バンッッ!!!
西大通りの人気酒場『豊穣の女主人』の頑丈な木扉が、外れるのではないかというほどの勢いで蹴り開けられた。
店内に響き渡ったのは、底抜けに明るく、そして遠慮というものを一切知らない傍若無人な大声である。
「あーっ! もう、ホンマに疲れたわーッ!!」
「おいおいロキ、店の扉は丁寧に扱えよ。ミア母さんにフライパンで殴られるぞ」
「かまへんかまへん! 今日はウチのファミリアの大盤振る舞いや! 邪魔するでー!」
喧騒が一瞬にして静まり返る。
入り口に立っていたのは、赤い戦闘服を着崩し、呆れたように主神をなだめる最強の教官、マヤ。そして、その腕に我が物顔でしがみつくロキ。
その後ろには、アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤといった、先の階層主討伐を成し遂げたばかりの若手精鋭たちがズラリと顔を揃えていた。
だが、それだけではなかった。
「まったく、ロキは。少しは主神としての威厳というものをだな……」
「がはははっ! まあええじゃないかリヴェリア、今日はめでたい日じゃ!」
「やれやれ、ミア母さんに後で僕から謝っておくよ」
若手たちの背後から、さらに三つの影が店内に足を踏み入れた。
小人族(パルゥム)の勇者フィン、王族のハイエルフたる九魔姫リヴェリア、そして重傑ガレス。
つい先日の神会(デナトゥス)において、オラリオの歴史上でも前人未到の領域——『Lv.8』への到達を世界に轟かせたばかりの、生ける伝説にしてオラリオのトップ3である。
最強のファミリアの首脳陣が完全に揃い踏みした圧倒的な威圧感と存在感に、店内の客たちは息を呑み、フォークを落とす音すらも響くほどの静寂が落ちた。
そして、その静寂のただ中で。
「——さあ、マヤ様! 皆様! 本日は貸し切りとはいきませんが、最高のお席をご用意いたしましたわ!」
「……は?」
女将のミアが素っ頓狂な声を漏らした。
つい数秒前までロキたちの後ろで漆黒のメイド服を着ていたはずのヴァレッタが、店に足を踏み入れた瞬間に超音速の早着替え(スピン)を披露し、なぜか『豊穣の女主人』の薄灰色の制服を完璧に着こなしてフロアのど真ん中に立っていたのだ。
「ちょっ、お前! なんでウチの店の制服着てんだい!」
「お黙りなさいませ。マヤ様のお食事の給仕は、このヴァレッタの絶対領域。一滴の粗相も許されませんのよ。ささっ、マヤ様、こちらへ!」
狂信メイドのあまりの手際と図々しさに、本職であるシルやアーニャたちも呆気にとられて立ち尽くすしかない。
だが、そんな周囲のパニックなどお構いなしに、マヤは苦笑しながら店内へと歩みを進めた。
「アイズ。さっきはよくやったな」
マヤは歩きながら、隣を歩く金髪の少女の頭を、大きな手でポンと撫でた。
「俺たちが駆けつけるより先に、上層に逃げた手負い(イレギュラー)の処理を迅速に終わらせた。判断力も剣の冴えも完璧だった。お前は、自慢の一番弟子だ」
「……っ!」
マヤからのストレートな称賛と、温かい手の感触。
その瞬間、つい先ほどまで迷宮で無表情のままミノタウロスを惨殺していた『剣姫』の能面が、パァァッ! と花が咲いたように崩れ去った。
「えへ……えへへ……っ。マヤ、もっと……撫でて……っ」
アイズは頬をリンゴのように真っ赤に染め、マヤの手に自分の頭をすりすりと押し付ける。オラリオの男たちが血の涙を流して羨むような、無防備でだらしない、ただの『恋する少女』の顔。普段の氷のように冷たく美しい彼女からは、絶対に想像もつかない姿であった。
「おいコラアイズ! マヤにべたべた引っ付くな! 抜け駆けは許さへんぞ!」
