「……戦争ゲームってなんだ? ロキ、なら、うちもどっかと戦争ゲームしないか? ゲームなんだし、どうよ? そうだな、やるなら強いとこがいいよな? な? ロキ」
マヤが、無邪気な子供のようにタンクトップ姿でワクワクとした笑顔を向けた瞬間。
煌びやかなアポロン・ファミリアの宴会場は、文字通り『死の静寂』に包み込まれた。
誰一人として声を発することができない。
神々も、オラリオを代表する強靭な冒険者たちも、全員の顔面からサッと血の気が引き、呼吸すら忘れたように硬直している。
(……ウソ、でしょ!? この男、本気でそんな『遊び』のために……オラリオを火の海にする気なの!?)
二階のバルコニーから見下ろしていたフレイヤは、ワイングラスを持つ手をわなわなと震わせていた。美の女神としての余裕すら消し飛ぶほどの、常軌を逸したスケールの狂気。隣に控える猛者オッタルでさえ、極度の緊張で全身の筋肉を軋ませている。
(アポロンの馬鹿が引き金を引いたせいで、ロキ・ファミリアが暴走しちまった……っ! しかも、よりによってあの『ヒモ男の』の興味を惹いちまうなんて!)
会場の片隅で壁に寄りかかっていた男神——ヘルメスは、被っていた羽根付き帽子を深く被り直し、滝のように流れる冷や汗を拭った。
このままでは、本当にオラリオが滅びる。
最大派閥が本気で、しかも最悪のタイミングで動き出せば、都市の勢力図は一瞬にして灰燼に帰す。それを防ぐため、ヘルメスはいつもの飄々とした『軽口』で場を丸め込もうと、震える足を無理やり動かしてマヤたちの前へと進み出た。
「ロ、ロキ! 今のは本気なのかい!?」
ヘルメスは引きつった笑顔を顔に貼り付け、両手をヒラヒラと振って見せた。
「いくらなんでも冗談が過ぎるよ。君たちのところでそんなことをすれば、オラリオ中が火の海になるぞ?」
「…………」
ヘルメスの必死の問いかけに対し、当のロキは両手で顔を覆い、しゃがみ込んだまま完全にうなだれていた。神の威厳などとうに捨て去り、「あかん……こいつアホや……本物のド阿呆や……」とブツブツとうわ言を繰り返している。
そんな絶望する主神の隣で、マヤは首をコトンと傾け、ヘルメスへと視線を向けた。
「ほー。お初にお目にかかる」
マヤはポケットに片手を突っ込んだまま、実に気さくな態度で口を開いた。
「俺は、ロキの旦那の、マヤというものです。……そちら様は?」
「へ?」
ヘルメスは間抜けな声を漏らした。
「え? 僕のこと、知らない……?」
オラリオにおいて、ヘルメスの顔と名を知らない者はモグリに等しい。だが、目の前の赤髪の男の瞳には、本当に「見知らぬ通行人」を見るようなフラットな光しか宿っていなかった。
「えーっと、会ったことないですね?」
マヤは記憶を探るように視線を宙に泳がせ、あっけらかんと言い放つ。
「それに俺は、女以外のことはあまり覚えが悪いんだ。もしどこかで会ってたら申し訳ない。……えーと、神? の、『ななし様』ってことでいいのかな?」
ぷちんっ。
しゃがみ込んでいたロキの中で、何かが切れる音がした。
「ええかげんにせーよ! このド阿呆がぁっ!!」
ロキがガバッと立ち上がり、マヤのタンクトップの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「なんやねん『ななし様』って! 相手は神様やぞ! ……って、ハァ……そうやね、それがマヤやもんね。うんうん……」
怒鳴りつけた直後、ロキは憑き物が落ちたようにスンッと真顔になり、マヤの胸板に頬を擦り寄せた。
「ええねん、ええねん。ウチは、マヤのそういう阿呆なとこも大好きやから……もう、好きにせぇ……」
完全に思考を放棄し、イチャイチャ空間へと逃避し始めたロキ。
その変わり身の早さと威厳の欠片もない姿に、周囲の神々は(え……ロキってあんなキャラだっけ……?)と別の意味で戦慄していた。
「な、ななしって……それは、いくらなんでもひどいのではないかな?」
ヘルメスが引きつった笑いを維持したまま、抗議の声を上げる。
いつもの彼なら、ここで軽妙なトークを展開し、相手のペースを乱して情報を引き出すところだ。
——だが、マヤの思考は、ヘルメスの予想とは全く異なる方向へとシフトしていた。
(……うざ。なんなんだこいつ?)
