迷宮都市オラリオの中央から少し外れた、静かな通りに面するアストレア・ファミリアの拠点『星屑の館』。
ブラック・ゴライアス討伐という異常事態を無事に切り抜け、ギルドへの報告も終えて数日が経過した昼下がりのことである。
コンコン、と。
拠点の重厚な木製の扉を、控えめだが規則正しいリズムで叩く音が響いた。
「はーい、いいい!?」
間の抜けた返事と共に扉を開けた団長のアリーゼ・ローヴェルは、そのまま言葉を失い、目を丸くして固まった。
「……えっと、貴女は……」
扉の向こうに立っていたのは、きっちりとアイロンがけされた漆黒のロングスカートのメイド服に身を包み、片目に知的なモノクルをかけた、一人の壮年の女性だった。
背筋をピンと伸ばし、両手を前で揃えたその立ち姿は、どこからどう見ても名家や大派閥に仕える完璧な『プロのメイド』のそれである。
だが、アリーゼの脳裏には、数年前の地下隔離区画で、狂ったように笑いながら自分たちを爆殺しようとした『闇派閥の幹部』の姿が焼き付いていた。
(嘘、でしょ……? ヴァレッタ・グレーデ!?)
かつての狂気や嗜虐性は微塵も感じられない。むしろ、研ぎ澄まされた奉仕の精神と、客に対する一切の不敬を許さない絶対的なプロ意識が、彼女の全身から漂っていた。
ヴァレッタは驚愕に目を見開くアリーゼに対し、表情を一切崩すことなく、優雅に、そして深く頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします。私はロキ・ファミリアの専属メイドを務めております、ヴァレッタと申します。……本日は、我がファミリアの団長フィン・ディムナより、こちらをお預かりして参りました」
ヴァレッタは懐から一通の封筒を取り出し、両手で恭しくアリーゼへと差し出した。
封筒には、ロキ・ファミリアの紋章である『道化の横顔』をあしらった真紅のシーリングスタンプが押されている。
「あ、え、えっと……」
「ご拝見のほど、よろしくお願いいたします。それでは、失礼いたします」
混乱するアリーゼの手に半ば強引に手紙を押し付けると、ヴァレッタは再び美しい一礼を残し、足音一つ立てずに嵐のように去っていった。
残されたアリーゼは、手の中の封筒と、誰もいなくなった通りを交互に見比べながら、ようやく引きつった息を吐き出した。
「……何よ、いまの。本当にあのヴァレッタだったわよね……? 完璧すぎるメイドになってたんだけど……」
「どうしたのですか、アリーゼ? なんだか酷く間抜けな声を出していましたが」
奥の部屋から、エルフのリュー・リオンや、副団長のゴジョーノ・輝夜たちが不審そうに顔を出した。
「い、いや、ロキ・ファミリアから手紙が届いたのよ。使者がまさかの……まぁ、それはいいわ。とりあえず中身を確認しましょ」
アリーゼはペーパーナイフで封を切り、中に折り畳まれた上質な便箋を広げた。
そこには、フィン・ディムナの流麗な文字でこう記されていた。
『アストレア・ファミリアの皆様へ。先日の18階層におけるイレギュラー討伐、見事な働きであったと聞き及んでおります。つきましては、オラリオの治安維持を担う同志として、情報共有とねぎらいを兼ねたお茶会を、我が黄昏館にて催したく存じます——』
要約すれば、大派閥からの正式な招待状である。
だが、その文面を読み進めていたアリーゼの手が、ピタリと止まった。
「黄昏館に、招待……」
アリーゼの口から、ポツリと呟きが漏れる。
「黄昏館に行くってことは……マ、マヤさんに会える!?」
その言葉が出た瞬間。
拠点のリビングを包んでいた静寂が、文字通り『爆発』した。
「なっ……!? ま、マ、マヤ殿に、ですか!?」
普段は生真面目で冷静沈着なリューが、耳の先まで真っ赤にして声を裏返した。
「お茶会って、いつ!? 時間は!? ああもう、なんで今日なのよ! 準備が全然できてないじゃない!」
極東出身のクールな侍であるはずの輝夜が、冷静さを完全にかなぐり捨てて自身の着物(私服)の裾をバタバタと叩いている。
「どどど、どうしよう! どんな服を着ていけばいいの!? 私、マヤさんに変な格好だと思われたら生きていけないわ!」
ライラやアーディたちも完全にパニックに陥り、拠点の奥にあるクローゼットへと猛ダッシュを始めた。
彼女たちは、過酷な死線を潜り抜け、オラリオでも一握りの強者である『Lv.5(第一級冒険者)』へと至った最強の正義の乙女たちである。
だが、その誇り高き顔は、たった一人の男の名前が出ただけで跡形もなく崩れ去るのだ。
かつて絶対的な絶望から自分たちを救い出し、「自己犠牲なんて女がするな」と、その広すぎる背中で彼女たちの正義と命を丸ごと抱え込んでくれた規格外の雄。
