迷宮(ダンジョン)は、ただ静寂と足音だけを飲み込んでいた。
オラリオ最大派閥、ロキ・ファミリアによる深層への行軍。
それは、通常の冒険者たちが見せるような「探索」や「冒険」といった泥臭いものではなく、完璧に統率された一つの『軍隊』のようであった。
前衛で刃を構えるのは、アイズとティオネ。
中間には、数人の下級団員(Lv.3)たちと、巨大な背嚢を背負った完璧なメイド服姿のヴァレッタ。
後衛にティオナとレフィーヤが控え、そして陣形全体を遊撃する中衛として、小人族(パルゥム)のリリが縦横無尽に走り回っている。
誰一人として無駄口を叩かず、足並みに乱れもない。
日々の訓練により、部隊全体を一つの巨大な生き物のように変貌させていた。
現れるモンスターたちは、彼女たちの進行ルート上に立ち塞がったというただそれだけの理由で、息を吐くように一瞬で屠られていく。
そして、部隊は第17階層——『階層主』の間へと到達した。
「グオォォォォォォォッ!!」
巨大な空間の中央に鎮座していた階層主(ゴライアス)が、侵入者たちへ向けて鼓膜を破るような咆哮を上げる。
本来ならば、幾つものパーティが同盟を結び、死力を尽くして挑むはずの絶望の象徴。
だが、ティオネとティオナの双子(共にLv.5)は、欠伸を噛み殺しながら武器を抜いた。
「はいはい、デカブツのお出ましね」
「パパッと片付けちゃおー!」
双子が地を蹴り、ゴライアスの巨体へと肉薄する。
激怒した階層主が、その丸太のような腕で石の床を粉砕した。ドゴォッ!という轟音と共に、無数の巨大な瓦礫が散弾のように部隊の後方へと降り注ぐ。
「きゃあっ!?」
下級団員たちが身をすくめる中、後方に控えていたヴァレッタは、手にした銀のトレイの上にティーカップを乗せたまま、涼しい顔でステップを踏んだ。
ヒュンッ、ダンッ!
巨大な岩の破片が鼻先を掠めようと、メイド服の裾が風に煽られようと、ヴァレッタの姿勢は一切ブレない。ティーカップの紅茶には、一滴の波紋すら立っていなかった。
「ティオネ様、ティオナ様。マヤ様からは『かすり傷一つなく私と団員たちを死守しろ』と仰せつかっております。これほど瓦礫を飛ばされるようでは、完璧な守りとは到底言えませんね」
ヴァレッタは、優雅にトレイを片手に持ちながら、冷徹な声で前衛にダメ出しをした。
「うっさいわね! メイドの分際で偉そうに指示してんじゃないわよ!」
ティオネが毒づくが、内心では戦慄していた。
(ただのメイド服着たLv.3が、なんで階層主の瓦礫飛ばしをあんな完璧な体捌きで避けられるのよ!?)