マヤは内心で冷ややかに毒づいていた。
(なんで神のくせに名乗らない? 普通、初対面なら名乗るだろ。やましいことでもあるのか? ……まあいい。今は『ゲーム』の話が先だ)
「えーと、あの、すみません! 今さ、僕たち、アポロンとのウォーゲームの話をしてたんだよね……?」
たまらずヘスティアが割って入る。
「ちょーと、なんか話がおかしくなってるよね!?」
「そうそう、ゲームだよ、ゲーム!」
マヤはヘスティアの言葉に機嫌よく頷き、再びヘルメスへと向き直った。
「俺達もやろうって話さ。ゲームは楽しいだろ? それに、この『ななし』。俺が名乗ってるのに、なんかずっと名前を言わないからさ、知られたくない事情でもあんのかなって。だから、ななし神……『ななしん』とでも呼ぼうかなと」
「……へ?」
ヘルメスの鼻から、ツーッと一筋の鼻水が垂れそうになった。
ななしん。
オラリオを裏で暗躍するヘルメスに付けられた、あまりにも気が抜ける、しかし絶対的な強者からの理不尽な命名。
(マヤさん、凄いな……!)
少し離れた場所で見ていたベルは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(本当に、隠れ里のみんなから聞いてた通りだ。相手が神様だろうが関係ないんだ。筋を通さない相手には、一歩も引かない。……ゼウスのおじいちゃんがコテンパンに言い負かされて、ヘラさんを取られたってザルドさんが言ってたけど、納得だ。それにヘラさん、マヤさんにすごく可愛いお手紙書いてたしな……)
ベルの脳内で、英雄に対するリスペクトがさらに天元突破していく。
「そうだ。もうさ、ななしん」
マヤが、ふと瞳の奥に鋭い光を宿し、ヘルメスを見下ろした。
「あんたんとこのファミリアは、強いの?」
ヒュッ、と。
会場の神々が、一斉に息を呑んだ。
フレイヤも、アポロンも、誰もが(あぁ……ヘルメスが、最初の生贄(ターゲット)に選ばれた……!)と確信した。
「へ!? つ、強い!? まさか……!」
ヘルメスはついに平静を装うことを諦め、両手を激しく振って弁明を始めた。
「あ、あああ、ごめんごめん! 僕はヘルメスだ! 神・ヘルメス! ごめんよ、名乗るのが嫌だったわけじゃないんだ! ちょっとタイミングを逃しただけで……本当にごめんよ!? だから、ヘルメスって呼んでくれ!」
「ヘルメスか。俺はマヤだ、改めてよろしくな」
マヤはニカッと笑い、ヘルメスの肩をポンと叩いた。
「で、どうなの? 強いファミリアなのかな? 強いところとゲームした方が、燃えるだろ?」
このままでは、本当にヘルメス・ファミリアが「最大派閥のお遊びの戦争」に巻き込まれて消滅してしまう。
(……少し、助け舟を出したるか。このままでもオモロいけど)
完全に諦めの境地に達していたロキが、これ以上は都市機能に支障が出ると判断し、ようやく口を開いた。
「——まずだ、旦那様」
ロキはマヤの腕を引き寄せ、ジト目で問いかけた。
「自分、ウォーゲームが何か、わかっとるんか?」
「ゲームだろ? お遊びみたいなもんだろ?」
マヤは事もなげに言う。
「フィン達を連れてよ、そこのヘルメスのファミリアとやり合うんだ。マー、俺はヒモだし? 直接戦うとか面倒なことはしないから、見てるだけだけどさ。うちの可愛い子たちが頑張るのを、全力で応援するさ!」
——ドン引きであった。
会場の空気が、今度こそ完全に凍結した。
(((……こいつ、本気だ……っ!!)))
神々も、冒険者たちも、全員が心の中で絶叫した。
最高Lv.8のフィンを筆頭に、Lv.7やLv.6の怪物がひしめき合う最強集団。それを「お遊びのゲーム」として他派閥にけしかける気だというのだ。しかも、自分は安全な場所から見物するだけ。
(う、嘘でしょ!? そんな子供の遊び感覚のために、ロキ・ファミリアを動かす気なの!? 外道すぎるわ……っ!)
