黄昏館の賑やかで、どこか狂騒じみた温かい空気から一転。
迷宮都市オラリオの片隅、人気のない裏通りにひっそりと建つ廃教会の地下室には、極めて重く、息が詰まるほどに張り詰めた空気が漂っていた。
冷たい石造りの壁を、魔石灯の僅かな明かりが頼りなく照らしている。
その薄暗い空間の中央で、極東出身の神タケミカヅチと、彼が率いるファミリアの団員たち——桜花、命、千草をはじめとする中層での『怪物進呈(パス・パレード)』に関わった全員が、身動き一つせずに平伏していた。
全員が、普段の軽装の防具ではなく、極東における最大級の敬意と謝罪を表す『正装』に身を包み、冷たい床に深く額を擦りつけている。
「……突然の訪問、本当に申し訳ない、神ヘスティア。そして、ベル」
静寂を破ったのは、主神であるタケミカヅチの、血を吐くような重く沈んだ声だった。
「いや、顔を上げておくれよ、タケ」
ヘスティアは困惑したように眉を下げ、努めて明るく、そして優しく振る舞おうとした。
「ベル君から事情は聞いたよ。君のところの子供たちも、自分たちの仲間を守るために、生き残るために必死だったんだろ? 無事に帰ってこれたんだ、気に病むことはないさ。ダンジョンでの出来事は、お互い様ってやつだしね」
ヘスティアの言葉は本心だった。彼女自身、下界に降りてから貧しい生活を送り、ギリギリの底辺を這いつくばってきたからこそ、「何をしてでも生き残ろうとする」彼らの必死さを頭から否定することはできなかった。
だが、タケミカヅチたちは誰一人として、床から額を上げようとはしなかった。
「そういうわけには、いかないのです」
タケミカヅチが、ギリッと奥歯を噛み締める音を立てて応える。
ダンジョンは『自己責任』。それがオラリオにおける不文律であり、絶対のルールだ。モンスターを押し付けられようが、罠に嵌められようが、死んだ者の自己責任。
しかし、現在のオラリオにおいて、その常識はある一つの『事件』によって大きく揺らいでいた。
数日前。
迷宮都市の酒場『豊穣の女主人』にて。オラリオ最大派閥であるロキ・ファミリアの主神の伴侶であり、街では『ロキのヒモ』として広く知られている男——マヤが、新設されたばかりの弱小ファミリアであるヘスティア陣営に対し、公の場で深く頭を下げたのだ。
噂によれば、ロキ・ファミリアの団員(ベート・ローガ)が中層でミスを犯し、ミノタウロスの群れを上層へ逃がしてしまった。それが結果として、当時Lv.1だったベルを襲う事態を招いた。
ダンジョン内でのモンスターの移動や遭遇など、本来であれば完全なる自己責任。誰も責めることなどできない不可抗力である。
にもかかわらず、あの有名な『ヒモ旦那』は言い訳一つせず、自陣の非を公に認め、ヘスティアとベルに対して最大級の謝罪と、一千万ヴァリスという莫大な慰謝料を支払って『ケジメ』をつけたのだ。
この一件は、神々の間で瞬く間に広まった。
『あのロキのヒモ旦那、正気か?』
『ただのヒモのくせに、教官だの幹部特権だのを持ってるからって、勝手な真似を……いや、ロキも容認していたぞ!?』
マヤ個人の武力など、オラリオの住人は誰も知らない。彼らはただ、最大派閥の顔役の一人が、不文律を破ってまで弱小ファミリアに対して絶対的な『義理』を通したという事実に震え上がったのだ。
最大派閥が、ただの事故(不可抗力)に対してそこまでの誠意とケジメを見せた。
ならば——意図的に、己の生存とエゴのために、他ファミリアの同業者を明確な『死地』へと突き落とした自分たちが、ただ「ごめんなさい」と頭を下げて終わらせていいはずがない。
極東の武神として、そして武を重んじる者たちとして、それだけは絶対に許されなかった。
「俺たちは……貴方たちの大切な眷族を、意図的に死地に追いやった。あの場で生き残れたのは、ひとえにベルの力量と、相棒であるヴェルフの力が勝っていただけのこと。……この罪と恥は、到底言葉だけで償えるものではないッ!」
ドンッ! と。