ロキがギャーギャーと騒ぎ立てるが、アイズは「……ふふっ」と優越感に浸った笑みを浮かべ、マヤの袖をぎゅっと握りしめて離さない。
その、圧倒的に温かく、幸せに満ちた家族の風景。
それを、店の中央で立ち尽くしたまま、ベート・ローガは見ていた。
ベルを殴りつけようと振り上げた右手を空中で止めたまま、顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えながら。
自分が独断専行で取りこぼし、上層の初心者を危険に晒した致命的なミス。
それを尻拭いしたのは、他ならぬアイズだったのだ。マヤの称賛の言葉は、裏を返せば「ベートの失態」を前提としている。
最強の教官の前で、己の愚かさと無力さを、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられた瞬間だった。
(俺は……なんて、取り返しのつかないことを……)
ベートの喉から、ひゅっと空気が漏れる。
視線が合った。
マヤの腕に抱きつき、幸せそうに微笑んでいたアイズの金色の瞳が、不意に店の中央で硬直しているベートと、その眼前にいる白髪の少年の姿を捉えた。
その瞬間。
アイズの顔から、先ほどまでの「えへえへ」と蕩けていた少女の表情が、一瞬にして抜け落ちた。
氷点下の絶対零度。
一切の感情を排した、底知れぬ見下しの視線。
アイズは、振り上げた拳を震わせているベートを一瞥し、紅い唇を微かに開いて、冷酷に言い放った。
「…………ざっこ」
それは、ただの悪口ではない。
己の弱さから逃げ、取りこぼしをし、あまつさえその八つ当たりを自分より弱い新米冒険者(ベル)に向けようとしている、かつての仲間(狂犬)に対する、心の底からの蔑みと断絶の宣告だった。
アイズはそれだけを言い捨てると、もはやベートの存在など視界から完全に消去したようにぷいっと顔を逸らし、再び「マヤぁ……」と甘えた声を出しながら、奥のテーブルへと歩き出していく。
「あ……が……っ」
ベートは、心臓を直接氷の刃で貫かれたような衝撃を受け、その場に縫い止められた。
アイズに見下されたからではない。自分が、マヤの教えを最も忠実に体現している一番弟子から、『底辺のゴミ』として完全に切り捨てられたという事実が、彼の残されたプライドを粉々に粉砕したのだ。
——だが、そのアイズの一言を、全く別の意味で受け取ってしまった少年がいた。
(えっ!?)
ベル・クラネルは、顔面を真っ青にして冷や汗を噴き出した。
(い、今の『ざっこ』って……僕のことだよね!? そ、そうだよね! さっき上層で、ミノタウロスから逃げ回って、腰を抜かしてた僕に向かって言ったんだ!)
ベルの視点からすれば、アイズの冷たい視線が自分に向けられたと勘違いしても無理はない。
命の恩人であり、目標と定めた圧倒的な剣姫。彼女から、直接『雑魚』という烙印を押されてしまった。
並の冒険者であれば、あまりの惨めさに心をへし折られ、この場から泣きながら逃げ出していただろう。隣にいるヘスティアも、「べ、ベルくん……?」と心配そうに見上げている。
だが。
マヤの『這い上がれ』という流儀を魂に刻み込んだ白兎は、折れなかった。
(……当たり前だ。逃げ回るしかできなかった僕なんて、雑魚に決まってる。アイズさんは、厳しい事実を教えてくれたんだ。……だったら!)
ベルは、ギリッと拳を握りしめ、逃げるどころか、真っ直ぐに前を見据えた。
(這い上がってやる……! いつの日か、あの人に、マヤさんに『強くなったな』って認められるくらい、絶対に強くなってみせるッ!)