「リュー! そのエルフの伝統衣装は堅苦しすぎるわ! もっとこう、可愛らしさをアピールしないと!」
「な、何を言っているのですかアリーゼ! 貴女のそのフリルの多い服こそ、マヤ殿の趣味に合うとは思えません!」
「あんたたちどっちも駄目よ! マヤさんはああ見えて大人なんだから、少し落ち着いた色気を出さないと!」
正義の乙女たちはもはや第一級冒険者としての威厳を完全に窓から投げ捨て、「どの服が一番マヤさんに可愛いと思ってもらえるか」という、乙女としてのプライドを懸けた苛烈なファッションショーへと突入していったのである。
***
数時間後。
迷宮都市の中央にそびえ立つ、巨大な尖塔——黄昏館のエントランス。
「いらっしゃいませ。アストレア・ファミリアの皆様。お待ちしておりました」
気合いに気合いを入れまくった私服(あるいは正装)に身を包み、緊張でガチガチになっているアリーゼたちを出迎えたのは、再びヴァレッタであった。
彼女は客人を値踏みするような視線など一切向けず、ただ純粋な『黄昏館のメイド』として、洗練された所作で奥へと案内していく。
(……す、すごい。本当にあの狂人が、こんなに完璧なメイドになるなんて)
(マヤ殿の、圧倒的な懐の深さと指導の賜物ですね……)
アリーゼやリューたちが小声で囁き合いながら、豪華な絨毯の敷かれた廊下を進む。
やがて、重厚な扉の前に到着すると、ヴァレッタは静かにノックをした。
「失礼いたします。アストレア・ファミリアの皆様をご案内いたしました」
「入ってくれ」
扉が開かれ、応接室の中へと足を踏み入れた乙女たちの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「ようこそ。急な招待に応じてくれて感謝するよ」
朗らかに微笑む小人族(パルゥム)の団長、フィン・ディムナ。
「よく来てくれたな、同胞たちよ」
静かに頷くエルフの王族、リヴェリア・リヨス・アールヴ。
そして——。
「よぉ。久しぶりだな、お嬢ちゃんたち。元気にしてたか?」
応接室の最も奥にあるゆったりとしたソファに深く腰掛け、片手を軽く上げて気さくに笑う赤髪の青年。
マヤであった。
ただし、その膝の上には、彼にぴったりと抱きついて離れないロキ・ファミリアの主神、ロキが陣取っており、「チッ、なんやねんこの泥棒猫どもは」とばかりに威嚇の視線を放っている。
「お、お久しぶりです、マヤさん……っ!」
アリーゼが顔を真っ赤しながら、懸命に平定を装って頭を下げた。リューや輝夜たちも、それぞれの推しを前にした熱狂的なファンのように、頬を紅潮させて深く一礼する。
「まぁ、座ってくれ。ヴァレッタ、お茶を頼む」
「畏まりました、マヤ様」
ヴァレッタが鮮やかな手つきで最高級の紅茶を淹れ、アリーゼたちの前へと並べていく。その動きには一切の無駄がなく、主であるマヤへの絶対的な忠誠が滲み出ていた。
「さて、さっそくだが本題に入らせてもらうよ」
フィンがお茶を一口飲み、スッと真剣な『団長の顔』へと切り替わった。
「18階層のセーフティエリアで発生した、ブラック・ゴライアスの一件だ。ギルドへの報告書は読ませてもらったが、現場に居合わせた君たちの口から、直接詳しい状況を聞きたくてね」
その言葉に、アリーゼたちも即座に『正義の乙女』としての顔を取り戻し、背筋を伸ばした。
「はい。事の始まりは……突如として、階層の空気を揺るがすほどの異常な震動が起きたことでした」
アリーゼは、あの時の地獄のような光景を詳細に語り始めた。
安全地帯のルールを完全に無視して産み落とされた漆黒の階層主。その異常な硬度と、超再生能力。タケミカヅチ・ファミリアや、偶然居合わせたヘファイストス・ファミリアの鍛冶師との連携。
「……あ、そういえば、あの場にはヘルメス・ファミリアのアスフィさんも居合わせていたんです」
アリーゼがふと思い出したように付け加えた。
「でも、彼女が加勢に入る前に、私たちと、もう一人……ヘスティア・ファミリアのベル・クラネルという少年で、完全にトドメを刺してしまったので」
アリーゼがその少年の名前を出した瞬間。
「彼は、本当に素晴らしかったです」と、リューが熱を込めて続けた。
「魔法による派手な一撃ではありませんでしたが、彼の戦い方……その立ち回りは、無駄がなく、冷徹で、関節や装甲の継ぎ目を的確に削っていくものでした。それはまるで——」
リューはそこでチラリとマヤへ視線を向けた。
「まるで、以前私たちがマヤ殿に救われた時に見た、あの理にかなった圧倒的な立ち回りを彷彿とさせるような……そんな泥臭くも研ぎ澄まされた刃でした」
少女たちの熱のこもった報告。
