世界最大の迷宮都市オラリオ。
神々と数多の種族が集うその巨大な街の片隅に、新興の『ロキ・ファミリア』が拠点を構えてから、わずかな月日が流れていた。
後にオラリオの二大巨頭の一角を担うことになるこのファミリアは、創設初期からして、すでに常識という枠組みを完全に破壊し尽くしていた。
「あーん、マヤぁ。このお肉、柔らかくてめっちゃ美味しいわぁ。もう一口ちょうだい!」
「ほら、口を開けろ。……ん、上手だ。だが野菜も食わないと肌荒れするぞ、ロキ」
「マヤが食べさせてくれるんやったら、ピーマンでも何でも食べるで!」
真新しい本拠地の広間。そこでは今日も今日とて、主神たるロキが、見目麗しい赤髪の青年の膝の上に陣取り、甲斐甲斐しく食事を口に運ばれていた。
神の威厳など微塵もない、ただひたすらに旦那に甘え腐るデレデレの女神。
そして、そんな彼女を溺愛し、手作りの料理で餌付けしている謎の青年、マヤ。
「…………これが、私が生涯を捧げると誓った神の姿、なのか?」
その光景を部屋の入り口で立ち尽くして見ていたのは、翡翠色の髪を持つ美しいエルフの女性だった。
王族エルフ、リヴェリア・リヨス・アールヴ。齢71歳にして故郷の森を飛び出し、広い世界を知るためにロキのファルナを受けた彼女は、入団早々、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「主神が男の膝の上で阿呆のように口を開けている……。エルフの王宮でも、ここまで堕落した光景は見たことがないぞ」
リヴェリアの嘆きに、執務机で書類の山と格闘していた14歳の団長、フィン・ディムナが、同情に満ちた苦笑いを浮かべる。
「諦めてくれ、リヴェリア。うちのファミリアは、ロキ様の上に『マヤ殿』という絶対的なヒエラルキーが存在しているんだ。僕も最初は胃が痛くなったが、慣れればどうということはない」
「慣れてたまるか。フィン、お前も団長なら少しは主神を窘めたらどうだ」
「無理だよ。ロキ様にとって、神の威厳よりもマヤ殿の膝の上の方が百万倍重要らしいからね」
リヴェリアは深い溜息を吐き、毅然とした態度で広間の中央へと進み出た。
「ロキ。いくらなんでも不真面目すぎる。我々はこれからオラリオで名を上げ、ファミリアを大きくしていかなければならないのだ。貴女がそのような自堕落な態様では——」
「あー、リヴェリア、小言は後にしてぇや。今、ウチは旦那との大事なイチャイチャタイムなんやから」
「なっ……! 貴女という神は!」
激昂しかけたリヴェリア。しかし、その怒りの矛先を、ロキの腰を抱いていたマヤが静かに遮った。
「すまないな、リヴェリア。俺が甘やかしすぎた」
マヤはロキを膝から降ろし、ゆっくりと立ち上がった。
18歳(外見年齢)の青年。身長ではリヴェリアとそう変わらないはずだが、彼が真っ直ぐにリヴェリアを見据えた瞬間、王族エルフの鋭敏な感覚が、肌を刺すような微かな『重圧』を捉えた。
「王族の森を出て、こんな騒がしい場所に来て苦労をかけているな。お前の誇り高さと、ファミリアを正そうとする生真面目さには敬意を表する。義には礼を、真実には敬意を。……ロキを支えてくれて、感謝する」
マヤは右手を胸に当て、非の打ち所がない美しい礼の所作を見せた。
その洗練された佇まいと、言葉の端々から滲み出る絶対的な上位者としての余裕、そして底知れぬ『器の大きさ』に、リヴェリアは思わず息を呑んだ。
(なんだ、この男は……。ただの人間のはずだ。だが、この圧倒的なまでの精神的な支柱……まるで、何百年も生き抜いた古き王のような……)
マヤのファルナは、先日ロキの手によって刻まれたものの、基本ステータスはすべて『0』という異常なバグ数値を叩き出していた。魔力も筋力も、システム上は最弱。
しかし、リヴェリアの魔法使いとしての直感は、目の前の男が意図的に『何か』を強固に抑え込んでいることを告げていた。
