迷宮都市オラリオにそびえ立つ、巨大な尖塔——黄昏館。
その広大な中庭には、なぜか場違いな『一人用テント』が張られ、パチパチと爆ぜる小さな焚き火と共に、月明かりの下での優雅なティータイムの空間が出来上がっていた。
「……ふむ。夜風を感じながら飲む紅茶というのも、悪くないわね」
銀髪の女性——アルフィアが、キャンプ用のローチェアに深く腰掛け、満足げにティーカップを傾けている。彼女はオラリオの歴史上『里に隠居した』とされており、保護・隠匿されている身である。そのため、気軽に外へ出ることはできず、こうして中庭でひっそりと「ソロキャンプ」を満喫しているのだ。
「どうだい? 夜のキャンプというのもいいものだろ。ファミリアが大きくなる前を思い出すだろ?」
マヤが焚き火に薪をくべながら、普段の冷徹な仮面を完全に下ろした、心底穏やかで優しい笑みを浮かべる。
「せやせや。家もまだない、オラリオに降り立ったばかりの時、マヤと一緒に野宿したもんやな」
ロキがマヤの肩にすり寄って、懐かしそうに目を細めた。
「ふふ、そういう時代もあったのだな。私は身体が弱く、あまり夜風に当たれなかったのでな。こうして月明かりをゆっくり眺めるなど、考えもしなかった」
アルフィアが穏やかな笑みを返した、その時である。
ロキの頭頂部で、鋭い『雌猫レーダー』がピコンと反応した。
「……おまえ、まーたウチの旦那狙っとるんか! かーっ、これやからウチの旦那は! 無自覚にタラシよってからに!」
「何を馬鹿なことを。私はただ、この夜の空気を褒めただけよ」
やいのやいのと言い合いを始めるロキとアルフィアを、マヤは苦笑しながら見守る。
そこへ、館の中から賑やかな足音が近づいてきた。
アイズ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤの『少女組』に加え、ヴァレッタとリリ。そして彼女たちを引率する、オラリオ最高峰の三首脳——フィン、ガレス、リヴェリアの姿があった。
「やあ、ロキ、マヤ殿。アルフィア殿も、夜の一時を過ごしているようだね」
フィンが朗らかな笑顔で歩み寄る。
今日は夜間訓練の日。現在オラリオ最強のLv.8である三人が、後進の少女たちに「慣れない武器での戦闘」や「立ち回り」の手本を見せるための、合同稽古である。
「ああ、フィンか。手本を見せるんだったな」
「はい、そうなんです。慣れない訓練方法なので本来は癖がつかないか心配なのですが、今一度基礎を見直せるかなと思いまして」
マヤはティーカップを置くと、ゆっくりと立ち上がり——懐から、スッと二本の棒を取り出した。
「選べ」
マヤの手にあるのは、綺麗に磨かれた『木の棒』と、どす黒い染みがこびりついた『血濡れの木の棒』。
「——ッッ!!??」
その瞬間。
いつでもLv.9になれるはずのオラリオ最強の三人の顔面から、一瞬にしてすべての血の気が失せた。
「ま、マヤ殿!? きょ、今日は僕たちが手本をという話で——」
「冗談だ。お前らにはこっちを貸してやる」
「えぐいことすな! でもまー、冗談言うようになったんやな」
ロキが笑い飛ばし、アルフィアもくすりと笑う。
「まったくだ。それでボコボコにされていたザルド達を思い出したよ。あの時は心底驚いたさ」
引きつるフィンたちを余所に、マヤはニヤリと口角を上げると、傍らに置いてあった得物を指さした。
ガレスにはただの『木の棒』、リヴェリアには『サバイバルナイフ』。
そして……フィンの身の丈を遥かに超える巨大な大剣——『ウダイオスの黒剣』であった。
「さぁ、今日の訓練は慣れない武器を想定したものだ。武器が手から離れた、盗まれた、拳を痛めた。後衛に至っては、はぐれてしまった時にナイフ一本で凌げるかを見る」
ガチガチガチガチッ!
