迷宮都市オラリオは、かつてないほどの熱狂と、そしてどこか重く沈んだ悲壮な空気に包まれていた。
三大秘境の最後にして、世界最大最凶の厄災と呼ばれる『隻眼の黒龍』。
その討伐に向けて、都市の絶対王者として君臨する『ゼウス・ファミリア』と『ヘラ・ファミリア』の主力部隊が、ついに出陣の刻を迎えたのだ。
沿道を埋め尽くす群衆は、神話の英雄たちへ割れんばかりの歓声を送る。しかし、出立する冒険者たちの顔に慢心はない。彼らは知っていた。相手が過去の英雄たちを悉く屠ってきた絶望の象徴であり、これが生きて帰れる保証のない死地への行軍であることを。
同じ頃。
オラリオの片隅にあるロキ・ファミリアの拠点では、極めて日常的な、気の抜けた会話が交わされていた。
「ちょっと、散歩に行ってくる」
縁側でいつものようにロキを膝に乗せていたマヤは、例えば近所の八百屋に大根でも買いに行くかのようなテンションでそう告げた。
「……散歩ぉ? マヤ、お前、まさか」
ロキはジト目でマヤを見上げる。神の直感が、この規格外の旦那がこれから何をやらかそうとしているのかを正確に察知していた。
「ああ。あいつら(ゼウスとヘラ)が黒龍とやらを相手にどう散るのか、少し興味があってな。まあ、ついでにちょっとした『掃除』をしてくる」
「掃除って……相手はあの黒龍やぞ!? 世界最凶の化け物や!」
ロキが慌ててマヤの戦闘服の胸倉を掴むが、マヤは事も無げに彼女の朱色の髪を撫でた。
「俺にとってはただのデカいトカゲだ。それより、夕飯の仕込みは済ませてある。火を通すだけで食えるようにしてあるから、少年たちと先に食っててくれ。俺の分は取っておいてくれよ」
「マヤ……」
ロキは言葉を詰まらせた後、ふいっと顔を逸らしてマヤの厚い胸板に顔を押し付けた。
「……絶対、怪我せぇへんで帰ってくるんやで。ウチの正妻の座は、お前が元気におらんと意味ないんやからな」
「ああ、約束する。愛してるぞ、ロキ」
マヤはロキの唇に軽くキスを落とすと、音もなくその場から姿を消した。空間そのものを書き換えるような、一切の予備動作すら伴わない転移。残されたロキは、誰もいなくなった空間に向かって「アホ旦那……気ぃつけてな」と小さく、しかし確かな信頼を込めて呟いた。
***
オラリオから遠く離れた荒野。
大地を震わせ、砂塵を巻き上げながら進む大軍勢があった。
ゼウスとヘラの精鋭たち。オラリオの頂点に君臨するレベル7、レベル8の化け物たちが、一糸乱れぬ隊列を組んで黒龍の潜む竜の谷へと行軍している。
その顔には、絶対王者としての強烈な自負と、これから挑む死地への覚悟が刻み込まれていた。
「なかなかの眺めだな」
行軍する彼らの遥か頭上。
雲を衝くような切り立った断崖絶壁の頂上で、マヤは一人、足をぶらぶらとさせながら眼下の大軍勢を見下ろしていた。
一切の気配を殺し、自然と完全に同化する忍の極意。さらに事象を改変する力を応用し、自身の存在確率を空間から極限まで希薄化させている。
そのため、眼下を行く最強の冒険者たち——『暴食』のザルドや『静寂』のアルフィアといった、超一級の探知能力を持つ者たちでさえ、頭上で見下ろしているマヤの存在に微塵も気がついていなかった。
誰一人として上を向く者はいない。彼らの視線は、ただ前方で待ち受ける『絶望』にのみ向けられている。
マヤは深紅の瞳を細め、隊列の中を視線でなぞった。
「あれがゼウスの首領、マキシムか。なるほど、いい面構えだ。そして隣を行くのがヘラの女帝……女ながらに凄まじい覇気がある」
マヤの視力は、数キロ先の彼らの表情、さらには筋肉の微細な動きや体内の魔力の巡りまでを完璧に捉えていた。
「そして……あいつか」
マヤの視線が、ヘラ・ファミリアの隊列の中央付近を歩く一人の少女で止まった。
銀色の髪。透き通るような白い肌。しかし、その顔色はひどく青白く、時折苦しそうに胸元を押さえている。
『静寂』のアルフィア。16歳という若さでありながら、神の恩恵を極限まで引き出す才能の怪物。だが、彼女は生来の不治の病に蝕まれており、その命の灯火はすでに消えかかっていることを、マヤの解析能力は瞬時に見抜いていた。
