『豊穣の女主人』の店内は、オラリオの頂点に君臨するロキ・ファミリアの圧倒的な存在感によって、一種の異界のような空間と化していた。
狂犬ベート・ローガが絶望の底で硬直する中、マヤはおもむろに奥の特別席から立ち上がった。
そして、周囲の冒険者たちが息を呑んで道を空ける中、迷いのない足取りで、ベルとヘスティアが座るテーブルの正面へと歩み寄った。
「久しいな、神ヘスティア様」
極めて洗練された、どこか貴族的な響きすら帯びた低い声。
マヤはヘスティアの前に立つと、完璧な所作で胸に手を当て、優雅に一礼して見せた。
「以前、ヘファイストス様のところでお会いして以来ですね。なかなかお会いできなくて、心痛む思いでしたよ」
そのあまりにもスマートで、女性(女神)を立てる紳士的な振る舞いに、周囲の女性客や給仕のアーニャたちが「ぽっ」と頬を染める。かつてロキを介してヘファイストスの工房を訪れた際、偶然顔を合わせていたヘスティアは、突然のオラリオ最強の漢の挨拶に目を白黒させた。
「あ、え、えっと……ひ、久しぶりだね、マヤくん」
「新しく、彼(ベル)を迎えたと聞きました」
マヤはヘスティアに向けて、太陽のように温かく、包容力に満ちた極上の笑みを向けた。
「ファミリア設立、おめでとうございます。今宵の飲み食いは、ささやかですがこちら持ちで。どうぞお好きに、彼との交流を楽しんでください。……まー、僕がダンジョンで稼いだお金じゃないんですけどね」
最強の武を誇りながら、己を『ロキのヒモ(主夫)』と偽悪的に下げるそのジョークに、店内に僅かな笑いが漏れ、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。
「貴方のような『善性の神』が率いる団は、さぞ賑やかになりましょうぞ」
マヤは、ヘスティアの神としての在り方を、最大限の敬意をもって肯定した。
「笑顔を絶やさず、彼を導いてあげてください。僕も、うちのロキには導いてもらってばかりですからね。やはり、ロキや貴方のような素晴らしい神が率いる団は、さぞ楽しくなるでしょう」
「あ、あはは……ありがとう。君にそう言ってもらえると、なんだか自信が湧いてくるよ」
ヘスティアは、自分の貧乏ファミリアを一切見下さず、むしろ主神である自分とロキを同格に並べて称賛してくれるマヤの器の大きさに、心底感銘を受けていた。
そして、マヤはゆっくりと視線を動かし、ヘスティアの隣に座る白髪の少年——ベル・クラネルへと向き直った。
「はじめまして、ベル君。僕はマヤっていうんだ、よろしく。神ヘスティアとロキは仲良しでね。顔を合わすたびに、仲良くしてるんだ」
あくまで『初対面』を装う、柔らかな声音。
「え……?」
ベルは一瞬、目を丸くして戸惑った。
ほんの数時間前、黄昏館の広間で直接言葉を交わし、「這い上がれ」と魂の教えを授けてもらったばかりではないか。なぜ、マヤは初対面のふりをしているのか。
ベルが口を開きかけたその瞬間。
マヤの深紅の瞳が、スッと細められ、ベルの目を真っ直ぐに『射抜いた』。
それは敵意ではない。極めて冷静な、大人としての計算と『隠蔽』の合図。
(あ……!)
ベルはハッと悟った。
もしここで、自分とマヤが知り合いであると周囲に知れ渡ればどうなるか。
ただでさえ、店の隅には変装した『アルフィア叔母さん』が息を潜めている。さらに、自分はヘラやアルフィアといった『死んだはずの暗黒期の怪物たち』の隠れ里からやってきた存在だ。ロキ・ファミリアの懐刀であるマヤと新米の自分が懇意だと知れれば、有象無象の連中が裏の繋がりを疑い、間違いなく面倒なトラブルに巻き込まれる。
マヤは、ベルが自分の力で歩み出せるよう、周囲の目を欺く防壁(カバー)を完璧に張ってくれているのだ。
(マヤさんの心遣い……無駄にはしないッ!)