大剣を受け取ったフィンの両腕が、まるで猛吹雪の中にいるかのように激しく震え始めた。
「だ、団長……? どうしたの、すっごく震えてるけど……」
ティオナが不思議そうに首を傾げる。
大剣が重いのではない。
少女組がウダイオス討伐に向かった時。適性のないこの大剣を持たされ、階層主の元まで行軍させられた記憶。そして何より、陣形を乱した味方に対し、マヤが放った『純粋な修羅の殺意』。
あの極限のプレッシャーが、大剣の柄を握った瞬間にフラッシュバックし、フィンの肉体に「生存本能の警鐘」をガンガンと鳴らしまくっているのだ。
「だ、大丈夫だティオナ……っ! ぼ、僕の腕は……正常だ……っ!」
冷や汗を滝のように流しながら、引きつった笑顔で大剣を構えるフィン。
「さ、さすがフィン! わざと震えさせて、敵のタイミングを外す高等技術じゃな!」
「あ、ああ! 私もそう思っていたぞ、ガレス!」
震える手で木の棒とナイフを構えながら、ガレスとリヴェリアも必死に同調する。
「ほら、お前らもそこにあるものを使え」
マヤの合図で、少女組もそれぞれの得物を構える。
アイズは木の棒、ティオネとティオナは鉄の警棒。
そして、小人族(パルゥム)のリリの手には、彼女の身長の倍はある長い『槍』が握らされていた。
「重いです……こんなの、リリに扱えるわけが……っ」
「とりあえず振ってみろ。パルゥムには槍を使うものが多い。これまでのナイフ捌きで『忍』としての土台、敏捷と器用さは作らせたはずだ」
「ふ、甘いな。お前のその言い方、ギャップがたまらん」
アルフィアがマヤの指導者としての顔に目を細める。
「うぅぅ、それでは……やぁぁッ!」
リリが半ば自暴自棄に長槍を振り回した、その時。
シュァァァンッ!!
槍の切っ先が、リリ自身も予期せぬほど鋭く、そして美しい軌道を描いて空気を切り裂いた。
「——ほう。悪くないじゃないか」
マヤが微かに目を細める。
体格には全く合っていないはずの武器。しかしその一振りに宿った名状しがたい『才覚』は、かつてオラリオを救った小人族の英雄——フィアナ騎士団の系譜を確かに感じさせるものであった。
「なかなかじゃないか、いい突きだ、リリ! さあ、私から一本取ってみろ!」
「ひぃぃ!? フィ、フィン様、剣を持った腕がブルブル震えてるのにすっごい速さで迫ってきますぅぅ!!」
大剣の重さとトラウマに振り回されながらも、Lv.8の超絶技巧でリリの槍をいなしていくフィン。
「よし、次は私だ」
アイズが、手にした木の棒を構えてフィンの前へ進み出た。
「アイズはスキルの使用を許可する。全力で来い」
「うん。——『エアリエル』」
風の装甲を纏ったアイズが、瞬きする間にフィンの懐へ飛び込む。しかしフィンは震える両腕で黒剣の腹を盾にし、暴風の斬撃を完璧な角度で逸らしてのけた。
「くっ……!」
「動きが直線的だよ、アイズ! 木の棒ならもっと手首の返しを使えるはずだ!」
その隣では、ガレスとリヴェリアが、双子のアマゾネスを相手に立ち回っていた。
「スキルは禁止と言ったはずだぞ、小娘ども!」
「あーもう! 重い武器禁止でスキルもダメなんて、ストレス溜まるー!」
ティオナが鉄の警棒を大振りに叩きつけるが、ガレスはただの木の棒一本でその威力を完全に殺し、絡めとるように受け流す。
「隙だらけよ」
ティオネが死角から打ち込もうとした瞬間、エルフの王族らしからぬ敏捷な踏み込みでリヴェリアが接近し、サバイバルナイフの峰でティオネの首筋をトン、と軽く叩いた。
「あいたっ!」
「力任せなのは相変わらずだな。刃の届く距離を見誤るな」
***
さらに離れた中庭の隅。そこでは、他の組とは異質な、ひときわ苛烈な魔法訓練が行われていた。
「遅い! 詠唱を密にしてもう少し早く正確に言うんだ! こうして神経に雑念を入れさせられても乱れなくするんだ!」
元闇派閥の幹部であり、現在は黄昏館の専属メイドとして腕を振るうヴァレッタが、容赦のない怒号を浴びせながら、手にした投げナイフを次々と放っていく。
