迷宮都市オラリオ。
世界の中心であり、無限の富と名誉が眠る巨大なダンジョンの上に築かれたこの街は、常に熱気と喧騒に包まれていた。
だが、その熱気を完全に支配し、頂点に君臨しているのは、たった二つの派閥だった。
『ゼウス・ファミリア』と『ヘラ・ファミリア』。
後に「二大巨頭」と称されるこの二つの派閥は、当時のオラリオにおいて絶対的な王者であった。レベル7やレベル8といった、常識外れのバケモノ染みた第一級冒険者たちを多数擁し、他の追随を一切許さない。彼らが街を歩けば、民衆は畏敬の念で道を開け、他のファミリアの冒険者たちは己の無力さを痛感して目を伏せる。
オラリオの表舞台は、完全に彼らの独壇場だった。
「ほんま、腹立つわぁ……! あのエロ爺(ゼウス)とヒステリー女(ヘラ)のファミリアめ、街のど真ん中デカい顔して練り歩きよってからに!」
ロキ・ファミリアの拠点である真新しい館の広間で、主神ロキは酒の入った杯をドンとテーブルに叩きつけた。
窓の外から微かに聞こえてくる、二大巨頭の凱旋を祝う街の歓声が気に入らないらしい。
「まあまあ、ロキ様。今は彼らがオラリオの頂点であることは揺るぎない事実です。僕たちも順調に力をつけていますが、真っ向からぶつかれば一溜まりもありません」
団長であるフィンが、冷静になだめるように言う。
「分かっとるわ! あの化け物揃いの陣容、まともにやりおうたらウチの可愛い子供たちがすり潰されてまう。……せやけどな!」
ロキは不満げに頬を膨らませた後、くるりと振り返り、特等席であるマヤの太ももの上へとダイブした。
「ふんっ、まあええねん。あいつらがどんだけイキろうが、ウチには世界をひっくり返す最強の旦那がおるんやからな! いざとなったらマヤが全部ぶっ飛ばして、ウチがオラリオの覇権を握ったるんや!」
ドヤ顔で言い放ちながら、マヤの胸板にグリグリと頭を擦り付けるロキ。
「おいおい、俺を便利な戦略兵器みたいに言うな。俺はあくまでお前の旦那であり、専業主夫だ。表立って目立つ気はないと言っているだろう」
マヤは苦笑しながら、ロキの朱色の髪を優しく撫でた。
「ええやんかぁ、ウチだけの秘密兵器や。ゼウスやヘラが束になっても、マヤの足元にも及ばへんわ」
そのやり取りを見て、フィン、リヴェリア、ガレスの『三首領』たちは、深く、そして極めて同調したため息を吐いた。
通常、新興ファミリアの幹部であれば、絶対王者であるゼウス・ヘラという高い壁を前に、絶望するか、あるいは血の滲むような努力で這い上がろうと悲壮な決意を固めるものだ。
しかし、現在のロキ・ファミリアの首脳陣には、その悲壮感が欠落していた。
(とはいえ……ロキ様の言う通りなんだよな)
フィンは心の中で苦笑する。
(いざとなれば、マヤ殿が何とかしてくれる。というか、あの人ならゼウスとヘラの両ファミリアを相手にしても、欠伸をしながら素手で殲滅してしまうだろう)
リヴェリアもまた、優雅にお茶を飲みながら内心で同意していた。
(王族としての誇りもある。だが、マヤの実力を知ってしまった今、ゼウスやヘラの強大さを見ても『まあ、マヤがいれば問題ないか』と甘えてしまう自分がいる。恐ろしい男だ)
ガレスに至っては、すでに豪快に酒を煽りながら笑っている。
(がははっ、俺たちがダンジョンで死にかけようが、あの旦那が裏からチョイと手を回せば無傷で帰ってこれるんだ。こんな安心感のあるファミリア、他にねぇぜ!)
