迷宮(ダンジョン)第13階層。
通称『第一線』と呼ばれる中層の入り口は、上層までの青みがかった石壁とは打って変わり、不気味な薄暗い岩肌と、硫黄の匂いが立ち込める洞窟へとその姿を変えていた。
「——ッ!」
薄闇の中から、赤熱した牙を剥き出しにして巨大な魔犬(ヘルハウンド)が飛び掛かってくる。
中層から出現するこのモンスターは、口から高火力の炎を吐き出す厄介な性質を持っている。並の冒険者であれば、距離を取り、盾を構えて慎重に対処する相手だ。
だが、白髪の少年——ベル・クラネルの足は止まらない。
ベルは炎のブレスが放たれる一瞬の予備動作を視覚と聴覚で完全に捉え、地を滑るようなステップで射線を外した。
そして、すれ違いざま。右手に握った市販の『ショートソード』を、ヘルハウンドの喉元へ向けて全力で投擲した。
「ギィンッ!?」
ドォン! と大気を叩く音と共に放たれた白刃が、魔犬の喉笛に深々と突き刺さる。
その瞬間、ベルの肉体にスキル【変幻自在】の爆発的なバフが駆け巡った。
ショートソードから本命の『ヘスティア・ナイフ』へと意識が切り替わった(スイッチした)ことによる、筋力と敏捷の異常な底上げ。
残像すら置き去りにする神速の踏み込み。
ベルは喉を貫かれて痙攣する一匹目を飛び越え、背後に控えていた二匹目のヘルハウンドの懐へ瞬時に肉薄。黒いナイフが一切の抵抗を許さず、胸の装甲ごと魔石を抉り抜いた。
「よし。これで終わりだ」
「はっ、相変わらずバケモノみてぇな動きしやがる」
背後から大剣を肩に担いだヴェルフが歩み寄り、灰に変わっていく魔犬を見下ろして笑った。
「俺の出番がねぇじゃねえか。せっかく武器の手入れも完璧に仕上げてきたってのによ」
「そんなことないよ。ヴェルフが後ろを守ってくれているから、僕は前だけに集中できる。それに、ショートソードの重心調整のおかげで、投擲の威力が全然違うんだ」
ベルが灰の中からショートソードを回収し、刃こぼれがないかを確認して鞘に収める。
ここまでの道のりは、まさに順風満帆だった。
Lv.2へと昇格し、全ステイタスが規格外の領域(SSS)に達しているベルにとって、中層のモンスター個体の強さはもはや脅威ではない。ヴェルフの打った防具と入念な武器のメンテナンスもあり、二人の連携は早くも完成の域に達しつつあった。
しかし。
迷宮は、決して冒険者の慢心を許さない。
——ドドドドドドドドッ!!
突如として、階層全体を揺るがすような重低音が響き渡った。
「……地震か?」
ヴェルフが眉をひそめる。
「違う……足音だ! しかも、ものすごい数……ッ!」
ベルが咄嗟にヘスティア・ナイフを構え、通路の奥——上層へと続くルートの方角を睨みつける。
そこから現れたのは、絶望的な光景だった。
「はぁっ、はぁっ……!」
「千草! しっかりしろ! もう少しだ!」
血まみれの小柄な少女(千草)を背負い、大柄な男(桜花)が死に物狂いで走ってくる。その後ろを、黒髪の少女(命)が刀を振り回し、必死に牽制しながらしんがりを務めていた。
極東の出身者で構成された、タケミカヅチ・ファミリアのパーティ。彼らは全員がLv.1の下級冒険者であり、本来ならば中層のモンスターの大群など捌き切れるはずもない実力だった。
そして、彼らの背後に迫っていたのは、数十匹にも及ぶヘルハウンドやアルミラージ、その他の凶悪なモンスターが入り混じった、文字通りの『死の壁(怪物進呈:パス・パレード)』であった。
「なっ……なんだありゃあ!?」
ヴェルフが悲鳴のような声を上げる。
桜花は、前方にベルとヴェルフの姿を認めた瞬間、その顔を激しく歪ませた。
限界だった。仲間は重傷を負い、ポーションも尽き、自分たちの体力は底を突いている。このまま戦えば、確実に全滅する。
極限状態における、強烈な生存本能とエゴ。
「——すまんッ!!」
桜花は血を吐くような謝罪の叫びを残し、ベルたちの横を強引にすり抜け、別の通路へと逃げ込んでいった。
直後、彼らを追っていた数十匹のモンスターの群れは、突如として現れた新たな獲物——ベルとヴェルフへと、その真っ赤な眼(ヘイト)を向けたのだ。
「押し付けやがった……ッ!! クソが、ベル! 迎撃するぞ!」
ヴェルフが大剣を構え、怒鳴る。
だが、ベルの思考は極めて冷静だった。
(数十……いや、五十匹以上。しかも半分がヘルハウンド)