「……マヤ、と言ったか。貴方は、一体何者なのだ。なぜロキはそこまで貴方に惹かれている?」
リヴェリアの問いに、マヤはふっと優しく微笑んだ。
「俺はただのロキの旦那であり、このファミリアの『影の守護者』だ。戦いも政治も、お前たち優秀な首脳陣に任せる。俺の仕事は、俺の大切な正妻(ロキ)と、その家族であるお前たちが『笑顔』でいられるように、裏から少しだけ掃除をするだけさ」
「掃除、だと……?」
「ああ。どんな時でも笑っている奴が一番強い。お前も、眉間に皺ばかり寄せていないで、たまには肩の力を抜け。いい女が台無しになるぞ」
そう言って、マヤはリヴェリアの頭をポンと軽く撫でた。
エルフの王族の頭を、初対面の男が撫でるなど万死に値する行為だ。しかし、マヤのその手には一切の邪心がなく、ただ純粋な『慈愛』と『包容力』だけが込められており、リヴェリアは不思議と不快感を覚えなかった。
むしろ、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ解けたような気がした。
(この男……ただのヒモや自堕落な寵愛者ではない。ロキが心底惚れ込むのも、無理はない、か)
リヴェリアは小さく息を吐き、「……気安く触るな」とだけ言って、少しだけ頬を染めて顔を背けた。
***
それから数日後。ロキ・ファミリアに、三人目の強力な幹部候補が加わった。
ロンザの集落出身のドワーフ、ガレス・ランドロックである。齢28歳にして、すでに岩山のような強靭な肉体と豪快な性格を持つ彼は、ロキの誘いを受けてオラリオへやってきた。
「がはははっ! ここがロキのファミリアか! 随分と綺麗に片付いてるじゃねぇか!」
拠点に足を踏み入れるなり、樽のような大音声で笑うガレス。
その日の夜、歓迎の宴が開かれ、広間には大量の酒と肉が並べられた。
「おう、アンタがロキの旦那様ってやつか! 噂には聞いてるぜ。レベル0のステータスで、主神を骨抜きにしてる最強のヒモだってな!」
ガレスはジョッキに並々と注がれたドワーフ特製の強いエールを片手に、マヤの前にどっかりと座り込んだ。
マヤはエプロン姿のまま、厨房から持ってきた大皿の肉料理をガレスの前にドンと置く。
「ヒモではない。専業主夫と呼んでほしいな。まあ、ロキのヒモという肩書きも嫌いではないが」
マヤは涼しい顔で自身のジョッキを持ち上げ、ガレスと乾杯した。
「がははっ、面白い男だ! だがな、いくらロキが惚れ込んでようが、オラリオじゃ力こそがすべてだ。アンタ、本当に戦えねぇのか? 男なら、腕相撲の一つでもどうだ!」
ガレスは分厚い丸太のような右腕をテーブルに突き立て、好戦的な笑みを浮かべた。
ドワーフの筋力は全種族でもトップクラス。まだレベル1とはいえ、その腕力は並の冒険者を凌駕する。
周囲で飲んでいたフィンとリヴェリアが、「あちゃあ……」という顔で視線を逸らした。彼らはすでに、マヤが日常的に見せる『規格外の物理演算無視』を嫌というほど見せつけられているからだ。
「腕相撲か。いいだろう。手加減はしないぜ、ドワーフの戦士」
マヤはエプロンを外し、静かに右腕をテーブルに立てた。
ガレスの巨大な手と、マヤの手が組み合う。
「いくぞ、旦那! ぐおおおおおっ!!」
ガレスは開始の合図と共に、全身の筋肉を膨張させ、テーブルが軋むほどの剛力を込めた。ドワーフの誇りを懸けた、一切の手加減なしの全力。
——しかし。
「なっ……!?」
ガレスの腕は、ピクリとも動かなかった。
まるで、大地の底深くまで根を張った世界樹を相手に押し合いをしているかのような、絶対的な『不動』。
マヤの表情には、一滴の汗も、力んでいる様子すら微塵もない。ただ静かに、深紅の瞳でガレスを見つめているだけだ。
その瞬間、ガレスの戦士としての本能が、最大級の警鐘を鳴らした。
(なんだ、こいつの奥底に眠っているこの『気配』は……っ!)
