迷宮都市オラリオの北西に位置する、巨大な尖塔を持つ館——『黄昏館』。
最大派閥ロキ・ファミリアの本拠地であるその食堂は、今宵、いつにも増して熱気と喧噪に包まれていた。
「今日は祭りの無事と、チビッコの初勝利を祝して! ぱーっと宴会や!!」
主神であるロキの高らかな宣言と共に、大食堂に乾杯の声が響き渡った。
昼間に起きたモンスターフィリアでの騒動。突如として闘技場から怪物が逃げ出すというアクシデントがあったものの、大きな被害が出る前に事態は収束した。その労いも兼ねての宴である。
広い食堂を縫うように、給仕たちが慌ただしく、しかし洗練された動きで行き交っていた。
その中心で的確な指示を飛ばしているのは、筆頭メイドのヴァレッタ・グレーツである。
かつて闇派閥の幹部として恐れられた面影は、今や完璧に調教され尽くした有能なメイドのそれへと変貌していた。
「そこのテーブル、酒樽が空になりかけています! 早く次を運びなさい! 料理が冷める前に配膳を終えること! ……マヤ様のお食事に粗相があったら、その時は分かっていますね?」
冷徹で隙のない采配。メイド服に身を包んだヴァレッタは、マヤへの絶対的な忠誠を原動力として、この巨大ファミリアの胃袋を見事に回している。
そして、そのヴァレッタの脇で、静かに盆を運ぶ女性がいた。
長い白髪に、透き通るような肌。かつて最強の女帝と呼ばれたアルフィアである。
病の進行はマヤの医療技術によって抑え込まれ、今はこうして黄昏館の「居候」として、穏やかな時間を過ごしていた。メイド服ではなく質素だが上品な私服姿の彼女は、手持ち無沙汰になるのを嫌い、こうして時折ファミリアの仕事に手を貸している。
「アルフィア」
厨房の近くで休んでいた彼女に、黒と朱色の戦闘服を着流したマヤが声をかけた。
手には果実酒の入ったグラスが二つ握られている。マヤはその一つを、アルフィアへと差し出した。
「ありがとう」
アルフィアは静かにグラスを受け取ると、視線を食堂の喧騒へと向けた。
「今日の昼間、ベルの勇姿……見てたんだろ? よかったな」
マヤの言葉に、アルフィアは薄く微笑んだ。
昼間のシルバーバックとの戦闘。ベルが理詰めの解体戦術で見事に怪物を討ち取ったあの一戦を、彼女は人知れず遠くから見守っていたのだ。
「ええ。……驚いたわ。あの子があそこまで、冷静に立ち回れるようになるなんて。私たちの教えを、彼なりにしっかりと昇華していた」
アルフィアの声には、甥の成長を噛み締めるような深い安堵が滲んでいた。
「ただの泣き虫だったあの子が、自分の足で立ち、自分の牙で敵を噛み砕いた。……貴方が、背中を押してくれたおかげよ、マヤ」
「俺はきっかけをやっただけだ。あいつの中には、お前ら家族から注がれた愛情と、生き抜くための基礎がちゃんと根付いてた。ベル自身が、それを引き出し方を覚えたにすぎない」
マヤはグラスを傾けながら、淡々と答える。
「だが、あれで敵も簡単には手出しできなくなったはずだ。立派な冒険者の第一歩だな」
アルフィアは静かに頷き、果実酒を口に含んだ。その横顔は、かつての暗黒期で血に塗れていた頃の氷のような冷たさは消え、ただの優しい一人の「叔母」の顔になっていた。
マヤはアルフィアと少し言葉を交わした後、食堂の中心で盛り上がっている少女たちのテーブルへと足を向けた。
「お前ら、今日はお疲れさん」
マヤが声をかけると、食事を楽しんでいたアイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤの五人が、一斉に姿勢を正した。
「マヤ、お疲れ様」
アイズが、口元にクリームをつけたまま小さく首を傾げる。
「急なモンスターの乱入があったが、よく冷静に対処してくれた。見事な警備だったぞ」
マヤは彼女たちを見回し、労いの言葉を口にした。
「お前らが迅速に動いてくれたおかげで、被害は最小限で済んだ。日頃の訓練の成果がしっかり出てるな。ありがとう」
普段は厳しい教官であるマヤからストレートに褒められ、少女たちの顔が一瞬で赤く染まった。
「あ、あわわわ、もったいないお言葉ですマヤ様ぁっ!」
レフィーヤが顔を真っ赤にしてパニックになり、エルフの長い耳を震わせる。
「マヤ様にそう言ってもらえるなら、あたし、もっともっと頑張る!」
ティオナが屈託のない笑顔で身を乗り出し、隣でティオネも「ええ、私たちに任せておいてください!」と胸を張る。
「リリはただ、皆様の後ろで指示を出していただけで……でも、嬉しいです」
リリは大きなリュックを下ろした小さな体を縮ませながら、はにかんだ。
「ん。……私も、もっと頑張る」
アイズは口元のクリームを拭いもせず、真っ直ぐな瞳でマヤを見上げて頷いた。
マヤは苦笑しながら手を伸ばし、アイズの口元を親指で軽く拭ってやる。その何気ない仕草に、アイズの顔はさらに熱を帯びた。
「今日はゆっくり休んで、美味いもん食え」
マヤはそう言い残し、今度は食堂の奥、首脳陣が集まるテーブルへと向かった。
