなかった。

圧倒的な実力差を見せつけられ、己の無力さを痛感した上で、それでもなお「どうすれば強くなれるのか」を真剣に模索し、前を向こうとする『本物の男』の顔つきだった。

マヤの圧倒的な『漢の流儀』を魂に刻み込まれた白兎は、すでにその精神性において、そこらの有象無象の冒険者を遥かに凌駕する強靭さを手に入れていたのだ。

 

「——あァ?」

 

そのベルの真剣な言葉は、店内の喧騒を縫って、少し離れた席にいるベートの獣の耳に、一言一句違わず届いていた。

ギリッ、とベートの手の中で、空のジョッキが嫌な音を立てる。

 

(ふざけんな……ッ!!)

 

ベートの胸の奥で、ドス黒い炎が爆発した。

女に助けられた? 惨めったらしく逃げ回った?

なら、なんでお前はそんなに前を向けるんだ。なんで、そんなに真っ直ぐな目で『強くなる』なんて言えるんだ。

本来なら、恐怖に泣き喚き、ダンジョンになど二度と潜らないと震えるのが普通だろう。それが『弱者』の正しい姿のはずだ。

 

かつて、自分の弱さから目を背け、仲間を失ったトラウマから「弱い奴はダンジョンに潜るな」と吐き捨てることでしか己を保てなかったベートにとって、ベルのその『弱さを直視して前を向く姿勢』は、自身の逃避を真正面から否定する、最も許しがたい猛毒だった。

 

「……おい」

 

ガタッ! と音を立てて、ベートが席を立ち上がった。

酔いで足元をふらつかせながらも、その目には凶暴な狼の殺意が宿っている。

 

「べ、ベート・ローガ……?」

ヘスティアがその異常な気配に気づき、ベルを庇うように身を乗り出す。

ベルもまた、近づいてくる灰色の狼の威圧感に、ハッと身構えた。

 

「おい、トマト野郎……」

ベートはベルのテーブルの前に立ち塞がり、見下ろすように凶悪な犬歯を剥き出しにした。

「聞こえてたぜ。上層でアイズに命拾いさせてもらったらしいな? ……女に助けられて、情けねぇ顔してんじゃねぇぞ、このゴミが……!」

 

「っ……!」

ベルの肩がビクッと跳ねる。

「マヤの野郎にそそのかされて、英雄気取りか? あァ!? 笑わせんじゃねぇよ! お前みたいな泣き虫のヒョロガリが、這い上がれるわけねぇだろうが! 弱ぇ奴は、大人しく巣穴で震えてりゃ——」

 

ベートが、己の苛立ちと自己嫌悪のすべてを、弱者(ベル)への罵倒という形でぶつけようと右手を振り上げた、その瞬間だった。

 

バンッッ!!!

 

『豊穣の女主人』の入り口の扉が、外れるのではないかというほどの勢いで蹴り開けられた。

 

「あーっ! もう、ホンマに疲れたわーッ!!」

 

店内に響き渡ったのは、底抜けに明るく、そして遠慮というものを一切知らない、傍若無人な大声。

 

「おいおいロキ、店の扉は丁寧に扱えよ。ミア母さんにフライパンで殴られるぞ」

「かまへんかまへん! 今日はウチのファミリアの大盤振る舞いや! 邪魔するでー!」

 

振り上げかけたベートの手が、ピタリと空中で止まった。

入り口に立っていたのは、見間違えるはずもない、オラリオ最大派閥の頂点に立つ者たち。

 

赤い戦闘服を着崩し、呆れたようにロキをなだめる最強の教官、マヤ。

その後ろには、アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤといった、遠征組の若手精鋭たちがズラリと顔を揃えている。

 

その全員の視線が、店の中央でベルに絡もうとしていたベートへと、一斉に突き刺さった。

 

「え……?」

ベルが戸惑いの声を漏らす中。

空中で振り上げた手を下ろすこともできず、完全に硬直した狂犬へ向けて、事態は最悪の(あるいは最高の)方向へと転がり始めるのだった。

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