ベルは瞬時に状況を察し、姿勢を正して堂々と名乗りを上げた。
「はじめまして! えと、ヘスティア・ファミリアの団長をしています、ベル・クラネルです!」
その怯えのない真っ直ぐな瞳と、咄嗟の機転。
マヤの瞳の奥に、「よくやった」という微かな称賛の光が灯る。
「……いい目をしている」
マヤは満足げに頷くと、ふと、その表情から温かな笑みを消し去った。
代わりに浮かび上がったのは、巨大派閥を背負う『漢』としての、重く、誠実な顔つきだった。
「しかし、すまなかったね」
マヤは、ベルとヘスティアに向けて、スッと静かに頭を下げたのだ。
「うちの犬(ベート)が、君に悪さ(取りこぼし)をしたようだ。……本当にすまなかった」
「えっ……!?」
ベルが息を呑み、ヘスティアが目を丸くする。
「アイズが助けたとはいえ、それは結果論だ。うちの連中のミスで、君を危険に晒した事実に変わりはない。団同士、無用な遺恨は残したくない。ましてや、善性の神ヘスティア様が率いる団ともなれば尚更だ。……そこは『義』を受け取ってくれると、ありがたい」
——息を呑む音が、店内のあちこちから聞こえた。
オラリオ最大派閥の事実上のトップに等しい男が、結成されたばかりのLv.1の新人ファミリアに対し、非を認めて公式に頭を下げたのだ。
「っ……! マヤ殿!」
「マヤ様……!」
奥のテーブルにいたフィンやリヴェリア、若手団員たちが、一斉に顔色を変えて立ち上がろうとした。
オラリオにおいて、ファミリアの顔である者が下位の者に頭を下げるなど、本来あってはならないことだ。「自分たちが代わりに謝罪をしなければ」と、幹部としての責任感が彼らを動かそうとした。
だが。
マヤは頭を下げたまま、背後に向かって軽く右手を上げ、ヒラヒラと振った。
『座ってろ。ここは俺に任せろ』
その無言にして絶対の制止の合図に、ロキ・ファミリアの全員がビクリと動きを止め、無念そうに、しかし大人しく席に座り直した。
そして、彼らのやり場のない怒りと失望の眼差しは、一斉に店の中央で硬直している『元凶』——ベート・ローガへと向けられた。
(あ…………ぁぁ……っ)
ベートの喉の奥から、声にならない絶望のひきつりが漏れた。
あのマヤが。自分が誰よりも強さを認め、背中を追いたかったオラリオ最強の漢が。
あろうことか、自分の犯した惨めなミスの尻拭いのために、見下していたLv.1のヒョロガリ相手に頭を下げている。
自分が、マヤに頭を下げさせたのだ。
ベートのプライドも、強さへの渇望も、全てが粉々に叩き割られ、魂が真っ白に燃え尽きるような感覚に襲われた。
「え、えと……」
圧倒的な誠意を前に、ヘスティアは慌てて手を振った。
「しゃ、謝罪はちゃんと受け取ったよ! 被害はなかったし、君のおごりもありがたく受け取らせてもらうから! だから、頭を上げておくれ!」
マヤがゆっくりと頭を上げると、ヘスティアは奥の席でふんぞり返っている友神へと視線を向けた。
「……ロキ。君の旦那、本当にすごいね……。相変わらず、器が大きすぎるよ」
そのヘスティアからの絶賛の言葉を聞いた瞬間。
ロキの鼻は、誇らしさのあまり天元突破する勢いで天を突き刺した。
「せやろ!? せやろ!!」
ロキはバンッ! とテーブルを叩いて立ち上がり、店中に響き渡る声で高笑いした。
「がーっはっはっは! ウチの旦那はな、顔も腕っ節も器のデカさも、世界で一番最高なんや! 謝罪の義理は通したんやから、ヘスティア、今日は旦那の言う通り好きに飲みーや!」
「ああ、遠慮なくそうさせてもらうよ!」
ヘスティアとロキの間で、神同士の不思議な絆(腐れ縁)による笑顔が交わされ、店内に張り詰めていた緊張感が完全に解き放たれた。
「さぁさぁ、宴会のやり直しや! ヴァレッタ、酒のお代わりや!」
「かしこまりました、ロキ様!」
他の団員たちも、マヤの完璧な立ち回りに深い感銘を受けながら、再びジョッキを傾けて楽しげな喧騒の中へと戻っていく。
そこへ。
「マヤ」
トテトテと小走りで近づいてきたアイズが、再びマヤの腕にギュッと抱きつき、そのままマヤを自分たちのテーブルへと引っ張っていこうとした。
そのすれ違いざま。
アイズは、店の中央で完全に灰のように燃え尽きているベートの横を通り過ぎる際、一切の容赦のない、三度目の冷酷な一撃を放った。
「…………ざっこ」
(ぐはぁッ……!!)