そこでは、団長のフィン、副団長のリヴェリア、そして重鎮のガレスが、静かに杯を交わしていた。
「おう、マヤ。お前も飲むか?」
ガレスが豪快に笑いながら酒瓶を持ち上げる。
「ああ、少しもらうわ」
マヤは空いた席に腰を下ろし、フィンとリヴェリアへと視線を向けた。
「お前らも、留守番と書類整理ありがとうな」
「いや、僕たちはホームで仕事をしていただけだよ」
フィンが苦笑交じりに答える。
「それが大事なんだよ」
マヤは真面目な顔で首を振った。
「街でちょっと騒ぎが起きたからって、お前らみたいな最高戦力が軽々出張るもんじゃない。上がどっしり構えてるからこそ、下は安心して経験を積める。役割分担ってやつだ」
「……役割分担、か」
リヴェリアが静かに息を吐き、杯を見つめる。
「お前がそう言ってくれると、留守番を押し付けられたという気が少しは紛れるな」
「まあ、書類の山と格闘するのも団長たちの立派な仕事だからな。本当にお疲れさん」
マヤが杯を掲げると、三人の中にも自然と笑みがこぼれた。
フィンは、目の前で静かに酒を飲むマヤの姿を見つめながら、深い感慨に耽っていた。
かつて、彼がロキ・ファミリアに拾われたばかりの頃。マヤという男は、強大すぎる力を持て余し、どこか世界に対して冷めた視線を向けているようなところがあった。
しかし今は違う。
『笑顔』と『家族』を手に入れ、不器用ながらも自然に仲間を愛し、労う術を知っている。
この男が教官として、そしてロキの伴侶として中心にいるからこそ、今のロキ・ファミリアはかつてないほどの結束と強さを誇っているのだ。
フィンは、マヤの横顔を見ながら、静かに杯を干した。
***
深夜。
宴会の喧騒も静まり返った黄昏館の最上階。
広々とした寝室のベッドの上で、マヤとロキは身体の熱を冷ましながら静かに寄り添っていた。
寝台を覆う天蓋の隙間から、青白い月光が差し込み、二人の肌を微かに照らしている。
「ロキ。今日はベルの武器の件、立て替えてもらって悪かったな」
マヤは、自身の胸に頭を預けているロキの赤い髪を撫でながら口を開いた。
「俺は一応『ヒモ』ってことになってるんでな。いつも財布を任せてすまん」
「アホか」
ロキはマヤの胸板に頬を擦り付けながら、可笑しそうに笑い飛ばした。
「ヒモが聞いて呆れるわ。ウチら、もう二十八年も一緒に居るんやで? あんたがどれだけ稼いで、ウチのファミリアの倉庫を潤してるか、ウチが一番よう知っとる」
ロキの言う通りだった。
ロキ・ファミリアの資金力は、すでにオラリオのどの派閥も追いつけないほどの莫大な規模に達している。
深層での探索や討伐を当たり前のようにこなし、市場の物価をコントロールできるほどの素材を供給している。その基盤を作り上げたのは、他でもないマヤの徹底した節制と、無駄な浪費を許さない管理体制だった。
さらに言えば、マヤが単独でウダイオスを討伐して持ち帰った超希少なドロップアイテムの数々。それらは市場に出すこともなく、ただの『倉庫の肥やし』として保管されているほどの余裕があるのだ。
「あんたの稼ぎに比べたら、武器の一本や二本、駄菓子買うようなもんや。……それに、昼間の魔導書の件もや」
ロキの表情が、少しだけ真剣なものへと変わった。
「あの時の機転、さすがウチの旦那やで。治安維持の観点からも、あれは最適やった」
昼間、大通りのど真ん中に落ちていた数億ヴァリスの魔導書。
マヤが「自分の落とし物だ」と泥をかぶり、ただの遺失物として回収しなければ、あの場はどうなっていたか分からない。
「誰かが糸を引いて、ベルを試したんやろうけど……その目的が全く見えへん。なんで、億もする呪物(アイテム)をあんな無防備な場所に放置したんやろな」
ロキの疑問に、マヤも低い声で同意した。
「そこだな。何がしたいのやら、という感じだ。ベルに拾わせて魔法を覚えさせようとしたにせよ、あいつがギルドに走り出した時点で計画は破綻していたはずだ。……だが、それを回収する素振りも見せず、道端に放置されていた」
マヤは天井を見上げ、暗闇の中で思考を巡らせる。
「もし俺があそこを通らなければ、全く無関係な人間が拾って暴走していた可能性もある。あるいは、それを狙ったテロまがいの実験か……」
「どちらにせよ、趣味の悪いやり方やな」
ロキは不快そうに眉をひそめた。
「ギルドのロイマンに渡したところで、誰に情報が漏れるか分かったもんやない。ウチが一時保管にしとくのが一番安全や。……次の神会(デナトゥス)で、ウチからちゃんと議題に上げた上で、誰も名乗り出んのなら堂々とウチのファミリアの資産にさせてもらうで」
「ああ、頼む。お前がそう言ってくれるなら安心だ」
マヤはロキの肩を抱き寄せ、その細い背中を優しく叩いた。
魔導書を用意した者の意図は読めない。
しかし、相手が誰であろうと、家族に火の粉が降りかかるのなら、容赦なく叩き潰す。
二十八年を共に歩んできた最強の夫婦は、互いの体温を感じながら、静かに、だが確かな警戒の網をオラリオの闇へと張り巡らせていた。