迷宮都市の探索者たちが集う巨大な施設、ギルド本部。
その喧騒の中で、受付嬢のエルフ、エイナ・チュールは手元の換金明細と目の前の少年を交互に見比べ、小さく首を傾げていた。
「ベル君……あなた、数日間もダンジョンにこもりっきりだったのよね? 無事に帰ってきてくれたのは本当に嬉しいんだけど……」
エイナの視線の先には、迷宮の土埃とモンスターの返り血で薄汚れたベル・クラネルが立っている。
しかし、彼がカウンターに提出した小袋に入っていた魔石の量は、数日間の滞在に対してあまりにも少なすぎたのだ。
「これだけの量だと、半日潜った程度の稼ぎにしかならないわ。まさか、安全地帯(セーフエリア)でずっと隠れてたわけじゃないわよね?」
エイナが心配そうに尋ねると、ベルは慌てて首を横に振った。
「違います、エイナさん! 隠れてたわけじゃありません。ただ……魔石は、意図的に拾わなかったんです」
「えっ……? 拾わなかった?」
「はい。倒した端から魔石を拾って背負えば、重さで機動力が落ちます。それに、拾う手間すらも惜しかったんです。今の僕に必要なのは、お金よりも一秒でも長く迷宮で戦い続けること。純粋な『戦闘経験』だけを優先したくて」
エイナは絶句した。
冒険者にとって、魔石は命の次に大事な金づるである。欲をかいて重量オーバーになり、モンスターから逃げ切れずに命を落とす者が後を絶たないのがこの街の常識だ。
それを、利益を度外視して生存率と経験値だけをストイックに追求するなど、普通の新人には絶対にできない割り切りだった。
「それに、このショートソードが大きく欠け始めたので……これ以上は危険だと判断して、帰還しました。限界が来る前に戻るって、最初から決めていたんです」
ベルが腰の鞘を軽く叩いて微笑む。
その言葉を聞いた瞬間、エイナの胸の奥でドクン、と小さな音が鳴った。
無茶なダンジョンアタックをせず、引き際を完璧に見極め、極めて論理的にリスク管理を行っている。かつての無鉄砲だった白兎は、わずかな期間で、誰もが認める『一人前の冒険者』の思考を身につけていたのだ。
「……そっか。うん、ベル君は本当に、賢く立ち回れるようになったのね」
エイナは少しだけ熱くなった頬をごまかすように、優しく微笑んで明細にハンコを押した。
その日の午後。
薄暗い廃教会の地下室で、ベルはヘスティアに見守られながら、布で念入りに武器の手入れを行っていた。
「神様。やっぱり今の僕の戦い方だと、市販のショートソードはすぐに刃こぼれしてしまいます」
ベルの手元にある剣は、幾度となく怪物の骨を断ち、硬い皮膚を削り切った代償として、刃のあちこちが痛々しく欠けていた。
「このまま戦い続ければ、剣が折れて無駄が多い戦いになっていました。戻ってきて正解だったと思います」
ヘスティアは、隣に置かれているもう一本の漆黒のナイフ——『ヘスティア・ナイフ』を見つめた。
「ベル君。それなら、最初からずっとそのナイフの方をメインにして戦えばよかったんじゃないかい? それなら、どんなに斬っても刃こぼれなんてしなかっただろう?」
それは、神としての純粋な疑問だった。絶対に壊れない武器があるのなら、それ一本で戦い抜けばいいのではないか、と。
しかし、ベルは静かに、だが確かな意志を持って首を横に振った。
「……はい。でも、僕はそういう戦い方をしたいんじゃないんです」
ベルは欠けたショートソードと、ヘスティア・ナイフを両手に持ち、真剣な眼差しで口を開いた。
「短いナイフ一本だけで、力任せに敵をなぎ倒すような戦い方は……いつか必ず破綻します。長い剣で敵の意識を牽制し、攻撃をいなして隙を作る。そして、完全に生まれた死角から短いナイフで急所を突く」
