迷宮都市オラリオの管理機関である『ギルド』の本部。
その一角に設けられた防音の面談室は、今、極度の緊張と異様な静寂に包まれていた。
大理石の床に革張りのソファーが置かれた簡素な部屋。
そのソファーの片側に座っているのは、オラリオに降り立ったばかりの女神ヘスティアと、白髪の少年ベル・クラネル。そして、彼らの担当窓口であるハーフエルフのギルド職員、エイナ・チュールだった。
普段であれば、新人冒険者へのダンジョン講座や、和やかな世間話が行われるはずのこの部屋の空気は、物理的な重さを持ってエイナたちの肩にのしかかっていた。
無理もない。彼らの対面に座っている二人の人物が、オラリオにおける『絶対的な頂点』そのものだったからだ。
「——この度は、当ファミリアの団員が貴派閥の団長を致命的な危機に晒したこと、心よりお詫び申し上げる」
深く、静かな声と共に、小人族(パルゥム)の青年が立ち上がり、ベルたちに向けて深々と頭を下げた。
金色の髪に、理知的な碧眼。その華奢な体躯からは想像もつかないほどの重厚な威厳と覇気を纏う男。
ロキ・ファミリア団長、『勇者(ブレイバー)』フィン・ディムナ。
つい先日の神会(デナトゥス)において、前人未到の『Lv.8』に到達したことがオラリオ中に轟き、今や生ける伝説として語られる最高峰の冒険者が、新米ファミリアであるヘスティアとベルに対して、一切の言い訳をせずに腰を折っているのだ。
「え、あ、フィン団長……! 頭を上げてください、僕なら無事ですから!」
ベルが慌てて立ち上がり、手足をバタバタと振って制止しようとする。オラリオの英雄に頭を下げられるなど、田舎から出てきたばかりの少年には刺激が強すぎた。
しかし、フィンは頭を下げたまま、微動だにしない。
「いや、ベル君。これは、僕自身のけじめだ。どうか、受け取ってほしい」
フィンの声には、団長としての『筋』を通すという強い意志と、そして彼自身が抱え込んだ深い悔恨が込められていた。
昨夜の『豊穣の女主人』での出来事。
フィンはあの時、マヤに頭を下げさせてしまった。オラリオ最大の派閥の防壁であり、自分たちを数え切れないほどの死地から救い、最強の絆で結んでくれたオラリオ最高の漢——マヤ。
そのマヤが、狂犬(ベート)のやらかした不始末のために、他派閥の神と団長の前で自ら頭を下げ、事態を収拾してくれた。
フィンにとって、それは団長としてこれ以上ないほどの失態であり、恥辱だった。
本来であれば、ファミリアの不祥事の責任を負い、頭を下げるべきは団長である自分なのだ。マヤにその役割を押し付け、泥を被らせてしまったことへの申し訳なさが、フィンの胸を鋭く抉り続けていた。
だからこそ、フィンはマヤに強く同行を申し出た。「団長としての責務を、僕自身の手で果たさせてほしい」と。
「……フィン。もういい、顔を上げろ。お前の誠意は、彼らに十分伝わってる」
フィンの隣に座っていた赤髪の鬼——マヤが、静かに声をかけた。
黒と朱色の戦闘服を着流したマヤは、足を組み、いつものように余裕と威厳に満ちた佇まいでフィンを見守っていた。その深紅の瞳には、団長としての矜持を取り戻そうとするフィンへの温かい信頼が宿っている。
「……はい、マヤ殿」
フィンはゆっくりと顔を上げると、革袋を二つ、テーブルの上に静かに置いた。
ずしり、という重たい音が面談室に響く。
「昨日の謝罪の証だ。中身は1000万ヴァリスある。……少ないかもしれないが、これで君の折れたナイフの代わりになる装備を整えてほしい」
「い、いっっっせんまんっ!?」
ヘスティアが目をひん剥いて素っ頓狂な悲鳴を上げ、ベルはポカンと口を開けて完全に思考を停止させた。