ベルの瞳の中で、勘違いから生まれた【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】の炎が、さらに凄まじい勢いで燃え盛った。
アイズは通り過ぎる際、一瞬だけベルの方へ視線を向けたが、彼の隣にヘスティア(神)がいるのを見て、「……まあいいか」とすぐに興味を失ったように能面に戻り、そのまま歩み去っていった。
(すでに神様を見つけてるなら、私が口出しすることじゃない)という程度の認識。その無関心さが、さらにベルの闘志に油を注ぐ結果となっているとは露知らず。
一方、完全な地獄に取り残されたのはベートである。
「……ッ」
ベートは震える拳を下ろし、何か言葉を絞り出そうとした。
そこへ、マヤとロキに続いて、オラリオ最強の三幹部が通りかかった。
フィン、リヴェリア、ガレス。
長年、共に背中を預け、同じファミリアの幹部として戦ってきた仲間たち。
ベートは縋るような目で彼らを見た。罵倒してほしかった。殴ってほしかった。そうすれば、まだ自分は彼らと繋がっていると実感できるからだ。
だが。
「さあ、マヤ殿の隣の席は僕がもらうよ」
「フィン、お主はいつも早いな。ワシはロキの隣で酒を飲もう」
「フッ、ならば私は若手たちの席を見てくるとしよう」
三人は、ベートに一瞥もくれなかった。
視線すら向けない。足すら止めない。
まるで、店の中央に立っている灰色の狼など、最初から『存在していない空気』であるかのように、極めて自然に通り過ぎていったのだ。
「あ…………っ」
無視。透明化。
それは、どんな罵倒や物理的な暴力よりも、ベートの魂を残酷に抉り取る仕打ちだった。
ファルナを刻んだままの放牧とはいえ、自分はもう、完全に彼らの『家族(群れ)』から切り捨てられたのだ。マヤの言う『孤立無援』の野に、自分は本当に一人で放り出されたのだと、狂犬は骨の髄まで理解させられた。
さらに、彼への容赦ない『公開処刑』は続く。
「あーあ、ほんと疲れたねー!」
奥のテーブルに陣取ったティオナが、店内に響き渡るようなわざとらしい大声で叫んだ。
「どっかのアホが中層からミノタウロス逃がすから、ウチらが上層まで掃除しに行く羽目になったやんか! ほんっと、足手まといもいいとこだよねー!」
「全くだ。マヤ様の教えを欠片も理解できない三流は、ファミリアの顔に泥を塗る迷惑な存在でしかありません!」
リリが、氷のように冷たい声でこれ見よがしに言い放つ。
「アイズさんが追いついてくれなかったら、上層の初心者が死んでたかもしれないんですよ? 信じられません」
「だよねー。自分で自分の尻拭いもできないなんて、ただの狂犬以下だわ」
ティオネも冷笑を浮かべ、レフィーヤでさえも「マヤ様やアイズさんに迷惑をかけるなんて……最低です」と軽蔑の眼差しを向けている。
(ぐっ……! あぁぁ……ッ!!)
