ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第41話:迷宮の階層と、遥かなる背中

「ベルくん……本当に、数日間もダンジョンにこもりっきりになるのかい?」

 

早朝の廃教会。薄暗い地下室で、ヘスティアが心配そうな声を上げた。

彼女の視線の先には、自身の背丈の半分ほどもある大きな背嚢を背負ったベル・クラネルの姿があった。

背嚢の中身は、数日分の携帯食料と飲料水、そして大量の回復薬(ポーション)だけ。通常の冒険者が持ち込むような、ドロップアイテムや魔石を入れるための空き袋は一切用意されていない。

 

「はい、神様。今回は第5階層の中継地点を拠点にして、第6階層との間を行き来しながら、ひたすらモンスターを狩り続けるつもりです」

ベルは、腰の鞘に収めた二本の『ショートソード』と、漆黒の『ヘスティア・ナイフ』の位置を確かめながら力強く頷いた。

「第7階層まで降りると、キラーアントみたいな群れで連携してくる敵が増えます。今の僕の力で数日間の生存を最優先にするなら、第5階層付近で立ち回るのが一番効率がいいんです」

 

「だけど……それじゃあ、お金は稼げないじゃないか。魔石だって、たくさん持ち帰らないと……」

 

「魔石は、拾いません」

 

ベルの迷いのない言葉に、ヘスティアは目を丸くした。

「倒した端から魔石を拾って背負えば、重さで機動力が落ちます。それに、拾う手間すらも惜しいんです。……僕にはまだ、圧倒的に実戦の経験が足りない。お金よりも今は、一秒でも長く迷宮で戦い続けて、少しでも早く強くなりたいんです」

 

オラリオの常識からすれば、狂気の沙汰だった。

生活の糧である魔石を捨て、ただ己の血肉に経験値(エクセリア)を刻み込むためだけに命を賭ける。それは、生活の保証という絶対的なバックアップがあり、かつ高みを目指す強烈な渇望がなければ絶対に選択できない、狂信的なまでのストイックさだった。

 

(これも全部、あの赤髪の男(マヤ)の教え……。でも、今のベルくんの目は、迷宮に挑む本物の冒険者の目をしている)

ヘスティアは、たくましくなった少年の横顔を見つめ、静かに息を吐いた。

「……わかった。無茶だけはしないこと。武器の調子がおかしくなったら、すぐに地上に戻ってくるんだよ。約束だよ」

 

「はい! いってきます、神様!」

ベルは元気よく返事をすると、朝日が差し込む地上へと駆け出していった。

 

***

 

薄暗い石造りの迷宮、第5階層。

かつてベルが、上層にいるはずのない怪物——ミノタウロスに遭遇し、無様に逃げ惑った末にアイズに命を救われた、トラウマの場所。

だが今のベルの足取りに、過去の怯えは微塵もなかった。

 

「ギチィィッ!」

通路の奥から、醜悪な顔をしたゴブリンが三匹、緑色の肌を揺らして一斉に飛びかかってくる。

 

ベルは姿勢を極端に低く落とし、すり足で前傾姿勢のまま地を滑るように前進した。

魔法(ファイアボルト)という便利な遠距離攻撃の手段を持たない彼にとって、敵を倒すには必ず相手の間合いに踏み込まなければならない。

 

「そこッ!」

 

先頭のゴブリンが振り下ろした錆びた鉈を、ベルは右手に持った市販の『ショートソード』の刃の腹を使って斜めに弾き流す。

力と力で打ち合うことはしない。敵の攻撃のベクトルを僅かに逸らし、生まれた死角へ滑り込む。アルフィアたちから徹底的に叩き込まれた、無駄のない純粋な体捌き。

 

剣を弾かれて体勢を崩したゴブリンの膝裏の腱を、ベルはショートソードの切先で浅く、しかし確実に斬り裂いた。

 

「ギギャッ!?」

機動力を奪われ、その場に崩れ落ちる一匹目。

そこへ、両脇から二匹目と三匹目が同時に襲いかかってくる。

ベルは後退せず、あえて二匹目の懐へと深く潜り込んだ。ショートソードの柄頭で敵の顎を下から激しく突き上げ、脳を揺らして行動をキャンセルさせる。

 

そして、その一瞬の隙に。

ベルの左手が腰の鞘を弾き、黒い刀身——『ヘスティア・ナイフ』が虚空を薙いだ。

 

ザシュッ!