彼らはゼウス・ヘラの強大さを正確に分析し、警戒は怠っていなかった。しかし、その根底には「最強の影の守護者」が存在するという、ある種の強烈な安心感——メタ的な甘えが完全に定着してしまっていた。
その一方で、オラリオの水面下では、確実に不穏な気配が渦巻き始めていた。
ゼウスとヘラの二大巨頭が、ダンジョン最下層への到達だけでなく、三大秘境——特に最凶の厄災である『黒龍』の討伐に向けて、総力を結集し始めているという噂が飛び交っていたのだ。
街全体が、英雄たちの壮大な出立に向けて、熱狂と、どこかヒリヒリとした緊張感に包まれている。後の歴史において『オラリオの暗黒期』の引き金となる、取り返しのつかない悲劇の足音が、確実に近づいてきていた。
しかし、そんな世界の運命を左右するような不穏な空気すらも、マヤの前ではただのそよ風に等しかった。
「しかし、ゼウスにヘラねぇ〜」
マヤは、窓の外の喧騒を眺めながら、ふと面白そうな声を出した。
「強いのだろうが、ヘラの方はいい女ばかり集めていやがるな。街で見かけたが、なかなかおもしろい集団だねぇ〜」
事象をハッキングするマヤの目は、オラリオの街を歩くヘラ・ファミリアの女傑たちの姿を正確に捉えていた。特に、静寂を纏う病弱な少女や、圧倒的な美貌と狂気を併せ持つ幹部たちの姿は、彼にとって興味深い存在だった。
泣いた赤鬼を救う青鬼。救済すべきヒロインの匂いを感じ取ったのかもしれない。
だが、その不用意な発言に、膝の上のロキがピクリと反応した。
「むー……」
ロキは不機嫌そうに目を吊り上げ、マヤの胸ぐらをきゅっと掴んだ。
「むーむーーーむーーー! なに他の女のこと『いい女』とか言うとんねん! マヤの特等席はウチやって約束したやろ! ヘラの所の女なんて、みーんな性格ひん曲がったヒステリー女ばっかりやで!」
嫉妬を全開にしてポカポカとマヤの胸を叩くロキ。
マヤはその拳を優しく包み込み、ふっと笑った。
「冗談だ。俺にとって一番のいい女はお前だ、ロキ。お前の笑顔以上の価値なんて、この世界のどこにもないさ」
「……ほんまか? 浮気したら、絶対許さへんからな」
「ああ、約束する」
「……でも好き! ちゅっ!」
機嫌を直したロキは、満面の笑みでマヤの頬に勢いよくキスをした。いつもの甘ったるい空間が完成する。
「やれやれ、相変わらずごちそうさまだな」
ガレスがジョッキを置きながら呆れ笑いを浮かべた時だった。
マヤがふと、三首領の方へと視線を向けた。その深紅の瞳に、先ほどまでの甘い空気を切り裂くような、武人としての鋭い光が宿る。
「フィン、リヴェリア、ガレス」
「はい、マヤ殿」
「今日は実戦、稽古をつけてやろう。お前たちも、そろそろ実戦の勘を鈍らせるわけにはいかないだろうからな」
マヤからの思いがけない提案に、三人は背筋を伸ばした。
普段は裏方に徹しているマヤだが、彼の『稽古』は、文字通り次元の違う体術と戦闘理論を叩き込まれる貴重な機会だった。
マヤはゆっくりと立ち上がり、首を鳴らしながら問いかけた。
「さて、どうする。ナイフありと、ナイフなし。どちらがいいか選べ」
その問いを聞いた瞬間。
リヴェリアとガレスの頭には、純粋な疑問が浮かんだ。
(ナイフありと、ナイフなし……? 武器を持ったマヤ殿と、素手のマヤ殿か。ならば当然……)
ガレスは腕を回しながら答えるべく口を開いた。
「そりゃあ旦那、手加減なしの素手(ナイフなし)で——」
リヴェリアも同意しようとした。
「あえて武器を持たない状態の貴方と——」
「——ッッッッ!!!」
二人が「ナイフなし(素手)」を選ぼうとしたその刹那、フィン・ディムナの顔面からすべての血の気が失せた。
彼の脳裏に、以前マヤが中庭で語っていた『恐るべき真実』がフラッシュバックする。
『このナイフを使う。この程度の強度の刃物だと、俺が本気で握りしめるだけで柄ごと砕け散ってしまうからな。刃を壊さない程度に、無意識に力と闘気を抑え込める。俺にとっては丁度いい枷(リミッター)になるんだ』
——つまり。
ナイフあり=枷(リミッター)あり。刃を壊さないための手加減モード。
ナイフなし(素手)=枷(リミッター)なし。遠慮の一切ない、純粋な暴の顕現。
(素手のマヤ殿なんて、オラリオの地形ごと僕たちが粉砕される!!)
パルゥム特有の危機察知能力が限界突破し、親指の激痛と共に命の危機を悟ったフィンは、己の全敏捷性を解放して前へ飛び出した。
二人の言葉を強制的に遮り、悲鳴のような大声で叫ぶ。
「なっ、ナイフありでお願いしますッッッ!!!」
「おいフィン、何を遮って——」
「いいえ! マヤ殿にはぜひ、武器を持った状態の立ち回りを教わりたいんです! 素手など恐れ多い!」
ガレスとリヴェリアを全力で突き飛ばし、フィンは必死の形相でマヤに懇願した。
「……そうか? ナイフありでいいんだな。分かった」
マヤが懐からあの無骨なサバイバルナイフを取り出そうとした瞬間、フィンはさらに背筋を凍らせた。
(ダメだ! あのナイフでも、万が一手加減を間違えられたら僕たちの首が飛ぶ!)
