オラリオを挙げての祭典『モンスターフィリア』。
闘技場から漏れ聞こえる歓声と、大通りを埋め尽くす屋台の熱気が最高潮に達する中、西大通りの一角には、ぽっかりと奇妙な静寂が落ちていた。
魔導書が入った布袋を放り投げ、ギルドの落とし物窓口へと全力で走り去ってしまった真面目すぎる白髪の少年。
その背中を、布袋を手渡した張本人である『豊穣の女主人』の店員シル——いや、美の女神フレイヤの端末は、ぽかんと口を開けたまま見送ることしかできなかった。
(……どういうこと? なんで、あの子は中身の価値を即座に理解して、しかも一切の未練なく捨てていけるの……?)
神の悪戯とも呼べる、完璧な罠だったはずだ。
力に飢えた新人冒険者であれば、魔導書が放つ禍々しくも甘美な魅力に抗えるはずがない。少し中身を覗き込めば、魔法は強制的に発現し、彼は新たな力を手にするはずだった。
だが、あの少年は違った。
彼の中には、すでに『本物の強さ』へと至る確固たる道標が存在しており、出所不明の怪しいアイテムに縋るような精神的脆弱さが微塵もなかったのだ。
道端にポツンと取り残された、数億ヴァリスの価値を持つ布袋。
通行人たちはただのゴミか忘れ物だと思って気にも留めない。
シルは、計画の破綻に微かな焦りを覚えながら、慌ててそれを自ら回収しようと一歩を踏み出した。
その時だった。
「——ああ、よかった! こんな所に落ちてたかー!」
大通りの人混みを縫って、極めて自然な、だがよく通る男の声が響いた。
黒と朱色の戦闘服を着流した長身の男——マヤが、周囲の野次馬にもはっきりと聞こえるような大声で安堵の息を吐き、シルの足元にあった布袋をしゃがみ込んで拾い上げたのだ。
「ん? ああ、これ俺が家から持ってきた本なんだよね。うっかり落としちゃってさ、ずっと探してたんだよ」
マヤは、布袋の土をパンパンと払いながら、極めて爽やかな笑顔をシルに向けた。
「あ、あの……っ」
シルが咄嗟に声をかけるが、言葉の続きを紡げない。
『それは私がお弁当袋に入れて少年に渡した魔導書です』などと、ただの酒場の店員が公衆の面前で言えるはずがないからだ。
マヤの深紅の瞳が、シルを真っ直ぐに見据えた。
それは、温和な笑みを浮かべていながらも、どこか有無を言わさぬ大人としての凄みを内包していた。
「見つけてくれて助かった。ありがとうな、シルちゃん」
「なんや自分、探してた本が見つかってホンマよかったやんな〜!」
マヤの隣から、赤い戦闘服を着崩した主神——ロキが、これ以上ないほど完璧なタイミングで会話に割り込んできた。
神の眼を持つ彼女は、布袋の中身がとんでもない代物であることと、夫の意図を瞬時に察知し、悪ノリのアクセルを踏み込んだのだ。
「もう、ウッカリさんなんやから! シルちゃん、ウチの旦那の落とし物見つけてくれておおきにな!」
「え、あ……いえ……」
最強のトリックスター夫婦による、息の合った阿吽の呼吸。
ロキにまで満面の笑顔で感謝されてしまえば、シルはもう完全に逃げ道も反論の余地も塞がれてしまった。
言葉を返せば不自然になり、強引に取り返せば正体を疑われる。
周囲の町人たちも、「なんだ、ロキのところのヒモが本を落としただけか」と呆れ顔で散っていき、見事なまでに事の異常性は隠蔽された。
マヤは布袋を小脇に抱えると、「それじゃあな」とロキと共に人混みの中へと悠然と消えていった。
***
「キャアアアアアッ!」
「モンスターだ! 闘技場から、モンスターが逃げ出したぞォォッ!」
平和な祭りの喧騒は、一頭の怪物の乱入によって阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
西大通りの石畳を砕き、屋台をへし折りながら現れたのは、巨大な銀色の毛並みを持った猿の怪物——『シルバーバック』。
本来であれば闘技場の檻の中にいるはずのそれは、血走った眼球をギョロリと動かし、逃げ遅れて尻餅をついていた小柄な女神——ヘスティアへと、その凶悪な丸太のような腕を振り上げた。
「ヒッ……!」
ヘスティアが恐怖に目を閉じた、その瞬間。
「神様ッ!!」
ギルドへと向かっていたはずのベル・クラネルが全速力で駆け戻り、間一髪でヘスティアの前に滑り込んだ。
新調したばかりの『ショートソード』を抜き放ち、シルバーバックの腕の振り下ろしを、刃の腹を使って斜めにいなす。
ガギィィィンッ!!
火花が散り、重たい衝撃がベルの手首から全身へと突き抜ける。
(重い……! でも、耐えられない重さじゃないッ!)