双子は知らない。ヴァレッタがかつて、闇派閥の幹部として暗黒期を生き抜いた手練れであることを。Lv.が下がろうとも、骨の髄まで染み込んだ『殺し合いの技術』は消えない。
彼女はトレイを掲げたまま、死角から飛んできた瓦礫を隠し持ったナイフの柄で軽く弾き落とし、ため息をついた。
「さっさと片付けなさい。お茶の時間が遅れます」
そのプレッシャーに急かされるように、ティオネとティオナの猛攻がゴライアスを包み込む。階層主の悲鳴にも似た断末魔が響き渡るまで、さほど時間は掛からなかった。
***
ゴライアスを一蹴し、部隊は第18階層の安全地帯(セーフエリア)を抜け、さらに奥——第19階層の薄暗い通路へと足を踏み入れた。
先頭を歩いていたアイズは、ふと、通路の端にある岩陰にうずくまる奇妙な気配に気づいた。
それは、ボロボロの装備を身に纏い、膝を抱えるようにして座り込んでいる一人の獣人の男だった。
アイズの金色の瞳が、岩陰の男を冷たく見下ろした。
そこに一切の感情も、哀れみすらも存在しない、絶対零度の眼差し。
そして、彼女は歩みを止めることなく「ざっこ♡」とだけつぶやいたのだった。
***
第27階層、水の都。
広大な地底湖を支配する階層主、双頭の水竜『アンフィスバエナ』が、巨大な水柱を上げて姿を現した。
「リリ! 攪乱をお願い!」
ティオナの声に応え、小人族の少女が背嚢を下ろし、前衛のさらに前へと飛び出した。
「お任せください!」
『千手参謀』にしてLv.6のステイタスを持つリリの動きは、もはや残像すら残さない神速の域に達していた。
彼女は水面を蹴り、壁を走り、くノ一のように空間を三次元に駆け回る。四方八方から投げ放たれる小太刀と煙玉が、アンフィスバエナの二つの首の視界とヘイトを完全に狂わせた。
「ギャアアアアッ!?」
右の首が水流のブレスを吐き出そうとした瞬間、リリは空中で反転し、その顎の下に爆薬を蹴り込んだ。
ドゴォッ!という爆発音に双頭竜が悶え苦しむ。
「今です! レフィーヤ様!」
「はいっ! 【解き放て、光の——】」
リリが完璧に稼ぎ出した詠唱時間。レフィーヤの放った極大の魔法が、湖ごとアンフィスバエナを蒸発させ、ただの巨大な魔石へと変えた。
あまりにも呆気ない蹂躙劇。階層主たちは、ことごとくロキ・ファミリアの連携訓練の的として消費されていった。
そして、その圧倒的な行軍の遥か後方。
気配を完全に殺し、迷宮の闇に溶け込みながら彼女たちの後をつけている一人の王族がいた。
(……まったく、見事なものだが……私がなぜ、あの子たちの後をこそこそとつけなければならないんだ)
副団長リヴェリア(Lv.8)は、深いエルフのため息を吐いた。
出立前、マヤから『あいつらだけで行かせると調子に乗って怪我するかもしれん。お前、絶対にバレないように見張っててくれ。お前なら余裕だろ?』と密命を受けていたのだ。
(あの過保護教官め……私を使いっ走りにするとは。だが)
リヴェリアは、見事な連携で双頭竜を沈めた娘たちの姿に、どこか誇らしげに目を細めた。
(強くなったな、お前たち)
***
そして、行軍はついに第37階層の深奥へと到達した。
これまでの道中とは全く異なる、肌を刺すような死の冷気が空間を満たしている。
白骨の大地。その中央に、巨大な黒い骸骨の王——『ウダイオス』が玉座から立ち上がった。
ティオネたち後続部隊が大きく距離を取る中、アイズ・ヴァレンシュタインがただ一人、剣を抜いて前に出る。
空気が、張り詰めた。
「……行くよ」
アイズが風を纏い、踏み込んだ瞬間。
ウダイオスが巨大な腕を振りかぶり、空気を切り裂く不可視の『斬撃』を幾筋も放った。
ヒュゴォォォッ!!
岩の柱を容易く両断する漆黒の斬撃が、網の目のようにアイズへと迫る。
「【エアリエル】!」
アイズは風の装甲を極限まで圧縮し、迫り来る斬撃の軌道を剣の腹で滑らせるようにいなした。マヤから叩き込まれた、力に頼らない『受け流し』の技術。
ギリィィッ!と火花が散り、アイズの身体がわずかに後方に押しやられる。
その隙を突き、白骨の大地から無数のスケルトン兵——『スパルトイ』が湧き出し、アイズの四方を完全に包囲した。
「邪魔……!」
アイズの眼が、剣鬼のそれに変わる。
彼女を中心に、暴風のドームが爆発的に膨張した。一振りの薙ぎ払いが竜巻を生み出し、無限に湧き出すはずのスパルトイたちを一瞬にして粉々の骨粉へと変えて吹き飛ばす。
雑兵を蹴散らしたアイズは、風の推進力を利用して一気にウダイオスの懐へと潜り込んだ。
そこからは、数十分にも及ぶ死の舞踏だった。
ウダイオスの放つ致死の斬撃を、アイズは紙一重で躱し、いなし、巨大な骨の鎧の関節部に幾度も剣を叩き込む。
息もつかせぬ超高速の攻防。
一歩でも踏み違えれば両断される極限の緊張感の中、アイズの集中力は研ぎ澄まされ、その剣閃は次第にウダイオスの動きを上回り始めた。
そして。
「——これで、終わりっ!」
ウダイオスの大振りの一撃を風のステップで完全に躱したアイズが、空中から全身の力を乗せた一撃を、巨大な骸骨の首筋へと叩き込んだ。
ガアァァァァァァァァンッ!!