「そ、それと!!」
フィンは周囲をギョロギョロと見渡し、暖炉の脇に置かれていた焚き付け用の『細い木の枝』を光の速さで拾い上げ、マヤへと差し出した。
「そうだ! マヤ殿、今日は趣向を変えて、この木の枝にしましょう? ね!?」
「……木の枝? なぜだ」
「えっと、その、実戦ではどんな物が武器になるか分かりませんし! 折れやすい木の枝をナイフに見立てて戦うことで、より繊細な力加減の……修行に、なるかとッ!」
息も絶え絶えに、しかし必死の理屈をこねる14歳の団長。
マヤは差し出された脆い木の枝を受け取り、しげしげと見つめた後、ふっと笑った。
「なるほど、繊細な力加減の修行か。少年の言うことにも一理ある。よし、今日はこの木の枝が折れないように立ち回ってやろう」
「あ、ありがとうございます……っ!」
フィンはその場にへたり込み、滝のような冷や汗を拭った。命を拾った。心底そう思った。
「おいフィン、何をそんなに怯えているのだ? 木の枝など、すぐに折れて素手での稽古になるだろうに」
「そうさ、旦那の素手の凄みを味わいてぇのによ」
事情を知らないリヴェリアとガレスが不思議そうに首を傾げる。
フィンは虚ろな目で二人を振り返り、力なく呟いた。
「いいから、僕に従ってくれ……。折れたら、僕たちの命が終わるんだ……」
こうして、絶対王者ゼウス・ヘラが君臨するオラリオの片隅で、最強の鬼とそれに振り回される三首領たちの、命がけ(?)の日常が今日も過ぎていく。
その水面下で近づく世界の危機すらも、この規格外のファミリアにとっては、まだ遠い対岸の火事でしかなかった。
ロキ・ファミリアの拠点、その裏庭。
よく手入れされた芝生が広がる開けた空間で、絶望的とも言える非日常の光景が繰り広げられていた。
「ふー、ええ香りや。お茶請けのクッキーも美味しいわぁ。ほらみんな、気張りやー! ウチのマヤに一撃でも入れられたら褒めたるで!」
縁側に腰掛け、優雅に紅茶を啜りながら足をパタパタと揺らす主神ロキ。
その眼前では、完全武装を施した三人の実力者たちが、たった一人の青年を取り囲んでいた。
重厚な戦斧(バトルアクス)を構えるドワーフのガレス。
魔杖を握り、後方から牽制の姿勢をとる王族エルフのリヴェリア。
そして、身の丈を越える長槍を構え、全身から滝のような冷や汗を流し続ける小人族のフィン。
対するマヤは、防具一つ身につけていない動きやすい戦闘服姿のまま、右手になんの変哲もない『細い木の枝』をだらりと下げて立っていた。
「……いくら何でも、そりゃあ舐めすぎじゃねぇか、旦那」
ガレスが顔を引きつらせて唸る。
「同感だ。我々も伊達にオラリオで戦っているわけではない。手加減をして怪我をしても、文句は言わないでもらおう」
リヴェリアもまた、呆れと微かな怒りを交えて魔杖を構え直した。木の枝一本で第一級冒険者候補の自分たちを相手にしようなど、武に対する冒涜にすら思えたのだ。
しかし、ただ一人。事実を知るフィンだけは、心の中で血の涙を流して叫んでいた。
(違う! 舐めてるんじゃない、手加減をしてくれているんだ! その木の枝が折れた瞬間、僕たちはオラリオの地形ごと素手で消し飛ばされるんだぞ!!)
