天を突く白亜の巨塔、バベル。
その最上階に設けられた神室『パンテオン』の円卓には、オラリオに君臨する神々が一堂に会していた。
三ヶ月に一度開かれる神々の会議——通称『神会(デナトゥス)』である。
「俺が・ガネーシャだ! さあ、本日のメイン議題、我らがオラリオの最大派閥ロキ・ファミリアの昇格者たちの『二つ名』を決めようじゃないか!」
像の仮面を被ったガネーシャの進行により、会議は序盤から異様な熱気に包まれていた。
それもそのはずである。今回の神会は、ロキ・ファミリアの女子陣が一斉にランクアップを果たした歴史的な報告の場でもあったのだ。
「アイズ・ヴァレンシュタインはLv.6になったとはいえ、あの完成された名を変える必要はないだろう。満場一致で『剣姫』のままでいいな?」
神々がウンウンと頷く。
続いて、アマゾネスの双子であるティオネとティオナ(共にLv.5)には、それぞれ『怒蛇(ヨルムンガンド)』と『大身(エルガルム)』が、エルフの少女レフィーヤ(Lv.4)には『千の妖精(サウザンド・エルフ)』という二つ名が、スムーズかつテンポ良く決まっていった。
だが、問題は次だった。
「さて……次は、ロキのところの小人族(パルゥム)、リリルカ・アーデだが……」
「Lv.6ってなんの冗談だ!? あの小さな体でどうなってんだよロキ!」
「サポーター上がりなんだろ!? 前線で指示出しながら無限に物資を供給してくるとか、どんな化け物だよ!」
神々から、畏怖と悪ふざけの入り混じった声が飛び交い始めた。
「『歩く四次元ポケット』はどうだ!?」
「いやいや、もっと軍師っぽく『極小の暴君』とか!」
「可愛げがないだろ! 『荷物持ちの神髄』とかでいいじゃないか!」
好き勝手に飛び交うネーミングセンスに、ロキが「ウチの可愛いリリになんちゅう名前つけようとしとんねん!」と威嚇する中、旅の神ヘルメスが顎に手を当てて口を開いた。
「まあまあ。小さな体で最大派閥の兵站から戦術指揮までを一手に担う、影の最高司令官……何手先も読んで前線を支配する彼女には、こういう名が相応しいんじゃないかな」
ヘルメスが提案したその名に、神々は一瞬の静寂の後、深く頷いた。
かくして、規格外の小人族リリルカ・アーデの二つ名は『千手参謀(サウザンド・ハンド)』に決定した。
「よし、これで昇格者の命名は終わりやな」
議題が一区切りついたその瞬間。
ロキは、ガチャンと音を立てて円卓の上に両足を乗せ、ふんぞり返った。
その不作法な態度に神々が眉をひそめる中、ロキはニヤリと笑みを浮かべ、しかし眼の奥には鋭い光を宿して口を開いた。
「——先日な。ウチの旦那が、大通りの道端で『魔導書(グリモア)』を拾うてなァ!」
ピタリ、と。
神室の空気が凍りついた。
『魔導書』。読めば確実に魔法が発現する、最低でも数億ヴァリスは下らない超常の呪物。それが道端に落ちていたという異常事態に、神々の顔色が変わる。
「モンスターフィリアで騒ぎがあった直後や。そんなモンが野晒しになっとったら、どこの馬の骨とも分からんヤツが拾うて大惨事になっとったかもしれん」
ロキは足を下ろし、バンッと机を叩いた。
「せやから! ウチの旦那は、あの大衆の面前で『ああ、俺が家から持ってきた本を落としたんだ!』言うて、泥を被ったんや!」
ロキの言葉に、神々は息を呑んだ。
「ギルドのロイマンなんぞに渡したら、裏で誰に横流しされるか分かったもんやない。やから治安維持のために、うちの旦那が道化になって、一時保管にしたんや」
ロキの声が、徐々に怒気を孕んでいく。
「ええか? もう一度言うで。ウチの旦那が、わざわざ大衆の前で恥をかいとるってことや。その意味、わかるよな?」
円卓を圧するような、最大派閥の主神の凄み。
「オラリオ最大のファミリアの、主神の夫やで? そないな高潔な態度をとって、街の混乱を防いでやったんや。……一体どこのどいつが、あんな危険なモンを道端に放置したんか知らんが、舐めた真似してくれたもんやで!」
ロキの怒号に、心当たりのない神々は「ヒィッ」と身をすくませる。
「誰も名乗り出んのなら、オラリオのルール(拾得物の権利)に則って、あの魔導書はウチのモンにさせてもらうで! ええな!?」
完全に場を制圧したロキ。しかし次の瞬間、彼女は憑き物が落ちたようにケラケラと笑い出した。
「まー、ウチの旦那はただの『ヒモ』なんやがな! ギャハハハハ!」
その極端な落差に、張り詰めていた神々は「ズコーッ!」と盛大にずっこけ、「ロキの奴、脅かしやがって!」「でもあのヒモ男、意外と胆力あるんだな!」と、安堵の笑い声を上げ始めた。
重苦しかった空気は、ロキの計算し尽くされた話術によって、見事にコメディへと軟着陸したのだ。
だが。
その円卓の端で、ただ一柱だけ——全く笑えていない女神がいた。
(……ああ……ッ!)