狙いは急所を外しているものの、当たれば確実に怪我をする速度と軌道。
「ひぃぃっ! はいぃぃぃッ!」
そのナイフの雨を、涙目になりながらステップを踏んで回避しているのは、エルフの少女——レフィーヤ・ヴィリディスであった。
彼女は現在Lv.4。だが、そのステイタスは『魔力』に異常なまでに特化しており、主神のロキをして「馬鹿魔力」と言わしめるほどの膨大なリソースを誇る。
さらには、魔法効果を増幅させるスキル【妖精追奏(フェアリー・カノン)】の恩恵により、Lv.4でありながら放たれる攻撃魔法の火力はLv.6の第一級冒険者をも凌駕する、まさにロキ・ファミリアの後衛の要である。
「——『解き放て、光の矢!』」
レフィーヤはヴァレッタのナイフを紙一重で躱しながら、必死に『平行詠唱』を繋いでいく。かつては立ち止まってしか詠唱できなかった彼女だが、今は走りながら、回避しながらでも魔力を練り上げることができた。
「『弓幹を引け、名手の如く!』——甘いです、ヴァレッタさん!」
レフィーヤの足元に、魔法円(マジックサークル)が展開される。
だが、ヴァレッタの口角が吊り上がった。
「そのタイミングで反撃に転じるとでも思ったか! 足が止まってるぞ、お嬢ちゃん!」
魔法の完成を確信して足を止めたレフィーヤの死角から、ヴァレッタがメイド服のスカートを翻し、一瞬で懐へと飛び込んできた。手には木製のダガーが握られている。魔法が放たれるより先に、術者の喉元を掻き切るという前衛の基本戦術。
「なっ——」
「もらった!」
ヴァレッタのダガーがレフィーヤの首元へ迫る。
しかし、レフィーヤの瞳には絶望の色はなかった。彼女の左腕には、すでに『もう一つの光』が灯っていたのだ。
「——【追奏解放(カノン)】!!」
レフィーヤの左腕に装着されていた、光の腕輪——小型化された魔法円が弾け飛ぶ。
それは、彼女がLv.4へのランクアップと同時に発現させたレアスキル【二重追奏(ダブル・カノン)】。詠唱が完成した魔法を腕輪として『待機状態』で保持し、任意のタイミングで即座に発動させる、極めて高度で反則的な『魔法の後出し』であった。
「なにッ!?」
ゼロ距離。ヴァレッタの目の前で、待機状態にあった光の魔法が炸裂する。
「『貫け(アルクス・レイ)』!!」
本来ならば前衛を粉砕するほどの高火力魔法。だが、レフィーヤはそれを【魔導】の発展アビリティによる精密な制御で威力を極限まで絞り、ヴァレッタの足元へと放った。
ドシュゥゥゥンッ!!
閃光と共に地面が爆ぜ、その衝撃波でヴァレッタの身体が後方へと吹き飛ばされる。
「くっ……!」
空中で見事に受け身を取り、着地するヴァレッタ。そのメイド服には僅かな土埃がついていた。
「や、やりました……! ヴァレッタさんに一矢報いましたよ!」
息を弾ませながら、レフィーヤがドヤ顔で胸を張る。
一人でも戦える『魔法剣士』を目指し、近接戦闘の勘を養ってきた成果。そして【二重追奏】による変幻自在の魔法制御が見事に噛み合った瞬間であった。
だが、ヴァレッタはダガーをクルクルと回しながら、鼻で笑った。
「馬鹿か。今のは実戦なら、爆発の余波でお前自身も吹き飛んでるぞ。魔法の威力制御は悪くなかったが、判断がコンマ一秒遅い。待機魔法を使うなら、私が踏み込む前、重心が前に傾いた瞬間に撃て」
「うぅ……き、厳しいですぅ……」
「当たり前だ。敵はお前の魔法の完成なんて待ってくれない。次はナイフじゃなく、木刀で直接シバきに行く。詠唱を止めずにステップを踏め!」
「ひぃぃぃっ! お、鬼メイドですぅぅ!」
再び始まる苛烈な追いかけっこ。
金属音、風を切る音、爆発音、そして少女たちの悲鳴と歓声が、夜の黄昏館に響き渡る。
マヤはローチェアに深く腰掛け、アルフィアが淹れた紅茶を一口飲んだ。
隣ではロキが肩に頭を乗せ、機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。
マヤは静かにカップを置き、月明かりの下で泥まみれになりながら笑い合う家族たちの姿を、ただ穏やかな瞳で見つめていた。