第44話:咆哮
迷宮(ダンジョン)の中層へと続く道、第9階層。
薄暗い通路に、鋭い金属音と怪物の断末魔が響き渡った。
「そこッ!」
銀色の軌跡が閃く。
ベル・クラネルは、右手に握った市販の『ショートソード』で突進してくる巨大な狼(ダイアウルフ)の牙を弾き返し、体勢を崩した怪物の首元へ、左手の『ヘスティア・ナイフ』を滑り込ませた。
黒い刃が魔石を的確に貫き、怪物は一瞬にして灰へと変わる。
「……ふぅっ」
「おいおい、相変わらず無駄のねぇ動きだな、ベル」
背後から声が掛かる。巨大な大剣を背負った赤髪の鍛冶師、ヴェルフ・クロッゾだった。
二人がパーティを組み始めてから数日。ヴェルフはベルの専属として武器の調整と手入れを一手に引き受け、こうして迷宮での実戦テストに同行していた。
「ヴェルフの調整のおかげだよ。ショートソードの重心が、僕の踏み込みに完璧に合ってる。持ち替える時の引っ掛かりも全くないんだ」
ベルが笑顔で振り返ると、ヴェルフは「当然だ」と鼻を鳴らした。
長い剣で敵を牽制し、いなし、本命の短いナイフへと切り替えて(スイッチして)急所を穿つ。
複数の武器に明確な『役割』を持たせ、状況に応じて使い捨てることすら厭わないその戦術は、鍛冶師であるヴェルフの腕を存分に鳴らさせた。
(こいつの武器を打つのは、鍛冶師冥利に尽きるぜ。ただ振り回すだけの素人とは次元が違う)
二人がそんな会話を交わしながら、第10階層へ続く階段へ向かおうとした、その時だった。
——ドゴォォォォォォンッ!!
突如、頭上の岩盤が爆発するように砕け散った。
降り注ぐ瓦礫の雨の中から、重々しい着地音と共に『それ』は現れた。
「なっ……!?」
ヴェルフが息を呑み、咄嗟に背中の大剣に手を伸ばす。
赤黒い皮膚。異常なまでに隆起した筋肉。そして、その手に握られた分厚い大剣。
通常の個体よりも明らかに巨大で、凶悪な気を放つ異端の怪物。
——特異なミノタウロスだった。
「グオォォォォォォォォォォォッ!!」
迷宮を震わせる咆哮。
それは、かつてベルが第5階層で遭遇し、無様に逃げ惑った絶望の象徴。
並の冒険者であれば、その威圧感だけで足がすくみ、戦意を喪失するほどの殺気だった。
「ヴェルフ、下がって!!」
ベルは鋭く叫び、ヴェルフを庇うように一歩前へ出た。
かつてのトラウマの具現。だが、今のベルの心に怯えは一切なかった。
(……来るッ!)
猛牛が太い丸太のような脚で床を砕き、ベルへと一直線に突進してくる。
大気を切り裂きながら振り下ろされる、死の大剣。
直撃すれば、ベルの細い身体など一瞬で両断されるであろう一撃。
しかし。
今のベルの眼に映るその軌道は——あまりにも『遅かった』。
(見える……!)
極限のサバイバルキャンプと、絶え間ない戦闘によって限界を突破し、すでにSSS(トリプルエス)という異常な領域に達していた敏捷性。
ベルの視界の中で、猛牛の猛烈な突進は、まるで泥の中を進むスローモーションのように感じられた。
ダンッ!
ベルは正面から打ち合うことを避け、最小限の体捌きで大剣の軌道から半歩だけ身を踠いた。
轟音と共に、大剣がベルの真横の石畳を粉砕する。
舞い上がる土埃の中、ベルはすでに猛牛の懐、完全に無防備な死角へと滑り込んでいた。
「ハァッ!!」
右手のショートソードが下から上へと跳ね上がる。
硬い筋肉に阻まれることを嫌い、ヴェルフの研磨によって極限まで鋭さを増した刃を、装甲の薄い部位——顔面へと滑らせた。
ズバァンッ!