絶対に、絶対にあの木の枝を折らせてはいけない。フィンにとってこの模擬戦は、マヤを倒すことではなく『マヤの持つ木の枝をいかに折らずに凌ぐか』という、かつてない究極の死地(デスゲーム)と化していた。
「いつでも来い。木の枝が折れたら俺の負けでいいぞ」
マヤが涼しい顔で手招きをする。
「いくぞおおおおおっ!!」
先陣を切ったのはガレスだった。ドワーフの豪腕から繰り出される、風を切り裂くような戦斧の一撃。まともに食らえば巨岩すら真っ二つにする必殺の軌道。
——だが、遅い。
忍の世界で数多の死線をくぐり抜け、体術を極め尽くしたマヤから見れば、それは止まっているのと同じだった。
マヤは武器で受けようともしない。ただ、すり足で『半歩』軸をずらしただけ。
それだけで、ガレスの渾身の斬撃は空を切り、彼の無防備な腕がマヤの眼前へとさらけ出された。
「隙だらけだぞ」
マヤの持つ木の枝が、ピシッ、とガレスの太い腕を軽くはたく。
「ぐぎゃあああああああっ!?」
ガレスの口から、およそドワーフらしからぬ悲鳴が爆発した。
マヤからすれば、手首のスナップを利かせて『軽くはたいた』だけのつもりだった。しかし、その一撃には完璧な重心移動と闘気が針の先のように凝縮されている。ガレスの頑強な腕は、まるで鋼鉄の杭を打ち込まれたかのような激痛に襲われ、戦斧を取り落としそうになる。
「ガレス!? ――『燃え盛れ』!」
驚愕したリヴェリアが即座に無詠唱の小魔法を放つ。炎の弾丸がマヤへと迫る。
「魔法のタイミングは悪くないが、視線で狙いがバレバレだ」
次の瞬間、マヤの姿がフッと掻き消えた。
「なっ――!?」
リヴェリアの背後に、足音すら立てずに回っていた。魔法使いにとって致命的な距離。
振り返ろうとした彼女の視界を、スーッと伸びてきた『木の枝の先端』が完全に塞いだ。
右目の眼球、わずか数ミリの手前。ピタリと静止した木の枝の切っ先に、リヴェリアは全身の血が凍りつくような死の恐怖を味わった。
「戦場では、女だろうと王族だろうと関係ない。油断すれば死ぬぞ」
マヤは容赦なく、木の枝の腹でリヴェリアの魔杖を持つ手をピシャンとはたいた。
「っっっぁあ!?」
王族エルフの端正な顔が、強烈な痛みに歪む。骨が砕けたかと思うほどの衝撃。杖を取り落とし、膝から崩れ落ちそうになるリヴェリア。
しかし、マヤはそれを許さない。
倒れ込む彼女の顎の下に木の枝を潜り込ませ、ポンッ、と器用に叩き上げた。
「ぐっ……!?」
「まだ寝る時間じゃないだろう。立て」
無理やり姿勢を戻されたリヴェリアは、痛む腕を押さえながら絶望的な目で目の前の男を見上げた。
勝負にならない。打ち合いにすらならない。
ただのステップだけで全ての攻撃をいなされ、赤子の手をひねるように制圧されていく。
「うおおおおおっ!」
「少年、踏み込みが浅い」
フィンが死に物狂いで槍を突き出すが、マヤは木の枝で槍の柄を撫でるように滑らせ、その軌道を完全に逸らしてしまう。それどころか、そのままフィンの手首を木の枝でペチッと叩く。
「あだぁっ!?」
フィンが涙目で後ずさる。
「らぁぁぁっ!」
体勢を立て直したガレスが再び突進するが、マヤは木の枝で彼の膝の裏を軽く叩いた。それだけで巨体がバランスを崩して前のめりに倒れそうになる。
「おっと」
マヤはすかさず、倒れかけるガレスの胸板を木の枝で叩き上げ、無理やり立たせた。
「姿勢が悪いぞ、ガレス」
「ひぃぃっ!? な、なんだこの棒キレ!? 鉄の塊か何かか!?」
「ただの木の枝だ。力を逃がすように当てているから折れないだけだ」
地獄だった。
リヴェリアとガレスは、ここに来てようやく理解した。
先ほどフィンが、なぜ狂ったように「ナイフありにしてくれ!」と叫び、わざわざその辺の木の枝を拾って渡したのかを。
この男は、次元が違う。
武器など関係ない。木の枝ですら、彼の手にかかれば絶対的な凶器となる。もしこれが素手であり、一切の制御(リミッター)を解除した状態であったなら、自分たちは最初の接触で肉片すら残らず消し飛んでいたに違いない。
「はぁっ……はぁっ……!」
「ば、化け物め……っ!」
息も絶え絶えになり、全身を打撲の激痛に苛まれながら肩で息をする三人。
対するマヤは、汗一滴かかず、息一つ乱れていない。彼の手にある木の枝は、ただの一度も折れるどころか、傷一つついていなかった。
「……こんなものか? まあ、初日にしてはよく耐えた方だ。怪我はないな?」
マヤが微かに口角を上げ、爽やかに笑う。
(あるわ!! 痛すぎるわ!!)
三人の心の声が、完璧に一つに重なった。
「あはははっ! みんな、ええ動きやったでー! でもやっぱり、ウチのマヤが世界一かっこええわぁ!」
縁側で呑気にお茶を飲み終えたロキが、満面の笑みで拍手を送っている。
フィンたちは、絶望と疲労でついにその場にへたり込んだ。
二大巨頭の壁など、どうでもよかった。
彼らにとって今、オラリオで最も高く、最も理不尽で、最も越えられない『絶対的な壁』は、紛れもなく目の前で木の枝を弄んでいる、この最強の旦那であった。