それは、マヤから教わった『役割分担』という絶対の理屈だった。
「マヤさんが教えてくれたこの理屈を、強力な武器にごまかされることなく、僕自身の技術として完成させたいんです。ショートソードは、マヤさんが買ってくれたもう一本の予備があります。多少刃こぼれしましたが、一本目が完全に使い物にならなくなるまで意地を張るのは違うと思って、帰還してきました」
己の技術と向き合い、武器の役割を完璧に理解しようとする少年の姿。
ヘスティアは、その真っ直ぐな探求心に胸を打たれ、ベルの白い髪をわしゃわしゃと撫で回した。
「ベル君は本当に、上手く考えて立ち回ってきたんだね! えらいえらい!」
「わわっ、神様、くすぐったいです!」
「よし! 剣の使い分けも大事だけど、身を守る防具もそろそろ限界だろう? 今日は奮発して、防具を選びに行こうか!」
バベルの下層階。
オラリオ最高の武具店『ヘファイストス』を訪れた二人は、防具を見定めるついでに、刃こぼれしたショートソードを鍛冶神本人に見てもらっていた。
「……ふむ」
ヘファイストスはランプの光に刃を透かし、感心したように息を吐いた。
「お前さん、この剣を限界まで『正しく使って』やったね」
「正しく、ですか?」
「ああ。素人は力任せに武器を振るって、敵の硬い装甲や武器に正面からぶつけて刃を潰す。だが、この欠け方は違う。関節の隙間や、柔らかい腱、骨の継ぎ目を的確に狙って削り切った『歴戦の刃こぼれ』だ。持ち主にこれだけ考え抜いて使ってもらえれば、市販品の剣としても本望だろうさ」
ヘファイストスからの最高の賛辞に、ベルが照れくさそうに頭を掻いた、その時だった。
「……へえ。見事な刃こぼれじゃねえか」
店の奥から、何着かの防具を抱えた長身の青年が現れた。
赤い髪に、鋭い三白眼。作業着姿の彼は、ヘファイストスの手にあるショートソードを覗き込み、口角を吊り上げた。
「おいおい、どこのベテラン冒険者の剣かと思えば……随分と若そうな白兎だな。あんた、かなり面白い戦い方をしてるらしいな」
「えっ? あの、あなたは……?」
戸惑うベルに、青年は防具をドンッとカウンターに置き、親指で自身を指し示した。
「俺はヴェルフ・クロッゾ。そこのヘファイストス・ファミリアに身を置いてる鍛冶師だ」
ヴェルフは、ベルの腰にある無傷のヘスティア・ナイフと、欠けたショートソードを交互に見比べた。
「あんたのその剣を見りゃわかる。力に頼らず、武器のリーチと役割を極限まで戦術に組み込んでるってな。……おい、防具を探してるんだろ? なら、俺の打った防具はどうだ?」
ヴェルフがカウンターに広げたのは、軽さと強度を兼ね備えた、見事な真紅の軽鎧(ライトアーマー)だった。
「さらに言えばだ。その市販品のショートソードの耐久力に悩んでるのも、俺が『専属』になれば全部解決してやる。戦術に合わせた長さの調整も、こまめな研磨も、俺なら完璧にこなせるぜ」
それは、鍛冶師からの唐突な逆オファーだった。
「あんたの戦い方と、武器の役割を大事にする探求心。……鍛冶師として惚れた。俺と組まねえか?」
ベルは目を丸くした。
一人で迷宮に潜り、マヤの教えをただひたすらに貫き通した結果。彼は自らの力で、背中と武器を預けられる『最高の相棒』を引き寄せることに成功したのだ。
地上。
巨大な尖塔を持つ『黄昏館』の広い中庭。
パチパチとはぜる焚き火の音。
小さなテントの前に置かれたスキレットからは、オリーブオイルと微かなニンニクの香りが漂っている。