「ゴァッ!?」
鈍い切断音と共に、ミノタウロスの象徴である巨大な右角が根元から斬り飛ばされ、宙を舞った。
激痛と驚愕に猛牛が怯んだ隙を逃さず、ベルは踏み込んだ足のバネを利用して空中で身体を反転させる。
返す刃で、ショートソードの切先が猛牛の右目を浅く、しかし確実に斬り裂いた。
「ギガァァァァァァァッ!!」
視界の半分を奪われ、鮮血を撒き散らしながらミノタウロスが大剣をデタラメに振り回す。
ベルは風のように後ろへ跳び退き、ヴェルフの立ち位置をカバーしながら距離を取った。
迷宮の通路に、一瞬の静寂が訪れる。
右角を失い、片目から血を流す巨大な猛牛。
その荒々しい呼気だけが、不気味に響き渡っていた。
(……焦るな。僕は、一人じゃないんだ)
両手に武器を構えながら、ベルは極めて冷徹に状況を俯瞰していた。
背後には、大切な相棒であるヴェルフがいる。彼に被害を及ぼすような大きな隙を見せてはならない。
脳裏を過るのは、常に大人の余裕を持ち、いかなる時も冷静だったあの男(マヤ)の背中。
『冷静に生き残れ。そして、守るべきものを守って、確実に帰還しろ』
幻聴のように蘇る教えが、ベルの心を氷のように研ぎ澄ませていく。
「ブモォォォォォォォォォォォォッ!!」
静寂を破り、片目と角を失ったミノタウロスが、残されたすべての怒りと筋力を乗せて、決死の突撃を仕掛けてきた。
床が波打ち、壁が削れるほどの凄まじい突進。
まともに躱しても、その余波だけで背後のヴェルフが巻き込まれる。
「……終わらせる」
ベルは瞳孔を収縮させ、これまでの戦闘で蓄積してきたすべての経験値(エクセリア)を、右手のショートソードへと注ぎ込んだ。
魔法(ファイアボルト)を持たない彼が、本能で導き出した唯一の『遠距離攻撃』の手段。
本命であるナイフを振るうための、最大の布石。
ベルは、猛牛の巨体に向けて、右手のショートソードを全力で投擲した。
「いけぇぇぇぇッ!!」
——ドォンッ!!
放たれたショートソードは、まるで大砲の弾のような速度と威力を伴って空気を裂いた。
一直線に飛来した刃は、ミノタウロスが残していたもう片方の目——その眉間のど真ん中へと深々と突き刺さった。
「ガ、アァァァッ!?」
脳天に直撃した物理的な衝撃と激痛により、猛牛の突進が完全に急ブレーキをかけられ、その巨体が大きくのけぞる。
そして、剣を手放した直後。
ベルの全身を、今まで感じたことのない未知の熱流(バフ)が駆け巡った。
(速い……ッ!!)
ショートソードから本命の『ヘスティア・ナイフ』へと意識が完全に切り替わった(スイッチした)瞬間、ベルの脚力と腕力が爆発的に跳ね上がったのだ。
それは、武器の役割を極限まで探求した彼の願いが、恩恵(ファルナ)のシステムを通して新たなスキルへと昇華しかけている証だった。
ドンッ!!
音を置き去りにするほどの神速の踏み込み。
のけぞったミノタウロスの胸元へ、瞬きする間もなく肉薄したベルは、逆手に持った漆黒のナイフを、分厚い胸の装甲ごと深々と突き立てた。
「——そこだッ!!」
手応えは、完璧だった。
刃が分厚い肉を抜け、その奥にある怪物の心臓——巨大な魔石を正確に貫き、粉砕する。
ピキッ……パリンッ!!
迷宮の空気が震え、巨大な赤黒いミノタウロスは断末魔を上げる暇すらなく、大量の灰となって崩れ落ちていった。
後に残されたのは、ドロップアイテムの巨大な角と、灰にまみれたベルの静かな立ち姿だけだった。
***
「……馬鹿な」
その死闘の一部始終を、離れた通路の暗がりから監視していた大柄な猪人(ボアズ)、オッタルは、ただ愕然と目を見開いていた。
彼が主神の命を受け、幾度もの死線を越えさせて丹念に鍛え上げた特異なミノタウロス。
それが、まるでただの『素材』でも解体するかのような、あまりにも無駄のない冷徹な動きで屠られたのだ。
(あの速度と膂力、そして迷いのない武器の選択。すでにLv.1の域などとうに超えている。私が見誤っていたというのか……!)