ベートのHPは、もはやマイナスを振り切って地の底まで陥没した。
「マヤ、あーんして……」
アイズがマヤの腕にしなだれかかりながら、嬉しそうに席へ戻っていく。
「あああーっ! またお前は!! 色気づきおってからに! 離れろ泥棒猫ぉぉぉッ!」
ロキがギャーギャーと嫉妬を剥き出しにして、アイズからマヤを引き剥がそうと乱闘(じゃれ合い)を始めた。
ベルは、そんなロキ・ファミリアのあまりにも自由で温かい光景を、ただ圧倒されながら見つめていた。
「まったく、お前ら少しは静かに飲めねぇのか」
マヤは苦笑いしながら席に戻ると、フィン、リヴェリア、ガレスの三幹部に向けて、周囲には聞こえない小さな声で囁いた。
「……よく耐えたな、お前ら」
その労いの言葉に、フィンが苦く笑う。
「いえ。マヤ殿に、あのような真似をさせてしまったこと……団長として、不甲斐ない限りです」
「気にするな」
マヤは手にしたジョッキの酒を軽く呷り、視線だけをベートに向けた。
「一応放牧したとはいえ、あいつはまだロキ・ファミリアの所属だ。上のモンが責任を取るのは当たり前だ。……だが、あいつが本物の『強さ』を理解して這い上がってくるまで、これから俺の頭は何回下がるのやらな」
呆れたような、しかし決して見捨ててはいない、教官としての親心。
それを聞いたリヴェリアとガレスも、小さく息を吐いてジョッキを傾けた。
——一方、カウンターの奥からその一部始終を観察していたシル(フレイヤ)は、銀色の瞳を細めて小さく首を傾げていた。
(あれ? おかしいわね……)
先ほど、あの狂犬(ベート)は「マヤの野郎があんなヒョロガリに期待しやがって」と嫉妬に狂った愚痴をこぼしていた。
だが、今のマヤの行動は、ベルを特別視しているというよりは、『ファミリアの不祥事を大人の対応で処理し、他派閥との遺恨を完璧に消し去った』という、極めて理にかなった見事な政治的立ち回りであった。
(あの狂犬、完全に一人で勘違いして空回りしていただけじゃない。……ふふっ。でも、マヤのあの隙のない男としての流儀。やっぱり、見れば見るほどゾクゾクするわね)
フレイヤのマヤに対する評価は、もはやストップ高を突き抜けていた。
そして。
宴の喧騒が最高潮に達する中、店の隅の暗がりで、黒いベールに身を包んだ婦人——アルフィアが、静かに席を立った。
(……ええ。見届けたわ。あの子はもう、立派なファミリアの団長ね)
先ほど、マヤがロキ・ファミリアの面々を制止するためにヒラリと上げた右手。
それはファミリアへの合図であると同時に、店の隅で息を潜めていたアルフィアに対する『少しだけなら見届けていいぞ。だが、もう帰れ』という、マヤからの密かな配慮(サイン)であったのだ。
甥の成長と、それを不器用ながらも完璧に守り導いてくれたマヤの背中に、アルフィアはベールの下で深く、温かい微笑みを浮かべた。
アルフィアはテーブルに金貨を数枚置くと、誰にも気づかれることなく、幻のように『豊穣の女主人』の扉からオラリオの夜の闇へと消えていった。
狂犬の絶望、白兎の決意、女神の執着、そして最強の鬼の流儀。
様々な思いが交差する酒場の夜は、ロキの高笑いとマヤの苦笑いと共に、どこまでも賑やかに更けていくのだった。