フレイヤですら、あまりの理不尽な暴虐ぶりに戦慄を覚えていた。
当のロキはといえば、もはや白目を剥きそうになっていたが、元々が糸目であるため周囲にはどうにかバレずに済んでいた。
「……ハァァァァァァァァァァ……」
ロキは、オラリオの全酸素を吸い尽くすほどのクソデカため息を吐き出した。
そして、ヘルメスを指差して冷たく言い放つ。
「ヘルメス、感謝せーよ? 今、このウチの愛しい旦那様は、お前んとこにウチらの『遊び』に付き合わせようとしとるけど……ウチが、絶対にさせへん」
「ほ、本当かい!? ロキ!」
ヘルメスが涙目で両手を合わせる。
「え? なんでだよ、ロキ」
マヤが不満そうに唇を尖らせた。
「そんな、まだ相手の強さもわかってないし、それを聞いてからじゃないと……」
「もう、ほんま……ウチの旦那は可愛ええなぁ〜」
ロキはマヤの首に両腕を回してしなだれかかると、背伸びをして彼の耳元に顔を寄せた。
そして、周囲には聞こえないほどの小声で——『戦争遊戯(ウォーゲーム)の本当の意味、敗者が全てを奪われる神の代理戦争であること』を、手短に、しかし明確に叩き込んだ。
「——ってことなんや。わかったか? ただのゲームちゃうねん」
説明を終えたロキは、マヤの頬に『チュッ』と可愛らしい音を立ててキスをした。
「わかってくれたな? マヤ」
「……あー、なるほど。そういうことか」
マヤは目をパチクリとさせた後、ポンと手を打った。
「さすがロキだ、よくわかった。……なら、また今度でいいな! ヘルメス、なんか強さとか根掘り葉掘り聞いて悪かったな。ゲームはまたの機会にしようぜ」
「あ、ああ……またの機会なんて、永遠に来なくていいけどね……」
ヘルメスが魂の抜けたような顔でへたり込む。
「神ヘスティア、話の腰を折ってすまなかったかな」
マヤが爽やかな笑顔でヘスティアへと向き直る。
とんでもない爆弾発言を投下し、「いつかやる」という最悪の保留状態を残したまま、マヤは完全に矛を収めてしまった。
「え、えーっと……うちは今回は、アポロンとやることになったから……あはは……」
引きつった笑いで誤魔化すしかできないヘスティア。
(よ、よかった……! うちに火の粉が来なくて、本当に安堵した……!)
玉座のアポロンは、マヤの筋肉への未練を完全に忘れ、ただ自らのファミリアが標的にされなかったことに心底胸を撫で下ろしていた。
バルコニーのフレイヤもまた、少し寂しくもありつつ(今は無理ね……あんな規格外、触れればこちらが火傷するわ)と冷静な判断を下し、オッタルも悔しげに拳を握り締めていた。
こうして、オラリオ全土を巻き込む寸前だった最悪の暴発は回避され——アポロンとヘスティアの『戦争遊戯』だけが、静かに決定されたのであった。
***
数時間後。
夜の帳が下りた、黄昏館の巨大なリビング。
そこには、ロキ・ファミリアの首脳陣(フィン、リヴェリア、ガレス)と、女性陣(アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤ、そしてメイドのヴァレッタ)が、ずらりと深刻な顔をして整列していた。部屋の片隅には、アルフィアも静かにお茶を飲みながら同席している。
「——っちゅうわけでな。ウチの旦那が、宴の席で『戦争遊戯』をしたがったんや」
ロキが腕組みをして、事の顛末を語り終えた。
「「「…………」」」
幹部連中は、揃って頭を抱え、深いため息を吐いた。
一方の少女連中は、目を輝かせて大はしゃぎしている。
「ええっ!? どことやるんですか!?」
「あたし、いっぱい暴れていい!?」
「マヤ様が指揮を執ってくださるなら、どこが相手でも負けませんわ!」
騒ぐ少女たちを前に、マヤはポリポリと頬を掻きながら、ペコリと頭を下げた。
「えーと、本当にただの『レクリエーションゲーム』だと思ったんだ。……すまなかった。お前たちを無用な争いに巻き込むところだったな」
素直な謝罪。だが、団長のフィンの脳裏には、数年前の光景が鮮明にフラッシュバックしていた。
(『タトゥーを入れるのか? ならナイフと投擲が得意ですって彫っとけよ』……あの時と同じだ。マヤ殿は、根本的なシステムやオラリオの常識を知らないまま、とんでもない発言をする……っ!)
