シルバーバックとの激闘から一夜が明けた。
ギルドでの事後報告と魔石の換金を済ませたベルとヘスティアは、ホームである教会の地下室で、昨日購入したばかりの武器の手入れを行っていた。
「神様……このナイフ、やっぱりおかしいです」
布で刃を拭っていたベルが、不思議そうな顔で首を傾げた。
「おかしいって、何がだい? ベルくん」
「こっちのショートソードを見てください。昨日の戦いでシルバーバックの骨や硬い皮を斬ったので、刃こぼれとまではいかなくても、微細な傷がついてるんです。でも……」
ベルは、もう一方の手に持った『ヘスティア・ナイフ』をランプの光にかざした。
黒い刀身に、神聖文字(ヒエログリフ)を思わせる紫色の装飾が施された神秘的な一振り。
昨日、あれほど分厚い怪物の筋肉と魔石を真っ二つに引き裂いたというのに、その刃には傷一つ、血の汚れすら一切付着していなかったのだ。
「不良品どころか、威力が凄すぎます。これ、本当に数百万ヴァリスで買えるものなんでしょうか……?」
ベルの純粋な疑問に、ヘスティアも「うーん」と腕を組んで唸った。
ただの市販品としては、明らかに常軌を逸した耐久力と切れ味。
不安になった二人は、その真意を確かめるため、バベルに店を構えるヘファイストスの元へと向かうことにした。
***
「あら、さっそく役立ったみたいだね」
バベルの下層階。高級武具店の奥から現れた赤髪の鍛冶神ヘファイストスは、来店した二人を見るなり、すべてを見透かしたような笑みを浮かべた。
「ヘファイストス様、昨日買わせていただいたこの武器なんですが……」
ベルがカウンターにショートソードと黒いナイフを置くと、ヘファイストスは一つ頷いてそれらを手に取った。
「ショートソードの方は、確かにうちの職人が打った市販の良品だ。だが、無理な使い方をすればいずれ刃こぼれするし、折れる。手入れを怠るんじゃないよ」
「はい。でも、こっちのナイフが……」
「ナイフの方だけはね」
ヘファイストスは、黒い刀身を指先で弾き、澄んだ金属音を響かせた。
「私が直接、暇つぶしに打ったやつなのよ」
「「えええええええっ!?」」
ベルとヘスティアの声が完全にハモった。
オラリオ最高の鍛冶神であるヘファイストスの直作品。それはすなわち、神造兵装と同義であり、数百万ヴァリスなどという端金で買える代物ではない。
「誤解しないでおくれ。私の基準じゃ、これは『失敗作』だ」
驚愕する二人に、ヘファイストスは苦笑しながら種明かしを始めた。
「絶対に壊れない【不壊属性(デュランダル)】は付与できたんだけど、ステイタスの伝導率とか、重量のバランスが私の基準じゃ気に入らなくてね。『失敗作』として、一般の棚の奥に突っ込んでおいたのさ」
「し、失敗作って……! 不壊属性がついてる時点で、下界じゃ数億ヴァリスは下らない超一級品じゃないか!」
ヘスティアの叫びに、ヘファイストスは「まあね」と肩をすくめた。
「じゃあ、なんでそんな凄い武器を、僕にあの値段で……?」
ベルが戸惑いながら尋ねると、ヘファイストスは眼帯のない方の瞳を細め、まっすぐに少年の赤い眼を見つめ返した。
「あんたのあの『覚悟と理屈』が気に入ったから、こっそり値引きして売ってやったのさ」
「僕の……覚悟……」
「あんな完璧な殺人術のロジックを語る新人を、ただの素人扱いして追い返すほど、私はヤキが回っちゃいない。それに……」
ヘファイストスは、隣でポカンとしている小柄な女神へと優しい視線を向けた。
「ヘスティアがデザインを選んだんだろう? ……親友が選んだ武器が、すぐに折れるようなナマクラじゃ、私も格好がつかないからね」
それは、神としての威厳ではなく、一人の友人としての粋な計らいだった。
「ヘファイストスぅぅぅっ!!」
ヘスティアは顔をくしゃくしゃにして号泣し、カウンター越しにヘファイストスへと思い切り抱きついた。
「わっ、こら、鼻水を押し付けるんじゃないよ!」
「ありがとう、ありがとうっ! 私、あんたのこと絶対忘れないよぉぉ!」
「大袈裟だねぇ、まったく」
文句を言いながらも、ヘファイストスはヘスティアの背中を優しく撫でている。
ベルもまた、その温かい光景に胸を打たれ、鍛冶神に向けて深く、深く頭を下げた。
「——おや、奇遇だな」
感動的な空気を切り裂くように、店の入り口からのんびりとした男の声が響いた。
「げっ! ロキ!!」
「あ? なんやチビッコ、お前も来とったんか。朝から暑苦しい顔見せんといてや」
ふらりと店に入ってきたのは、黒と朱色の戦闘服を着たマヤと、赤い戦闘服を着崩したロキの二人だった。
ロキがヘファイストスに武具の修繕依頼の用事があったため、付き添いで来たらしい。
「誰が暑苦しい顔だ、この貧乳タレ目! 絶壁女!」
「あぁん? 言うたなこのロリ巨乳! 脳みそまで脂肪で詰まっとるんちゃうか!?」
顔を合わせた瞬間にギャーギャーと小学生のように取っ組み合いの喧嘩を始める二柱の女神。
ベルは「えっ、ええっ!?」とオロオロしながらその光景を初めて目の当たりにし、完全に戸惑っていた。
しかし、マヤは妻とヘスティアの喧嘩など日常茶飯事だと言わんばかりに完全にスルーし、ベルの元へと歩み寄った。
「昨日は災難だったな。怪我はねぇか?」
「マヤさん! はい、おかげさまでなんとか無事でした!」
ベルが背筋を伸ばして答えると、マヤはポンと少年の肩を叩き、周囲に聞こえるような声で言った。
「それと、俺が落とした『本』、見つけやすい場所に置いておいてくれて助かった。ありがとうな」
その言葉に、ベルの顔がパッと明るくなった。
「あ、あれ、マヤさんの落とし物だったんですか! シルさんが間違えてお弁当袋に入れたんだと思って、ギルドに届けようとしてたんです。持ち主に戻って、本当によかったです!」
ベルは、あの禍々しい魔導書が『マヤが落としたただの高価な本』であると完全に信じ込み、心の底から安堵したような屈託のない笑顔を見せた。
マヤは中身が魔導書であることには一切触れず、ただ穏やかに頷く。
ヘスティアもヘファイストスも、「マヤが本を落として、ベルがそれを拾いかけた程度の事」としか認識していなかった。
「いい獲物、見つけたようだな?」
マヤの視線が、カウンターに置かれた漆黒のナイフへと向けられた。
「あ、はい! ヘスティア・ナイフって言うんです!」
「少し、持ってみてもいいか?」
「もちろん、どうぞ!」
マヤが黒いナイフを手に取った、その瞬間だった。
彼の長い指先で、ナイフがまるで生き物のように跳ねた。
クルッ、シュルルッ!