ベルはそのまま怪物の巨体を押し返すと、背後にいるヘスティアへと力強い視線を向けた。
「神様。あちらの建物の影に隠れて、見守っていてください!」
「べ、ベルくん……でも、あんな怪物……!」
「大丈夫です。僕が、神様に牙を剥く理不尽をここで叩き潰します」
ベルの赤い瞳には、かつてミノタウロスから逃げ回っていた時の怯えは微塵もない。
あるのは、守るべき者のために己の命を燃やす、本物の冒険者としての揺るぎない覚悟だった。
「……うん。ベルくん、お願いね。私、ずっと見てるから!」
ヘスティアが安全な場所へと退避したのを確認し、ベルは再びシルバーバックへと向き直った。
一発逆転の魔法という手札はない。
だが、今のベルには、故郷の隠れ里で厳しい叔母や師匠たちから徹底的に叩き込まれた、本物の戦闘技術があった。
「グルルォォォォォッ!」
怒り狂ったシルバーバックが、再び猛然と突進してくる。
ベルは力任せに打ち合うことはしない。相手の巨体と筋力に対し、正面から挑むのは愚か者のすることだ。
シュッ!
ベルの身体が、風のように薄く、軽く、敵の死角へと滑り込む。
無駄のない体捌き。それは、最強の暗殺者たちから教え込まれた『相手の重心の移動を読み、最小限の動きで躱す』という理詰めの体術。
「そこだッ!」
すれ違いざま、ベルのショートソードが閃いた。
狙うのは硬い皮膚や分厚い筋肉ではない。シルバーバックの膝裏、その腱が露出するわずかな隙間。
ザシュッ!
鋭い音が鳴り、怪物の右足から鮮血が噴き出した。
「ブモォッ!?」
機動力を削ぎ落とし、相手の攻撃の選択肢を狭めていく。
それが、ベルが導き出した泥臭くも確実な解体戦術だった。
怒りに任せて腕を振り回すシルバーバックの攻撃を、ベルはショートソードのリーチを活かして正確に弾き、いなし、時に大きく後退して距離を管理する。
(焦るな。マヤさんは言っていた……一本の武器に頼るなと。相手の意識を、この剣に向けさせるんだ!)
ベルはわざと大振りの斬撃を放ち、敵の注意を自分から離れた刃の先へと誘導した。
怪物にとって、目前をチラつく刃は目障りな脅威以外の何物でもない。
シルバーバックの視線が、ベルの右手のショートソードに完全に釘付けになる。
その時。
ベルはふと、背中が熱く焼け焦げるような、奇妙で強烈な感覚に襲われた。
(この感覚……見られてる?)
戦闘の最中でありながら、ベルの意識は周囲の空間を鋭く知覚していた。
視線を上げる必要はない。気配だけでわかる。
あの大通りの高台から……あの赤髪の教官が、冷徹で、しかし絶対的な期待を込めた眼差しで自分を見下ろしているのだ。
(見ててくれてるんですね、マヤさん……!)
ベルの瞳の奥底で、熱いものが込み上げる。
惨めだった自分。逃げることしかできなかった自分。
そんな自分に、「這い上がれ」と背中を押してくれた漢が、今、自分の戦いを見届けてくれている。
ならば、絶対に不様な姿は見せられない。
ドクンッ!!
ベルの背中で、魂の叫びに呼応するように【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】が爆発的な鼓動を鳴らした。
ステイタスの限界を突破し、異常なまでのブーストがベルの細胞一つ一つに行き渡る。
「うおおおおおおおおッ!!」
ベルの身体が、先ほどまでの速度を遥かに凌駕する神速の踏み込みを見せた。
「ブゥゥッ!?」
完全に虚を突かれたシルバーバックの懐へと潜り込む。
そして、ベルは右手に握っていたショートソードを、怪物の巨大な右眼球に向かって容赦なく深々と突き刺した。
グチャァッ!
「ギャアアアアアアアアアアッ!?」
眼球を貫かれた激痛で、シルバーバックの巨体が大きくのけぞり、その動きが完全に停止した。
ショートソードが眼窩に固定され、怪物の抵抗力と視界を同時に奪い去る。
武器を捨てるのではない。敵を『縫い留める』ための、肉を切らせて骨を断つ戦術。
ベルの右手が空く。
敵の意識が完全に眼球の痛みに集中し、絶対的な死角が生まれたその瞬間。
ベルは左手を腰の鞘へと走らせ、黒い刀身を持つ『二本目』を抜き放った。
「ここで!!」
限界まで引き絞られた弓のように、ベルの全身の筋肉が躍動する。
その手にあるのは、二人で買いに行き、ヘスティアが選んだ絆の象徴。
「僕と神様で選んだ、『ヘスティア・ナイフ』をくらええええええええええッ!!!」
オラリオの空に響き渡るような、渾身の大絶叫。
黒いナイフが、怪物の無防備な首元へと深々と突き立てられる。
そして、ベルはそのまま腕の力と体重を乗せ、分厚い皮膚と筋肉を引き裂きながら、首から胸の奥底にある『魔石』までを一気に抉り裂いて下に振り抜いた。
ガキィィィンッ!!