そして、マヤの密かな懸念材料であったアスフィ(あるいはヘルメスの監視)が、戦闘の決定的な介入には至っていなかったという重要な情報。
しかし、マヤの顔には、一切の安堵も、ベルとの関係を匂わせるような感情も浮かばなかった。
「へぇ。あの白ウサギ、なかなかやるじゃないか」
マヤはティーカップを傾けながら、あくまで「噂で聞いた程度の新人」に対するフラットな感想を述べるように、口角を上げた。
「Lv.2になったばかりで、階層主の亜種にトドメを刺すとはね。たいした活躍だ」
マヤの思惑と、強固な情報統制の意図を完璧に理解しているフィンとリヴェリアは、一切のボロを出すことなく、ただ静かに相槌を打っていた。
「ええ! 本当にすごい子でした。私たちも、負けていられません!」
アリーゼが誇らしげに胸を張る。
「実は私たち、あの戦いを経て……全員がLv.5へとランクアップしたんです!」
その報告を聞き、マヤはふっと目を細めた。
彼の脳裏に、数年前、彼女たちが絶望の淵に立たされていたあの『ジャガーノート戦』の記憶が蘇る。あの時、アリーゼたちを庇い、最後にマヤ自身が圧倒的な暴力でトドメを刺したあの厄災。
「……そうか。あの時の戦闘の恩恵(エクセリア)も、しっかり入ってたのか。よかったな」
マヤは小さく呟くと、改めて少女たちへ向けて、心からの祝意を込めた極上の笑みを向けた。
「Lv.5になったのか。心よりお祝い申し上げるよ。……その一報を聞けただけでも、今日ここへ呼んだ甲斐があるってものだ」
「マヤさん……っ」
マヤの温かい言葉に、アリーゼたちが顔を輝かせる。
「治安維持を、自己犠牲なんて悲しい方法じゃなく、ちゃんと生きて頑張ってる証拠だろ? 今のオラリオは、君達の力もあって平和だ。街の住人として、ありがたいかぎりさ」
マヤはわざとらしく肩をすくめ、膝の上のロキの頭を撫でながら冗談めかして言った。
「そのおかげで、俺はこうして安全に、ロキと美味い飲み食いができるからな。……ま、全部ロキのおごりだけどな」
オラリオ最強の男が、わざわざ『無力なヒモ』を演じるようなその物言い。
アリーゼやリューは、そのちぐはぐさに一瞬だけキョトンとした顔をした。彼女たちは、マヤが神すらも手玉に取る怪物であることを直接知っているのだ。彼が誰かに守られなければ飲み食いできないような存在であるはずがない。
だが、極東出身で察しの良い副団長・輝夜だけは、即座にその「立場上の擬態」の意味を悟った。
(なるほど。この人はあくまで、表向きは『ロキのヒモ』という立ち位置を崩す気はないということね。……本当に、どこまでも食えない男だわ)
輝夜は心の中で苦笑しつつ、涼しい顔でマヤの言葉に話を合わせた。
「ふふっ。仲睦まじそうで、うらやましいかぎりですわ」
「……む?」
ロキが、輝夜のその言葉にピクリと反応した。
「ありがとう。ロキは本当にいい女だけど……」
マヤは機嫌よく笑い、アリーゼたち一人ひとりに視線を巡らせた。
「お前たちも、みんないい女になったな。第一級冒険者の顔つきだ」
——ドカンッ!!
アリーゼ、輝夜、リュー、ライラ、アーディ。
五人の乙女たちの顔が、一瞬にして沸騰したやかんのように真っ赤に爆発した。
「い、いいいい、いい女だなんてっ! ま、マヤさんにそんなこと言われると……っ!」
「わ、私はまだ、修行中の身で……っ、しかし、マヤ殿がそう仰るなら……っ!」
リューに至っては、自分の顔を両手で覆い、プシューと湯気を立てて完全にフリーズしている。
ピコピコピコピコピコピコッッ!!!!
その瞬間、ロキの頭頂部にある雌猫レーダーが、かつてない激しさでアラートを鳴らした。
「……お・ど・れ・らぁぁぁぁぁっ!!」
ロキがマヤの膝からガバッと立ち上がり、般若のような顔で乙女たちを指差した。
「治安維持の報告が終わったんなら、とっとと早よ帰り!! ウチの旦那に、なんちゅう色目使っとるんじゃ泥棒猫どもォォォッ!!」
「ひゃああっ!? ご、ごめんなさいロキ様!」
ギャーギャーと威嚇するロキと、顔を真っ赤にして慌てふためくアストレア・ファミリアの面々。
「まぁまぁ、落ち着けってロキ」
マヤは苦笑しながらロキをなだめつつ、帰り支度をするアリーゼたちの頭を、一人ずつ順番にポンポンと優しく撫でてやった。
「えへへ……また来ますね、マヤさん!」
「次は、自己犠牲なんて言わずに、ちゃんと生き残って報告に来いよ」
顔から火を出しながらも、嬉しそうに帰っていく正義の乙女たち。
フィンとリヴェリアは、やれやれと肩をすくめながらも、その騒がしくも温かい光景に目を細めていた。
オラリオを揺るがすであろう、アポロン・ファミリアという新たな厄災の影が忍び寄る前の。
最高にカオスで、そして平和な、黄昏館の日常の風景であった。