ゴブリンの魔石を一つ落として数十ヴァリスにしかならない新米冒険者にとって、1000万ヴァリスという金額は、想像を絶する天文学的な数字だった。
だが、ここで慌てて割って入ったのは、ギルド職員であるエイナだった。
彼女は銀縁の眼鏡を押し上げながら、ギルドとしての見解を毅然とした態度で突きつけた。
「お、お待ちください、フィン団長! いくらロキ・ファミリアとはいえ、それは受け取れません!」
エイナの言葉に、ベルとヘスティアがハッと我に返る。
「ダンジョンの内部で発生した事象は、モンスターの暴走(イレギュラー)や怪物進呈(パス・パレード)も含め、すべて『自己責任』として処理するのがオラリオの原則です! 遭遇戦で巻き込まれたとはいえ、最大派閥が名指しで、それもLv.1の新人相手に1000万もの大金を詫び金として渡すなど、ギルドの歴史でも前例がありません!」
エイナの言うことは、ギルドの職員としては極めて正論だった。
ダンジョンは死と隣り合わせの無法地帯。誰かの逃がしたモンスターに殺されようが、それは「自分の実力不足」として片付けられるのが暗黙のルールだ。前例のない大金の授受は、派閥間の力関係やギルドの調停システムを狂わせかねない。
しかし。
「……それがそもそも、おかしいんだよ。エイナ」
静かな、だが一切の反論を許さない絶対的な重力を持った声が、エイナの言葉を遮った。
マヤだった。
彼は組んでいた足を解き、テーブルに身を乗り出して、エイナの緑色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ダンジョン内は自己責任。……その原則を盾に取れば、意図的にモンスターをなすりつけて同業者を殺すこと(MPK)すら、ギルドは黙認しているということになる。違うか?」
「そ、それは……! 故意の犯罪が証明されれば、ギルドも処罰を下します! ですが、証明が困難なのは事実で……」
「なら、極端な話をしよう」
マヤは鋭い視線で、理詰めの刃を突き立てた。
「フレイヤ・ファミリアのオッタル……今ならLv.6か。あいつが深層で階層主(ボス)と戦って死にかけている最中に、俺が強力なモンスターを大量に連れて行って、背後から何度も怪物進呈(パス・パレード)を仕掛けて殺したとしよう。……それでもお前は、『ダンジョンは自己責任だ』と言って俺を無罪放免にするのか?」
「ッ……!」
エイナは息を呑み、言葉に詰まった。
そんな真似が許されるはずがない。オラリオの最強の一角が、意図的な嫌がらせで殺されるようなことがあれば、ファミリア間の全面戦争(ウォーゲーム)が勃発し、街そのものが火の海になる。
「そんなことは、ただの『歪み』だ」
マヤは淡々と、しかし確かな怒りを込めて言い放った。
「自分のファミリアの不始末で、無関係な冒険者の命を奪いかけた。それに『自己責任』なんて安っぽい免罪符を貼って見て見ぬ振りをするような腐った精神で、オラリオの頂点に立てるわけがねぇ」
マヤは隣に座るフィンを指し示した。
「フィンは、オラリオのトップ3の力を有するファミリアの団長だ。そして、ベルもまた、たった一人だがヘスティア・ファミリアを背負う立派な団長だ」
その言葉に、ベルの肩がビクリと跳ねる。
「Lv.1だろうが、Lv.8だろうが関係ない。団長には、団長が直接出向いて謝罪し、ケジメをつける。やらかしたミスにはきっちりと落とし前をつける。……それが、当たり前の『漢の筋』ってやつだ」
マヤの理屈は、オラリオの常識からは外れているかもしれない。
だが、人として、そして上に立つ者としての『義』という点においては、ぐうの音も出ないほどの正論だった。