 

異常なまでの切れ味を誇る神造の刃が、二匹目の胸を容易く貫き、そのまま魔石を正確に粉砕する。

「ギィッ!」

灰となって崩れる二匹目を盾にするように動き、ベルは最後の一匹に向けて躊躇なく踏み込んだ。

視界を奪うために投げつけるような軌道でショートソードを振るい、敵が思わず目を瞑った瞬間、下段からの蹴りで相手の膝関節を破壊。完全に動きの止まったゴブリンの首元に、ヘスティア・ナイフを深々と突き立てた。

 

「ふぅ……っ」

 

三匹のゴブリンが灰に変わり、カラン、カランと小さな魔石が石畳に転がる。

ベルは額の汗を拭うと、転がった魔石には目もくれず、すぐに次の敵の気配を探して索敵を再開した。

 

それが、この数日間、ベルが狂ったように繰り返してきた戦闘のすべてだった。

大型のモンスターは関節や腱を狙って機動力を削ぎ、小型の敵は急所を突いて即座に仕留める。

敵の動きを制御し、無力化し、確実にトドメを刺す。徹底的に計算された解体戦術。

経験値は確実にベルの身体を造り替え、その動きは潜り始めた初日とは比べ物にならないほど洗練されてきていた。

 

しかし、代償もあった。

 

(……やっぱり、刃こぼれが酷いな)

 

通路の隅の安全地帯(セーフエリア)に腰を下ろし、ベルは右手のショートソードを見つめた。

マヤが予備として買ってくれた二本のうちの一本。幾度となく敵の武器を弾き、硬い骨を断ち切ってきた市販品の剣は、すでに刃がボロボロに欠け、いつへし折れてもおかしくない状態だった。

 

ヘスティア・ナイフがどれだけ無傷でも、敵の意識を誘導し、攻撃を受け流すための「長いリーチを持った剣」がなければ、ベルの戦術は成り立たない。

(もう一本の予備も、かなり消耗してる。どんなに戦い方を工夫しても、安物の剣じゃ、このペースの戦闘には耐えきれないんだ……)

 

ベルが水筒の水をあおりながら、自身の武器の限界に直面していた、その時。

 

——ザッ、ザッ、ザッ。

 

遠くから、規則正しく、しかし圧倒的な威圧感を伴った足音が近づいてくるのが聞こえた。

第5階層のような上層には絶対に似つかわしくない、規格外の強者たちの気配。

ベルが咄嗟にショートソードを構えて立ち上がると、通路の奥から見覚えのある姿が現れた。

 

「あ、ベルだ。おーい、ベルー!」

 

金髪のアマゾネス——ティオナが、ベルの姿を認めるなり無邪気にぶんぶんと手を振った。

その隣にはティオネ、アイズ、レフィーヤといったロキ・ファミリアを代表する『少女組』の第一級冒険者たち。

さらにその後ろには、大きな荷物を背負った小人族(パルゥム)のリリと、緊張した面持ちで陣形を組む数人の下級団員たち。

 

そして極めつけは、その集団の最後尾で、自分の身長ほどの巨大な背嚢を背負いながらも、姿勢を一切崩さずに歩く完璧なメイド服姿のヴァレッタだった。

 

「アイズさん! ティオナさんにティオネさん、レフィーヤさんまで……どうしてこんな上層に? これから遠征ですか?」

ベルが驚いて駆け寄ると、集団の中から小さな人影がひょっこりと顔を出した。

 

「あ、ベル様。お久しぶりです」

「リリ! リリも一緒なんだね」

 

大きなリュックを背負ったリリは、「はい」と誇らしげに胸を張った。

「リリは今、この部隊の兵站管理と陣形指揮を任されているんです。道中の物資のやり繰りは、すべてリリの采配にかかっていますから」

神会で『千手参謀』の二つ名を与えられた彼女は、今やロキ・ファミリアの遠征において欠かせない頭脳として完全に機能していた。

 