そして、遥か上空。
バベルの頂上にある神室から、その光景を神の眼で見下ろしていた美の女神・フレイヤは、頬を染めて妖艶な吐息を漏らした。
「あっけないわね……。もっと泥にまみれて絶望する顔が見たかったのに。でも……あの研ぎ澄まされた刃のような動き。守るべき者のために恐れを捨てたあの冷たい瞳……ゾクゾクするわ」
***
「す、すげぇ……」
灰が舞う通路で、ヴェルフは腰を抜かしたまま、震える声で呟いた。
特異な階層主クラスの気迫を持った怪物を、ベルは傷一つ負うことなく、完全にコントロールしきって討伐してしまったのだ。
「ベル、あんた本当に……」
ヴェルフが立ち上がろうとしたその時、通路の奥から複数の足音が近づいてきた。
「今の咆哮……こっちから聞こえたけど」
「おや、あんなところにいるのは……」
現れたのは、第18階層(安全地帯)の状況確認というお使いを教官から頼まれていたロキ・ファミリアの『少女組』——アイズ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤ、そしてリリの一行だった。
「あ、アイズさん! 皆さんも……」
ベルが驚いて振り向くと、巨大な背嚢を背負ったリリが、崩れた灰の山と斬り飛ばされた角を見て、感心したように目を細めた。
「ふーん、やるじゃん」
頭脳担当であり、戦場の状況を誰よりも正確に把握できるリリの、素直な賞賛だった。
「あれだけ凶暴な強化種を相手に、地形を壊さず、後ろの荷物(ヴェルフ)を守りながら、最短手数で仕留める。『役割分担』を、ベル様なりに完璧に消化しているようですね」
「……ん。見事だった」
アイズも小さく頷き、ベルの無傷の姿を見て、微かに口元を緩めた。
憧れの第一級冒険者たちからの賞賛。
だが、ベルの胸に浮かんだのは、慢心や達成感ではなかった。
(……まだまだだ)
ベルは、自分の手にあるヘスティア・ナイフを強く握り直した。
彼女たちは、もっと深く、もっと恐ろしい絶望が支配する深層で戦っている。マヤにいたっては、そのさらに上の次元にいるのだ。
たかが中層手前の強化種を一匹倒した程度で、満足している場合ではない。
「……ありがとうございます。でも、僕なんて皆さんに比べたら、全然ですから」
真摯な瞳で真っ直ぐに見つめ返してくるベルの姿に、アイズたちは少し驚き、そしてどこか嬉しそうに微笑んだ。
***
その日の夜。
廃教会の地下室には、ヘスティアの驚愕の叫び声が響き渡っていた。
「べ、ベルくぅぅぅぅぅぅぅぅんッ!?」
ステイタス更新を行っていたヘスティアは、ベルの背中に刻まれた神聖文字(ヒエログリフ)を読み取り、ひっくり返って背中から床に倒れ込んだ。
「か、神様!? 大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫じゃないよ……! なんだいこの異常な数値は! これじゃあ、並のLv.2の冒険者だって束になっても敵わないじゃないか!」
ヘスティアが震える手で差し出した羊皮紙には、常識を根底から覆す恐るべき数値が刻まれていた。
【ベル・クラネル】
Lv.2(昇格)
力:SSS 1200
耐久:SS 1050
器用:SSS 1250
敏捷:SSS 1450
魔力:I 0
「それに、新しいスキルが発現しているよ!」
ヘスティアが指差した先には、見慣れない文字が光っていた。
【変幻自在】
・本命の武器でトドメを刺す意志を持つ場合、その直前に使用する別武器への行動(牽制・投擲)に強力な威力補正が付与される。
・武器の切り替え速度が極限まで上昇。
・切り替え直後、力と敏捷に莫大な補正がかかる。
「……武器を使い分けようとする、ベル君の強い意志が恩恵に反映されたんだね」
ベルは、自らの両手を見つめた。
魔法がないという弱点を補い、武器の役割を極限まで引き出すための、彼だけの戦闘スタイルが、神のシステムに認められた瞬間だった。
堂々の、Lv.2への昇格。
白髪の少年は、誰の目から見ても明らかな「強者」として、英雄への第一歩を確かに踏み出したのだった。