大柄な青年——桜花が、額から血が滲むほどの勢いで床に頭を打ち付けた。
「俺の浅はかな判断で、お前たちを殺しかけた! どんなに罵られても、殴られても文句は言えない! 本当に……本当にすまなかったッ!!」
その後ろで、重傷から回復したばかりの千草も、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら必死に頭を下げ続けている。
その悲壮なまでの覚悟と罪悪感の奔流に、ベルは息を呑んで立ち尽くしていた。
「……ヘスティア様。ベル殿」
不意に。桜花の隣に平伏していた黒髪の少女——ヤマト・命が、ゆっくりと上体を起こした。
その瞳には、一切の迷いも、揺らぎもない。ただ、極東の武人としての決して曲げられない『誇り』と、己のすべてを投げ打つ『決死の覚悟』だけが静かに燃え上がっていた。
「どうか、私の『改宗(コンバージョン)』を受け入れてはいただけないでしょうか」
「えっ……!?」
ベルが驚愕に声を漏らし、ヘスティアが目を丸くする。
「命……君は、タケのファミリアの大切な戦力じゃないか!」
ヘスティアが慌てて制止しようとする。タケミカヅチ・ファミリアにとっても、魔法と各種スキルに秀でた命は、絶対に手放してはならない中核であるはずだ。
「はい。ですが……我が主神と、ファミリアの総意として、これ以上の誠意を示す術が他にありません」
命は凛とした声で、真っ直ぐにベルの目を見つめ返した。
「私自身の命を懸けて、ベル殿のこれからの探索の剣となり、盾となることをお誓いします。この命のすべてを以て……どうか、我がファミリアの『義理』を果たさせてください」
重く、静かな宣言。
オラリオ最大派閥が定めた異常なまでの『義理の基準』に対し、極東の者たちが自分たちの魂を秤にかけて叩き出した、唯一にして最大の『ケジメ』。
現在、ベルのパーティには強力な前衛であるヴェルフがいる。しかし、迷宮の深くへ進むにつれて、索敵や魔法による後方支援、そして敵を足止めするデバフの手札が圧倒的に不足しているのが現状だった。
中層の死闘や、ブラック・ゴライアス戦でも証明された通り、ヤマト・命の操る重力魔法『フツノミタマ』や彼女の卓越した武芸は、今のヘスティア・ファミリアにとって喉から手が出るほど欲しい、破格の補強であることは間違いない。
だが、ベルはすぐには頷かなかった。
冷たい地下室の静寂の中、彼はじっと、覚悟を決めた命と桜花、そしてタケミカヅチの目を見つめ返した。
自らの非を認め、頭を下げ、次へ進むためのケジメ。
豊穣の女主人で、一切の言い訳をせず、ただ誠実に頭を下げたマヤのあの背中。
周囲からは「ただのヒモ」と侮られていても、ベルだけは知っている。過ちを犯した者をただ断罪して切り捨てるのではなく、その覚悟と誠意を受け取り、共に生きて前へ進む。それこそが、あの圧倒的な強さと優しさを持つ『本物の漢』の在り方なのだと。
ベルは一つ、深く、静かに深呼吸をした。
そして、彼もまた、迷いのない真っ直ぐな瞳で、命へ向けて力強く頷いた。
「……分かりました。命さん、これからよろしくお願いします」
ベルのその言葉に、命の肩が微かに震え、桜花たちが弾かれたように顔を上げた。
「タケミカヅチ様、桜花さん、千草さん。……どうか、もう顔を上げてください」
ベルは床に膝をつき、桜花たちの目線を合わせるようにして、静かに微笑んだ。
「僕は、命さんを罪滅ぼしの道具や、生贄として受け入れるわけじゃありません。僕たちは、一緒にダンジョンに潜り、背中を預け合う『家族(ファミリア)』になるんです。……だから、共に強くなりましょう。生きて、一緒に迷宮(ダンジョン)を乗り越えるために」
そのあまりにも真っ直ぐで、純粋な言葉に、命の瞳からついに堪えきれない涙がひとしずく、頬を伝い落ちた。
「……はいッ! この命に代えましても、必ずやッ!」
命が再び深く、しかし今度は絶望ではなく、確かな希望と忠義を胸に秘めて、深く一礼した。