ベートは、血が出るほど唇を噛み締めた。
店中の冒険者たちが、「おい、あのロキ・ファミリアのベート・ローガがやらかしたのか……?」「上層に魔物を逃がすなんて、最低の恥晒しだな」とヒソヒソと嘲笑しているのが聞こえる。
惨めだ。死にたくなるほど恥ずかしい。
今すぐこの場から逃げ出したい。だが、ここで尻尾を巻いて逃げれば、それこそ本当に『這い上がれない本物のゴミ』になってしまう。
帰るに帰れない。動くことすらできない。ベートは、己の犯した罪と弱さの十字架を背負わされ、その場で血の涙を流すような思いで立ち尽くすことしかできなかった。
そんな地獄の底で苦渋を舐めるベートなど、全く意に介する様子もなく。
奥の特別席では、主神であるロキが上機嫌でジョッキを掲げていた。
「さぁさぁ! 今日はウチらが奢ったるでー! ミア、店にある一番ええ酒と肉、全部持ってこーい!」
「あいよっ! ヴァレッタ、あんた勝手に仕切るんじゃないよ! オーダーはこっちに回しな!」
「ふふん、ミア様こそ。マヤ様のお口に合う最高級の焼き加減、期待しておりますわよ?」
ミアとヴァレッタが厨房で火花を散らす中、マヤは苦笑しながら運ばれてきたエールに口をつけた。
「相変わらず、お前は騒がしいのが好きだな、ロキ」
「かまへんかまへん! マヤがおるだけで、毎日が祭りみたいなもんやからな!」
ロキはマヤの腕にギュッと抱きつきながら、チラリとアイズの方へ視線を向けた。
アイズは相変わらず「マヤぁ……」と、マヤの反対側の腕を陣取って頭をすりすりしている。
その豊かに成長しつつある胸元の膨らみが、マヤの腕にムギュッと押し付けられているのを見て、貧乳の主神はギリッと歯軋りをした。
「(……こんの、アイズのやつ。最近色々でかくなりやがって……!)」
ロキは、誰にも聞こえないような小声で、しかし明確な嫉妬と敗北感を込めて毒づいた。
「(……ざっこ)」
それは、先ほどアイズがベート(と勘違いしたベル)に放った冷徹な一言とは全く違う、ただの胸の格差に対する『完全なる八つ当たり』であった。
「ん? ロキ、なんか言ったか?」
「な、なんでもないわ! さ、マヤ、あーんして!」
誤魔化すように肉をフォークに刺してマヤの口に運ぶロキ。
最強のファミリアの宴は、狂犬の絶望などどこ吹く風で、圧倒的なまでの明るさと温かさで店内の空気を完全に支配していた。
その圧倒的な光景を、少し離れた席から見つめていたベルは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「すごい……。あれが、オラリオの頂点。マヤさんが築き上げた『家族』……!」
絶対に揺るがない強さと、どんな理不尽も笑い飛ばす絆の深さ。
ベルは、自分の小ささを痛感すると共に、いつか必ずあの高みへ到達してみせると、改めて心に誓った。
「ベルくん、大丈夫かい? なんだか、すごい人たちが入ってきちゃったね……」
ヘスティアが少し圧倒されたように呟くと、ベルは「はい、大丈夫です!」と力強く頷いた。
ふと。
ベルは、背中にチリチリとした奇妙な悪寒を感じた。
(ん……? なんだろう、この凄まじい視線……)
そっと振り返り、店の隅の暗がりに目を向けたベルの心臓が、ヒュッと縮み上がった。
そこには、頭から黒いベールをぐるぐる巻きにして顔を完全に隠した、極めて不審な長身の婦人が座っていた。
テーブルには紅茶のカップだけが置かれ、そのベールの隙間から覗く鋭い眼光が、ベルの無事を確かめるように……いや、ベルの隣にピッタリと寄り添っているヘスティアを査定するかのように、穴が開くほどの勢いでガン見していたのだ。
(あ、アルフィア叔母さんだぁぁぁッ!?)
ベルは心の中で大絶叫した。
(マヤさんから『縁側で大人しくお茶でも飲んでろ』って言われてたのに! なんでこんな変装してまでストーキングしてきてるの!? ていうか、その隠しきれない怪物のオーラ、逆に目立ちすぎてるから!)
「ど、どうしたのベルくん? 汗すごいよ?」
「ななな、なんでもないですヘスティア様! さ、さあ、ご飯食べましょう! 早く食べて、早く迷宮の勉強をしないと!」
ベルは慌ててパスタを口に放り込み、過保護すぎる叔母の視線から逃れるように前を向いた。
——かくして。
どん底まで叩き落とされ、自らの罪と向き合うことを強制された狂犬。
理不尽なまでの絶望的な実力差を知り、それでも這い上がることを誓った白兎。
そして、オラリオの全てを笑い飛ばし、己の流儀で愛する者たちを導く、規格外の赤髪の鬼。
それぞれの熱く、泥臭く、そして最高に騒がしい英雄譚の歯車が、この『豊穣の女主人』の夜を境に、さらに大きく、激しく回り始めるのであった