美の女神、フレイヤである。
彼女の頭の中で、すべてのピースが完璧に噛み合ってしまった。
マヤは、魔導書を私欲で盗んだわけではなかったのだ。ベルが置き去りにした超危険な呪物を前にして、誰かが悪用するリスクと、ギルドに届け出た際のベルへの嫌疑を瞬時に計算し……自らが『落とし主のヒモ男』という道化を演じることで、完璧に街の治安を守り抜いたのである。
(なんて……なんて美しく、高潔な魂なの……ッ!!)
自分の仕掛けた悪意の罠を、これほどまでに公明正大に、そして誰一人傷つけることなく無力化してみせた。
その圧倒的な知略と、自己犠牲すら厭わない精神の美しさに当てられ、フレイヤの全身が熱狂と歓喜に震えていた。
もはや、白兎などどうでもいい。あの赤髪の男こそが、自分の渇きを癒す唯一の至宝。
「……ねえ、ロキ」
神々の笑い声の中、フレイヤは甘く、色香を滲ませた声でロキへと語りかけた。
「貴方の旦那様……素晴らしい機転ね。ねえ、少しだけでいいの。私と彼、直接お話しさせてくれないかしら?」
ぞくり、と。
その声に含まれた異常なまでの執着に、周囲の男神たちが悪寒に身を震わせる。
「あかんあかん!!」
しかしロキは、寸分の迷いもなく両手でバツ印を作り、フレイヤをギロリと睨みつけた。
「ウチの旦那に手ぇ出してみぃ! その瞬間に、ロキ・ファミリア総出で全面戦争じゃボケェ!」
最大派閥の主神による、一切の冗談を含まないガチの威嚇。
フレイヤの微笑みと、ロキの殺気が交錯し、パンテオンの温度が急激に下がる。
「——ふふっ、相変わらず余裕がないわねェ、ロキ」
その一触即発の空気に、長いキセルを吹かしながら割って入ったのは、歓楽街を牛耳る美の女神・イシュタルだった。
「そんなに高潔で立派な旦那様なら、一度くらい、アタシの『歓楽街』にプレゼントしてはどうだい? 毎日あんたみたいな絶壁の相手ばかりじゃ、彼も息が詰まるだろう? 街を守った英雄様に、極上の夜でハメを外させてやるのも、妻の甲斐性ってもんじゃないのかい?」
イシュタルの挑発的な笑みに、神々は息を呑んだ。
夜の街の女王からの、露骨な誘惑と宣戦布告。
「あ?」
ロキはピキリと青筋を立て、小指で耳をほじりながら鼻で笑った。
「お前、なんつった? ウチの旦那を歓楽街やと? ……いらんいらん! あんな香水臭いとこ行かせたら、ウチの旦那まで臭うなってまうわ!」
「なんだと……?」
イシュタルの目が細くなる。
「それにやなァ」
ロキはニヤニヤと悪辣な笑みを浮かべた。
「ウチの旦那を歓楽街なんぞに放り込んでみぃ。お前のところの娼婦(アマゾネス)どもが、ウチの旦那の魅力にメロメロになってまって、逆に『お金払うから抱いて!』言うて金貢ぎ始めるに決まっとるわ!」
「なっ……!」
「あ、でもウチ、もう腐るほど金あるから別に貢いでもらわんでええわ! 悪いなイシュタル、商売上がったりにさせてまうから、やっぱり行かせへんわ! すまんすまん! ギャハハハハ!」
腹を抱えて爆笑するロキの容赦ないカウンターに、男神たちは顔を引き攣らせた。
(((な、なにこの女神同士の会話……こっっわ!!)))
「……ッ、よく吠えるねェ、貧乳が」
イシュタルはキセルの煙を吐き出しながら、表面上は冷笑を保っていた。
だが、その内心では虎視眈々と、極めて冷徹な計算が巡らされていた。
(あのフレイヤが、ここまで露骨に執着する『Lv.0のヒモ男』……)
イシュタルの視線が、フレイヤとロキを交互に舐め回すように動く。
今回の一件、ただ落とし物を拾いかけただけのヘスティア・ファミリアの白兎など、もはや眼中にない。フレイヤの最大の弱点であり、喉から手が出るほど欲している獲物は、間違いなくあのマヤという男だ。
(フレイヤを絶望のどん底に叩き落とすには、あの男をアタシが奪い取って、娼婦の館で骨抜きにしてやるのが一番……だが)
イシュタルは舌打ちをした。
問題は、その男の動きが全く見えないことだ。
神会で名も知られぬただのヒモ。それなのに、フレイヤの罠(魔導書)を完璧な立ち回りで無効化する知略を持つ。
しかも、ロキがあれほどまでに溺愛し、本人も妻を愛しているという愛妻家。金にも女にも困っていないような男を、どうやって歓楽街の闇へと引きずり込むか。
(真っ向から誘惑しても靡かないなら、周りから堀を埋めるしかないねェ……。ヘスティアのところの白兎とかいうのも、あいつがわざわざ庇うくらいには縁があるんだろう? フフッ……潰し甲斐がありそうじゃないか)
神々の笑い声が響くパンテオンの片隅で。
イシュタルの毒蜘蛛のような謀略の糸が、マヤを中心に、静かに、そして確実にオラリオの闇へと張り巡らされていくのだった。