かつて暗黒期を恐怖で支配した最強の女帝、アルフィアは、すっかり『ソロキャンプ』というものにハマり込んでいた。
病に苦しみ、戦うことしか知らなかった彼女の過去。
その失われた青春と自由な時間を取り戻すかのように、彼女は今、一人用の小さな椅子に座り、優雅にアヒージョを煮込みながらコーヒーのドリップを楽しんでいる。
「どうだい?」
背後から聞こえた足音に、アルフィアは振り返ることなくコーヒーを注ぎ続けた。
マヤが焚き火のそばに歩み寄り、立ち上る炎を見下ろす。
「迷宮の底に潜って血生臭い戦いをするのもいいが、たまにはこうして、安全な場所で火を見ながらゆっくり休まるのも、悪くないもんだろ?」
マヤの穏やかな問いかけに、アルフィアは出来立てのコーヒーが入ったマグカップを両手で包み込み、そっと口元へと運んだ。
湯気越しに見える彼女の横顔は、微かに、だが確かに紅潮している。
「……ええ、いいわね。こういう静かな時間も」
アルフィアは焚き火の揺らめきを見つめながら、ぽつりとこぼした。
「お前は昔から……つくづく、変わらないわね。そういう、妙なところで世話焼きなところ」
静かで、どこか甘さすら漂う大人たちの空間。
過去のしがらみを抜け出し、ただの『一人の女性』としての時間を取り戻していくアルフィア。
二人の間には、長年の付き合いから来る心地よい沈黙が降りていた。
「なーーーーーーッッ!!」
しかし、その完璧な雰囲気は、館の窓から響いた絶叫によって一瞬でぶち壊された。
「ウチの旦那になに色目つこーとんねんこの白髪!! 庭でキャンプファイヤーしてええのはマシュマロまでやろがい!! なにオシャレな料理作って勝手にええ雰囲気になっとんじゃボケェ!!」
窓から身を乗り出し、ギャーギャーと嫉妬の炎を燃やすロキ。
アルフィアはマグカップを持ったまま、「うるさいわね、駄女神。アヒージョの油を顔面にぶちまけるわよ」と冷たく言い放ち、マヤはやれやれと肩をすくめて苦笑した。
それから数日後。
迷宮の深層へと遠征に向かっていた『少女組』が、無事に黄昏館へと帰還を果たした。
重い扉が開き、土埃を纏った一行がエントランスへと足を踏み入れる。
出迎える団員たちの歓声の中、先頭を歩いていたアイズ・ヴァレンシュタインは、ロビーに立つマヤの姿を見つけるなり、パッと金色の瞳を輝かせた。
彼女は小走りでマヤの目の前までやってくると、無言のまま、バッ!と両手で何かを頭上に掲げて見せた。
それは、第37階層の主、ウダイオスを単独討伐した者だけが得られる超希少なドロップアイテム——『ウダイオスの黒剣』だった。
口にこそ出さないが、アイズの瞳は完全に「見て! 倒してきた! 褒めて!」と訴えかける忠犬のそれであった。
マヤはふっと優しく微笑み、大きな手でアイズの頭をポンポンと撫でた。
「よくやった。最高の討伐だったぞ、お前ら」
そして、マヤはアイズと、後ろに続くリリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤたちに向けて、力強く親指を立てた。
「えへへ……」
最強の剣姫であるはずのアイズが、教官からの褒め言葉にだらしなく顔を綻ばせる。
「嬉しいです!」
「やったー! 教官からのご褒美だー!」
「マヤ様に褒められましたわーっ!」
双子とエルフの少女が抱き合って歓喜の声を上げ、その後ろでヴァレッタが「紅茶の温度も完璧でした」と誇らしげにお辞儀をする。
ベルが新たな相棒と出会い、更なる高みへの一歩を踏み出したその頃。
黄昏館には、今日も賑やかで、どこまでも温かい家族の日常が広がっていた。