フィンは胃の痛みを堪えながら、穏やかな笑顔を作った。
「ロキ。マヤ殿は、昔と同じような感覚で発言されたのですね……。団員たちには、それとなく上手く伝えておきますので。マヤ殿、謝罪は大丈夫です。お気持ちだけ、しっかりと受け取ります」
「せや。あのままやったら、どっかのファミリアと全面戦争する羽目になっとった。ウチらが負けるわけないから勝てるけどな、周囲からの心象は最悪や。マヤは勘違いしたまま戦争して、終わった後でどんな顔するか分からんしな。……この話はこれでおしまいや。ええな?」
ロキはパンッと手を叩いて場を締めくくると、マヤをジロリと睨みつけた。
「マヤ? 今日の夜は、たっぷりサービスせーよ? ウチがせっかく見立てた綺麗なドレス着とったのに、お前のせいで台無しやで」
「もちろんわかってる。みんな、心配かけてありがとうな」
マヤが笑って頷く。
「きゃー! 夜のサービスってなによ〜っ!」
ティオナが顔を真っ赤にして叫ぶ。
すると、いつもは感情の起伏が少ないアイズが、トコトコとマヤの前に進み出て、ツンと顔を背けながら言った。
「……私も、やってほしい。……ざっこ♡」
謎のメスガキ・スイッチを入れてアピールするアイズ。
「リリも! リリもマヤ様にサービスしてほしいです!」
背後から、いつの間にか拠点に遊びに来ていたリリまでが便乗して手を挙げる。
「お前らなぁ……」
マヤは苦笑し、アイズとリリの頭をポンポンと撫でた。
「そのうちな。肩こりマッサージでもしてやるよ。今日の詫びにな」
(((そういうことじゃないだろ……! それで通せる年じゃないぞ!?)))
女性陣全員が、内心で激しくツッコミを入れた。
「ふふっ。マヤ、私も後で肩を揉んでもらおうかしら」
部屋の隅から、アルフィアが妖艶な笑みを浮かべて参戦する。
「ちょっと待てコラァ! お前ら、ウチの旦那に群がるな泥棒猫ども!!」
ロキの雌猫レーダーが即座に発動し、ギャーギャーと叫びながらマヤに飛びついた。
「ハァ……いつもの騒がしい雰囲気に戻ったな。これが一番良い」
リヴェリアは、ドタバタと騒ぐ家族の姿を見つめながら、心底安堵したように微笑んだ。
***
やがて夜も更け、女性陣がそれぞれの部屋へと引き上げ、ロキも風呂へと向かった。
静まり返った広間。
そこに残されたのは、マヤ、そしてフィンとリヴェリアの三人のみであった。
「……さて」
先ほどまでの気の抜けた『ヒモ旦那』の表情が、スッと抜け落ちる。
マヤの瞳に、オラリオの暗部を支配する『鬼』としての冷徹な光が宿った。
「フィン。リヴェリア」
「はい、マヤ殿」
「何用だ、マヤ」
空気が一変したのを感じ取り、両名も『ファミリアの首脳』としての顔に切り替わる。
「アストレア・ファミリアの連中が、先日、黒ゴライアスの件でお茶会に来た時。……あの場に『アスフィ』という女がいたと言っていたな?」
マヤの低い声が、広間に響く。
「そして、たまたま戦闘が終わる直前に姿を見せた、と。所属はたしか、ヘルメス・ファミリアだったな?」
「ええ、間違いありません」
フィンが真剣な表情で頷く。
「今日、その主神であるヘルメスに直接会った。……あとは、分かるな?」
マヤのその一言で、フィンとリヴェリアの脳内に電流が走った。
宴の席での、あの『戦争遊戯(ウォーゲーム)』の勘違い発言。
マヤが本当にシステムの意味を知らなかったのは事実だろう。だが、彼はその自身の『無知』すらも利用し、偶然接触してきたヘルメスに対して、極めて高度な『盤面操作』を行っていたのだ。
(そうか……! ヘルメス・ファミリアが、ゴライアスの一件で何を嗅ぎ回っていたかは分からない。だが、マヤ殿は今日、ヘルメスを直接『名指し』で標的にし、ロキ・ファミリアの狂気を突きつけた……!)
フィンの背筋に、畏怖の粟が立った。
ただの勘違いアホ発言に見せかけて、実は「ヘルメスに強烈な恐怖(いつロキ・ファミリアが牙を剥くか分からないという絶対的なプレッシャー)を与え、今後の身動きを取りづらくする」という、完璧な牽制(チェック)。
「もし、ヘルメスがあのベルという白ウサギや、こちらの裏事情を探ろうと接触してくるような時は……少し、警戒を高めます」
フィンが、マヤの深謀遠慮に敬意を表し、深く頭を下げた。
「ヘルメス側の女性陣の動きは、こちらで見よう。アスフィという女も含めて、私自身が目を光らせておく」
リヴェリアもまた、即座に自身の役割を理解し、力強く頷いた。
「ああ、頼む。……ま、俺はヒモだから、基本的には何もしねぇけどな」
マヤは再び、いつもの飄々とした笑顔に戻り、ポケットに手を入れたまま窓の外を見上げた。
星の瞬くオラリオの夜空。
最強の天然ボケでありながら、盤面を完全に支配する無敗の鬼。
黄昏館の鉄壁の連携と、マヤの底知れなさが、密かに都市の裏側で絶対的な防壁を築き上げていた。