手首の微細なスナップと指の動きだけで、ナイフが掌の上で高速回転し、空中に放り投げられ、逆手でピタリとキャッチされる。
一切の淀みも、無駄な力みもない、完璧な刃物の掌握。
遊んでいるように見えて、いつでも相手の急所を抉れる位置に刃が収まる、洗練された技術だった。
ピタリ、とナイフの回転を止めると、マヤは自ら峰を握り、柄の方をベルに向けてスッと差し出した。
「いい得物だ。大切にしろよ」
「あ、はい! ありがとうございます!」
ベルが両手で丁寧に受け取ると、一部始終を見ていたヘファイストスが感心したように息を吐いた。
「今のナイフ捌き……ただの手品じゃないね。重心を完全に支配してる。あんた、ただのヒモじゃないだろ」
鍛冶神からの鋭い称賛。
しかしマヤは、飄々とした態度のまま、流れるような優雅な動作で胸に手を当てて一礼した。
「ありがとう。貴方のような『鍛冶の母』からそのようなお褒めの言葉を賜り、嬉しい限りです」
完璧な大人の対応と、嫌味のない流麗な敬語。
ヘファイストスは「……食えない男だね」と苦笑するしかなかった。
マヤは次に、隣に置かれていたショートソードを手に取った。
刃に微細な傷がついているのを指でなぞり、ふむ、と顎に手を当てる。
「ベル。本を見つけてくれたお礼に、ショートソードをもう一本、俺が買ってやる」
「えっ!? い、いえ、そんな悪いですよ!」
「気にするな。これで三本だな。一本は予備として、家にでも置いて修繕に出したりしながらうまく使い回せ。……俺と同じ、三本だ」
マヤは、腰のサバイバルナイフと木の棒をポンと叩き、ニカッと悪戯っぽく笑った。
『武器が一本折れたら死ぬ』という教えを、彼なりの不器用な優しさでサポートしてくれたのだ。
「マヤさん……ありがとうございますッ!」
ベルが嬉しそうに頭を下げると、マヤは振り返り、ヘスティアと取っ組み合っているロキに向けて親指を立てた。
「ロキ。そういうわけだ、支払いたのむわ」
「はぁ!? なんでウチの金やねん! ……ま、ええわ。チビッコへの見舞い代や、好きなん選び!」
文句を言いながらもあっさりと了承するロキに、ヘスティアは「うぐぐ……なんか悔しいけど、ありがたく買ってもらうぞ!」と地団駄を踏んだ。
***
その和やかな光景を、遥か上空から見下ろしている者がいた。
バベルの最上階。
豪華絢爛な神室の窓際に立ち、下界を監視していた美の女神・フレイヤは、ギリィッと白い歯でハンカチを噛み締めていた。
(ベルが……『マヤさんの落とし物でよかった』って顔をしてる……!?)
彼女の眼には、鍛冶屋の中で交わされた会話のすべては聞こえない。
だが、ベルのあの嘘偽りのない純粋な笑顔と、マヤがポンと肩を叩いて感謝している様子ははっきりと見て取れた。
(じゃあ、やっぱりあの布袋に入っていたのは、本当にマヤの本だったの!? 魔導書よね? あれ? おかしいな? マヤの本なら、魔導書と似た何か? でも、Lv.8が何人もいるロキ・ファミリアなら、魔導書を数冊持っていても不思議じゃない……っ)
フレイヤの頭の中で、情報がぐちゃぐちゃに絡まり合っていく。
(じゃあ、私がシルを通じて渡した本は、一体どこに消えたの!? いつかのタイミングで、マヤの本とすり替わっていたってこと!? どうやって!? いつ!?)
真面目すぎるベルの行動と、マヤの完璧な大人の対応が組み合わさった結果、フレイヤは自分自身の仕掛けた罠の行方すら見失ってしまった。
ベルの嘘偽りのない笑顔が、治安維持のためのマヤの『とっさの機転』を、フレイヤにとっての『完璧な真実』へと裏付けてしまったのだ。
「……あの男……どこまで先を読んで……ッ!」
オラリオの裏を牛耳るはずの美の女神は、マヤの底知れぬ(と勝手に勘違いした)知略の前に完全に蚊帳の外に置かれ、一人ベッドの上に倒れ込んで悶絶するのだった。