「すごいな……! それで、今日はどこまで潜るんですか?」

ベルの問いに、ティオナが明るい笑顔でとんでもないことを口にした。

 

「うん! 今日はね、アイズが第37階層の階層主(ウダイオス)を単独討伐してみたいって言うから、その見学がてら、深層でお茶会をしてこようと思って!」

 

「……え? 37階層主を、単独で……お茶会?」

ベルの思考が完全に停止した。

数十人の第一級冒険者が死力を尽くしてようやく倒せるかどうかの巨大モンスター。それをアイズ一人で討伐し、あまつさえその死地で「お茶会」を開くというのだ。

 

「まったく、呆れた話でしょ」

ティオネがやれやれと肩をすくめ、後ろの下級団員たちを顎でしゃくった。

「今回はマヤのバフ(強化)がないから、アイズには手出し無用。アタシたちの教官からの命令は一つだけよ。『俺がいない分、お前らだけでLv.3の連中と、お茶汲み担当のヴァレッタを絶対に死守しろ。かすり傷一つでもつけたらグラウンド100周だ』……だってさ。過保護にも程があるわ」

 

「マヤ様のご期待に応えるべく、第37階層の死地であろうと、極上の紅茶を淹れてみせます」

メイド服のヴァレッタが、ティーセットと高級茶葉が詰まった巨大な背嚢を背負ったまま、真顔で完璧な一礼をして見せた。

 

狂気だった。

ベルが生きるか死ぬかの極限の戦いを繰り広げているこの迷宮の遥か底へ、彼らは「教官の課題」と「お茶会」のためにピクニック感覚で降りていこうとしているのだ。

 

「……ベル」

 

圧倒的なスケールの違いに呆然とするベルに、アイズが静かに歩み寄った。

彼女の金色の瞳が、ベルの足元に散乱する無数の魔石と、彼が握りしめている刃こぼれだらけのショートソードに向けられる。

 

「頑張ってる。……すごい、数」

アイズは、ベルがどれほどの密度と覚悟でこの数日間を戦い抜いてきたかを、その痕跡だけで正確に見抜いていた。

「でも、その剣じゃ……もう限界」

 

アイズの静かな指摘に、ベルはハッと息を呑み、自分の武器を見つめ直した。

「……はい。僕の戦い方だと、どうしても剣の消耗が激しくて。買ってもらった予備も、もうボロボロです」

 

「その剣では、中層の硬い敵には通用しませんよ」

リリが、プロのサポーターとしての冷静な目でベルの武器を評価した。

「市販品を使い捨てる戦術も悪くはありませんが、ベル様の成長速度を考えるなら、そろそろ限界です。……ベル様の戦い方を理解し、武器の修繕と調整を専属で行ってくれる『鍛冶師』を見つけるべきですね」

 

アイズとリリの言葉が、ベルの胸に深く突き刺さった。

 

「専属の、鍛冶師……」

(そうだ。いくら僕が戦い方を工夫しても、武器が耐えられないならこれ以上深くには潜れない。マヤさんみたいに強くなるためには、僕の背中を、武器を預けられる仲間が……!)

 

「それじゃあベル、私たちは行くね! あんまり無理しちゃダメだよー!」

ティオナが元気に手を振り、ロキ・ファミリアの面々が再び歩き始める。

ヴァレッタの優雅な足取りが続き、最後にアイズが振り返って、小さく頷いた。

 

「はい! 気をつけて行ってきてください、アイズさん! 皆さんも!」

 

ベルは笑顔で手を振り返し、彼女たちが薄暗い迷宮の奥底へと消えていくのを見送った。

自分のいる場所からは、まだ欠片も見えない遥かなる深層。あそこに辿り着くためには、今のままではいけない。

 

「……地上に、戻ろう」

 

ベルはボロボロになったショートソードを鞘に収めると、残った回復薬を背嚢に詰め直した。

己の弱さと、次に為すべきことを明確に理解した白髪の少年は、自身の相棒となるべき未知の『鍛冶師』を探すため、迷宮を後にした。

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