「今のロキ・ファミリアは、そういう場所なんだよ。俺の正妻(ロキ)が率い、このフィンが束ねるファミリアは、誰かの血と涙の上に胡坐をかくような恥知らずな集団じゃねぇ。……だから、この1000万でも安いくらいだ」
マヤの圧倒的な気迫と、家族(ファミリア)に対する誇り高き矜持。
エイナは完全に気圧され、反論の言葉を失っていた。彼女の目には、理不尽なダンジョンのルールに縛られたギルドのシステムよりも、目の前にいる赤髪の男が語る流儀の方が、遥かに美しく、正しいものに映ってしまったのだ。
「……エイナ」
マヤはふっと表情を和らげ、戸惑うエイナに向けて優しい笑みを向けた。
「お前がギルドの職員として、彼ら(冒険者)を真剣に守ろうとしてくれているのは分かっている。その生真面目さは立派だ。だが、今回ばかりは俺たちの『義』を通させてくれ。……この件の処理で面倒な書類手続きが増えるなら、今度『豊穣の女主人』で一番美味い酒と飯を奢るよ。今回の手間の詫びだ」
「えっ……お、奢り……」
突然の甘いフォローと、マヤの極上の笑顔。
エイナの顔がボンッと音を立てて真っ赤に染まった。ハーフエルフの生真面目な受付嬢は、このオラリオ随一の色気と度量を持つ男のギャップに完全にペースを乱され、「あ、う……わ、わかりました……今回だけは、特例として処理します……っ」と、完全に白旗を揚げるしかなかった。
「恩に着る」
マヤは満足げに頷くと、今度はテーブルの上の革袋に手を置き、真っ直ぐにベルを見据えた。
「ベル。この金は、ただの施しじゃない。俺たちが通した筋だ。だから、一ヴァリス残らず、お前のファミリアが這い上がるための『力』に変えろ」
「マヤさん……」
「そして、武器を選ぶなら、絶対に『良い物を二本』選べ。メインとサブ、あるいは予備だ」
マヤは自身の腰に提げた安物のサバイバルナイフをポンと叩いた。
「戦場では、武器が折れたら終わりだ。俺が普段使っている木の棒も、実質的なメインウェポンであると同時に、素手での戦闘に移行するための予備(ブラフ)にすぎない。……たった一本の武器に命を預けるような、愚かな真似はするな。お前の叔母さんたち(アルフィアたち)から教わった戦闘術があるなら、それを最大限に活かせる二本を、お前自身の眼で選んでこい」
ベルは、マヤの言葉を一つもこぼさないように、真剣な眼差しで聞き入っていた。
神様に借金を背負わせるのではない。最大派閥からの『落とし前』という正当な資金を使い、自分の身の丈に合った武器を、自らの眼と責任で選び抜く。
それが、這い上がるための第一歩。
「……はいッ!」
ベルは立ち上がり、マヤとフィンに向かって、力強く頭を下げた。
「フィン団長、マヤさん。この義理、確かに受け取りました。……このお金で、絶対に、あなたたちの背中に追いつけるような冒険者になります!」
その真っ直ぐで、純粋な決意の光。
フィンは静かに微笑み、「楽しみにしているよ、ベル君」と優しく頷いた。
マヤもまた、己の魂を継ぐ白兎の姿に満足げに口角を上げると、ソファーから立ち上がった。
「行くぞ、フィン。今日の夕飯は、お前の好物のスープにしてやる。ロキが腹を空かせて待ってるからな」
「ははっ、それは楽しみだ。……失礼するよ、ヘスティア様、ベル君、エイナ君」
圧倒的な存在感を残したまま、二人の男はギルドの面談室を後にした。
残されたベルは、テーブルに置かれた重たい革袋をしっかりと握りしめ、隣のヘスティアと顔を見合わせた。
「行こう、神様。僕の、僕たちの武器を選びに」
オラリオ最大の漢から受け取った、重すぎるほどの『けじめ』。
それを胸に抱き、白兎は己の牙を探すため、バベルにそびえる鍛冶神の武具店へと力強い足取りで向かうのであった。