魔法を持たないベルにとって、広範囲に炎をばら撒くヘルハウンドの大群は最悪の相性だ。いくら自分のステイタスが高くとも、背後にいるヴェルフを完全に守り切りながら、この大群を全滅させるのは物理的に不可能に近い。
一瞬にして戦況を計算し尽くしたベルは、背後の相棒に向けて冷徹な声で告げた。
「ヴェルフ! 迎撃はしません! 逃げます!」
「なっ……逃げるって、どこへだよ!? 上へのルートはあいつら(タケミカヅチ・ファミリア)とモンスターの群れで完全に塞がれてるぞ!」
「上層(うえ)へのルートは切り捨てます。——下層(した)へ逃げましょう」
「下だと!?」
ヴェルフが驚愕に目を見開く。
常識的に考えれば、危機に陥ったなら上(地上)を目指すのが定石だ。しかし、今の状況で上に向かうということは、あの狂乱するモンスターの群れを真正面から突破しなければならないことを意味する。
『戦場では、生きて帰ることがすべてだ。泥をすすってでも、無様に這いつくばってでも、退くべき時は退け。それが、守るべきものを守るための最強の生存戦略だ』
かつて黄昏館の庭で、あの赤髪の男(マヤ)が何気なく口にしていた教えが、ベルの脳裏にハッキリと蘇っていた。
「第18階層は、モンスターが生まれない絶対の安全地帯(セーフティ・エリア)です! 今からそこまで、撤退戦(引き撃ち)をしながら強行突破します! ヴェルフ、僕から絶対に離れないで!」
「……ッ、わかった! お前の判断を信じるぜ!」
ヴェルフは一切の迷いを捨て、踵を返して下層へのルートへ向かって走り出した。
「グオォォォォォォッ!!」
獲物が背を向けたのを見て、モンスターの群れが一斉に襲い掛かってくる。
先頭を走る数匹のヘルハウンドが、一斉に炎のブレスの予備動作に入った。
「させないッ!」
ベルは走りながら振り返り、腰に帯刀していた予備のショートソードを次々と抜き放ち、まるで手裏剣のように連続で投擲した。
ヒュンッ、ヒュンッ!
【変幻自在】のスキル効果と、敏捷SSSのバネから放たれる重撃の刃が、ブレスを吐こうとしていたヘルハウンドの頭部を次々と打ち抜く。
巨大な質量弾を撃ち込まれたかのように、先頭のモンスターたちが吹き飛び、後続の群れの足が大きく鈍った。
「今のうちです! 走って!」
ベルは最後尾(しんがり)を務めながら、群れが迫れば投擲と一撃離脱のスイッチで前衛を崩し、再び走る。
無駄な力闘は一切しない。ただひたすらに、敵の勢いを削ぐことだけに特化した、冷徹で泥臭い生存戦略。
第14階層、第15階層、第16階層……。
息が上がり、脚の筋肉が悲鳴を上げ始める。ヴェルフの顔には疲労の色が濃く浮かんでいたが、ベルの足取りは決してブレなかった。
(大丈夫だ。僕には、まだ手札がある。ヴェルフは絶対に守り抜く!)
背後に迫る死の気配。
しかしベルの心は、かつてミノタウロスから逃げ惑っていた頃のような『絶望』には染まっていなかった。
明確な生存のビジョンを持ち、自分の足で、相棒と共に理不尽を切り抜ける。
その確かな手応えが、彼を本物の冒険者へと押し上げていた。
そして、果てしない撤退戦の末。
第17階層の長い回廊を抜け、二人の視界が急激に開けた。
「ハァッ……ハァッ……!」
「着い……た……ぜ……ッ!」
二人が転がり込むようにして飛び出した先。
そこは、迷宮の中にありながら、水晶の天井から淡い光が降り注ぎ、緑の森と澄んだ湖が広がる異空間——第18階層『迷宮の楽園(アンダーリゾート)』であった。
追ってきていたモンスターたちは、安全地帯の境界線を越えられず、悔しそうに唸り声を上げて回廊の奥へと消えていく。
「ははっ……やった、生き延びたぞ……!」
大の字になって倒れ込むヴェルフ。
ベルもまた、荒い息を吐きながらその場にへたり込んだ。全身は泥とモンスターの返り血で汚れ、予備のショートソードもすべて投げ尽くして失っていたが、その瞳には強い光が宿っていた。
「ヴェルフ……怪我は、ないですか……?」
「ああ、お前が完璧に後ろを捌いてくれたおかげでな。……へっ、上に戻らずに下層へ逃げ込むなんて、とんでもねぇ逆転の発想だ。改めて、お前の胆力に惚れ直したぜ」
ヴェルフからの賞賛に、ベルは照れくさそうに笑い、見上げるような高さにあるリヴィラの街の灯りへと視線を向けた。
無事に中層の洗礼を生き延びた二人。
だが、彼らはまだ知らなかった。
この安全地帯であるはずの第18階層に、間もなく、迷宮の法則を無視した『漆黒の絶望』が産み落とされることを。