異常なほどの切れ味と強度を秘めた黒い刃が、怪物の魔石を粉々に粉砕する。
市販品のナイフにはあり得ないほどの耐久力が、シルバーバックの巨躯を見事に一刀両断したのだ。
「…………ッ」
シルバーバックは声にならない断末魔を上げ、その巨体を黒い灰へと変えて崩れ落ちていった。
夕焼けの中、灰を浴びながら立つ白髪の少年の姿は、紛れもなく、自らの力で試練を打ち破った『英雄』の第一歩であった。
「はぁっ……はぁっ……」
ベルは肩で息をしながら、空中に残された魔石の欠片を拾い上げ、確かな勝利の余韻を噛み締めていた。
(やった。僕一人で、倒せた……!)
だが。
感動的な空気の中、物陰から様子を見守っていたヘスティアは、顔を両手で覆い、今にも爆発しそうなほど真っ赤になってしゃがみ込んでいた。
「べ、ベルくぅぅん……っ!!」
ヘスティアの悲鳴に近い声が響く。
「す、すっごくかっこよかったし、嬉しいんだけど……っ! 技の名前叫ぶ声が、声が大きいいいいいっ!! 恥ずかしいよぉぉぉっ!!」
周囲に避難していた町人たちや冒険者たちが、「あいつら、あんな激闘の中でどんだけイチャついてんだよ」「ヘスティア・ナイフって、自分で名前つけたのか……」と、生温かい、あるいは呆れたような視線を向けている。
高台から見下ろしていたマヤも、呆れたように苦笑しながら額を押さえていた。
隣のロキは「ギャハハハ! なんやあのアホウサギ! 青春しとるなぁ!」と腹を抱えて笑い転げている。
「えっ? あ、あれ……? 僕、何かおかしなこと言いましたか!?」
周囲の空気にようやく気づいたベルが、キョトンと首を傾げる。
真面目で天然すぎる白兎の鈍感さは、戦いのセンスとは裏腹に、まだまだ発展途上であるらしい。
だが、その愛すべき不器用さこそが、ヘスティア・ファミリアの何よりの強さなのだと、オラリオの住人たちは知ることになるのだった。
***
一方その頃。
大通りの喧騒から離れ、周囲の目がなくなった路地裏に入った瞬間。
先ほどまでノリノリで大芝居を打っていたロキが、ピタリと足を止め、呆れたように隣の夫へツッコミを入れた。
「……で? なんでこんな道端に、数億ヴァリスはくだらない『魔導書』が落ちてんねん。しかも、よりによってあのベルのすぐ近くにな」
ロキの神の眼は誤魔化せない。彼女は、あの布袋の中身が異常な呪物であることを完璧に見抜いていた。
「さあな」
マヤは布袋を軽く放り投げ、片手でキャッチしながら淡々と答えた。
「だが、あのまま放置すれば大惨事になりかねなかった。かといってギルドに持っていくと、誰の所有物かで面倒な調査が入る。ベルが第一発見者なら、あいつまで疑いの目を向けられるからな」
マヤは普段と変わらない顔で、ただの事実として言葉を続けた。
「しばらく黄昏館の金庫で一時保管だ。次の神会(デナトゥス)ででも、お前から議題に上げてくれ。持ち主が名乗り出ないなら、変な連中に悪用されるより、ウチで預かっとくのが一番無難だろう」
私欲も打算もない。ただ、大人として当たり前の事後処理を口にしただけだった。
「……ホンマ、自分そういうとこは妙にしっかりしとるよな」
ロキは呆れ半分、だが確かな信頼を込めて小さく息を吐いた。
この男にかかれば、裏にどんな神の陰謀が渦巻いていようと、ただの「適切な遺失物管理」として、日常の枠組みの中に収められてしまうのだ。
そして——その神の陰謀の主である美の女神は。
「な、なんなのよぉぉぉぉぉッ!?」
バベルの最上階。
豪華絢爛な神室の中で、フレイヤは完全にゲシュタルト崩壊を起こし、頭を抱えてベッドの上を転げ回っていた。
「本当にマヤの本だったの……!? いや、そんなわけない! でも、あの人は他人の物を私欲で盗むなんて絶対にありえないわ! 打算の欠片も見えなかったもの! え? じゃあ私が用意した魔導書は!? ベルがどっかに落としたの!? それともオッタルが本をすり替えたの!?」
ロキの完璧な悪ノリも加わったことで、フレイヤの思考は完全に迷宮に囚われていた。
マヤの魂の高潔さが、皮肉にも「彼が悪意を持って嘘をつくはずがない」という強固な錯覚を生み出し、美の女神の知能を著しく低下させてしまったのだ。
「……あぁっ、もう! わけがわからないわ! でも、あの男……ただのヒモなわけがない……ッ!」
フレイヤは乱れた銀髪をかき上げながら、ギリッと唇を噛んだ。
彼女の胸の奥底で、ベルへの興味などすでに消し飛び、マヤという底知れぬ男への異常なまでの執着が、黒く、ねっとりと渦を巻き始めていた