圧倒的な衝撃音が迷宮を揺らし、ウダイオスの巨体がゆっくりと崩れ落ちていく。
莫大な灰の雨が降り注ぐ中、白骨の大地には、一本の巨大な黒い剣——『ウダイオスの黒剣』がドロップアイテムとして突き刺さっていた。
「……ふぅっ」
アイズが残心と共に剣を鞘に収めると、後方からパチパチと拍手が響いた。
「お見事です、アイズ様。では、お茶にしましょう」
見れば、ヴァレッタがいつの間にか安全地帯に純白のテーブルクロスを敷き、優雅に湯気を立てるティーセットを並べ終えていた。
血と灰に塗れた第37階層の死地で、最高級の紅茶の香りが漂い始める。
ロキ・ファミリアの行軍は、こうして見事に完遂されたのだった。
***
一方その頃。
地上、オラリオの北西にそびえる『黄昏館』。
豪奢な談話室のソファでは、マヤ、ロキ、フィン、ガレスの四人が、ヴァレッタ不在のため下働きが淹れた少し薄い紅茶をすすっていた。
「……おい、マヤ」
窓の外を見ていたガレスが、ヒゲを撫でながら怪訝な顔で口を開いた。
「なんでアルフィアが、庭で野宿しとるんじゃ?」
談話室の大きな窓から見える中庭。
綺麗に手入れされた芝生の中央に、なぜか小さな一人用のテントが張られ、その前で薪を組んで焚き火が燃やされている。
そして、かつての最強の女帝・アルフィアが、体育座りをしてマシュマロを串に刺し、楽しそうに焚き火で炙っていた。
「ああ、あれか」
マヤはティーカップを置き、事もなげに答えた。
「ベルが第5階層で数日間サバイバルキャンプをしてると報告したらな。あいつが突然『私も迷宮に行ってあの子を守る!』と言い出してな」
「ほぅ……それで?」
「だから言ってやったのさ。『じゃあお前は黄昏館の庭でキャンプしてろ。ベルと同じ風に野宿すれば、あいつの過酷さを思考共有できるだろ』ってな。そしたら納得して、大人しくあそこでテント張って火の番をしてる。案外、アウトドアを満喫してるみたいだがな」
マヤの説明を聞き、フィンは持っていたティーカップを危うく落としそうになった。
「……マヤ。いくらなんでも、叔母様を庭で適当にあしらうのはどうかと思うよ……? あの人、一歩間違えればオラリオを半壊させられる怪物なんだよ?」
「ギャハハハハハッ!!」
フィンが青ざめる横で、ロキは腹を抱えてソファの上を転げ回っていた。
「アホや! アホすぎるで! あの暗黒期の『静寂』が、真昼間の庭で一人でキャンプファイヤーしてマシュマロ焼いとる!! ウチの旦那の適当な言い訳に騙されて、大真面目に野宿楽しんどるで!!」
笑い転げるロキと、頭を抱えるフィン、呆れ果てるガレス。
マヤはどこ吹く風で、「ベルも頑張ってるんだ、叔母として応援の形は人それぞれだろ」と静かに紅茶を飲んでいる。
窓の外では、秋の涼しい風が吹き抜けていた。
アルフィアは、パチパチとはぜる焚き火の炎を見つめながら、こんがりと焼けたマシュマロをパクリと口に運び、満足げに微笑んだ。
「……ふふっ。キャンプというのも、悪くないわね。これが一人キャンプをする『静寂』か……」
オラリオの迷宮の底で階層主たちが理不尽に蹂躙されている中、黄昏館の庭には、どこまでも平和で、少しだけ狂った日常の風景が広がっていた。