ステータスが0だとか、レベルがどうだとか、そんな次元の話ではない。
マヤの腕を通じて伝わってくるのは、数え切れないほどの修羅場を潜り抜け、あらゆる理不尽を暴力でねじ伏せてきた『鬼』の闘気。相手が強ければ強いほど際限なく跳ね上がる、底なしの力。
もしマヤがほんの少しでも本気を出せば、自分の腕などテーブルごと消し飛ぶ。ガレスは拳をぶつけ合うまでもなく、その圧倒的な格の違いを肌と魂で理解させられた。
「……はぁっ」
ガレスは自ら力を抜き、ふっと息を吐いて手を離した。
「どうした? もう終わりか?」
マヤが首を傾げると、ガレスは呆然とした顔から一転、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声を上げた。
「だーっはっはっはっは!! 降参だ、降参! とんでもねぇ旦那を捕まえたもんだぜ、ロキの野郎は!」
ガレスは残っていたエールを一気に飲み干し、ドンとジョッキをテーブルに叩きつけた。
「レベル0だのヒモだの、世間の数字なんて当てにならねぇな! アンタがいりゃあ、このファミリアの背中は絶対に安全だ。俺は前だけ向いて戦えるってもんよ!」
「賢明だな、ガレス。お前たちの背中は、俺がこの『サバイバルナイフ』で守ってやるさ」
マヤが懐から取り出した無骨なナイフを見せると、フィンが「それ、力を抑えるためのリミッターですよね……」と小声でツッコミを入れたが、ガレスはさらに大笑いした。
こうして、フィン、リヴェリア、ガレス。
後に『三首領』と呼ばれる強靭な幹部たちが、ロキ・ファミリアに集結した。
彼らを束ねる主神ロキは、宴の喧騒をよそに、すっかり酔っ払ってマヤの胸板に顔を擦り付けている。
「んへへぇ〜……マヤぁ、ウチの子供たち、ええ子らばっかりやろぉ……?」
「ああ。優秀な連中だ。お前は果報者だな、ロキ」
「せやろ? でも、一番の果報は、マヤがウチの旦那になってくれたことや……ちゅっ」
人目も憚らずマヤの頬にキスをするロキ。リヴェリアがまた頭を抱え、フィンが苦笑し、ガレスが酒を煽る。
表のステータスはオール0、外見年齢は18歳から歳をとらない鬼族の青年。
彼は一切のファミリア運営に表立って干渉せず、ただ正妻であるロキを溺愛し、手料理を振る舞う最強のヒモとして振る舞う。
しかし、いざファミリアに危機が迫れば、一切の情け容赦なく敵を粉砕する『裏の守護者』。
そして彼が抱える『天上天下唯我独尊』という、命を削る自己犠牲の真実を知るのは、正妻であるロキただ一人。彼女は決してそれを口外せず、ただ彼が修羅に堕ちぬよう、その胸に笑顔を繋ぎ止める誓いを立てていた。
強大なる三首領と、規格外の影の守護者。
ロキ・ファミリアは、いよいよ絶対王者ゼウスとヘラが君臨するオラリオの表舞台へと、その歩みを進めていくのであった。