(才能の代償に命を削るか。……理不尽だな。あんな幼い顔をした娘が、死を覚悟して最前線に立たされているとは)
マヤは小さく息を吐いた。
彼の中の『泣いた赤鬼を救う青鬼』としての本能が、静かに、しかし熱く疼き始めている。
(どんなに強がっていても、悲壮感を漂わせている連中は好きじゃない。笑っている奴が一番強いんだ。死を覚悟した顔で戦場に向かうなんて、俺から言わせりゃ三流のやることだ)
眼下では、誰一人として頭上の異物(マヤ)に気づかぬまま、悲劇の舞台へと粛々と歩みを進めている。
「ふむ」
マヤは崖からスッと立ち上がり、首をポキリと鳴らした。
「俺の美学に反する結末は、俺の理(ルール)で書き換えさせてもらう。……さあて、先回りして、絶望(トカゲ)の首をへし折っておくとするか」
誰にも知られることなく。
最強の冒険者たちが悲壮な覚悟で向かう死地へと、最強の主夫が、文字通り『散歩』の足取りで先行を開始した。
これから彼らを襲うはずだった絶望を、根底から理不尽にぶっ壊すために。
三大秘境の一つにして、世界の最果てと呼ばれる『竜の谷』。
ゼウスとヘラの両ファミリアが悲壮な行軍を続けるその遥か前方、死の気配が濃密に立ち込める絶望の最深部に、マヤは音もなく降り立った。
空はどす黒い雲に覆われ、太陽の光すら届かない。大気には高濃度の瘴気が満ちており、並の人間であれば数度呼吸をしただけで肺が爛れ、狂乱して死に至るほどの有毒な魔力が渦巻いていた。
そして、その瘴気の中心——巨大なすり鉢状になったクレーターの底に、『それ』はいた。
隻眼の黒龍。
かつて古代の英雄たちを悉く屠り、世界を恐怖のどん底に叩き落とした生きた厄災。山脈のように巨大な漆黒の巨躯が蠢くたびに大地が鳴動し、残された一つの赤い眼球が、この世のすべての生命を憎悪するように不気味な光を放っている。
その圧倒的な質量と、暴力的なまでに強大な魔力。まさしく神すらも戦慄する最凶のモンスターであった。
だが。
「……ふむ」
断崖の上から見下ろすマヤの深紅の瞳には、微塵の恐れもなかった。
マヤは首をポキリと鳴らし、黒龍を値踏みするように目を細めた。
「チャクラだけで十分いけそうだ。俺の世界で暴れていた九尾の妖狐や、星の理そのものだったカグヤに比べれば……なんてことはない、ただのデカいトカゲだ」
マヤにとっての『絶望の基準』は、とうの昔にバグり散らかしている。月を真っ二つに割り、次元を丸ごと書き換えるような神話級の化け物たちと鎬を削ってきた彼からすれば、この黒龍の放つプレッシャーなど、強風の吹く日の散歩道程度のものだった。
マヤは崖を蹴り、ふわりと軽やかな挙動でクレーターの底——黒龍の真正面へと降り立った。
その瞬間、黒龍の隻眼がマヤを捉え、鼓膜を破らんばかりの咆哮を上げた。
『GYYYYAAAAAAOOOOOOOOOOOッッ!!!』
ただの咆哮だけで突風が巻き起こり、周囲の岩山が粉々に砕け散る。そして同時に、黒龍の全身から漆黒の波動が放たれ、マヤの身体を通り抜けた。
「ん……?」
マヤは自身の背中——ロキによって刻まれた神聖文字(ヒエログリフ)の感覚に意識を向けた。
もとよりオール0というバグ数値であった『恩恵(ファルナ)』が、今の波動を浴びた瞬間に完全に消失したのだ。
「なるほど、そういうことか」
マヤは一人納得し、顎に手を当てた。
「少し近づいただけで恩恵が消えた。もとより無いに等しいものだったから俺への影響はないが……つまりこいつは、神の恩恵を剥がす、あるいは無効化する能力を持っているのか」
謎が解けた。
なぜ、レベル7やレベル9といった常識外れの力を持つ英雄たちが、この黒龍を前に敗れ去るのか。
神のシステムに依存して限界を突破している冒険者たちは、この『恩恵剥奪』の波動を浴びた瞬間、ただの鍛えられた一般人に成り下がってしまうのだ。魔法もスキルも、超常のステイタスもすべて封じられ、その状態でこの巨大な厄災と肉弾戦を強いられる。
それは戦いではなく、ただの蹂躙だ。絶望の象徴と呼ばれる所以は、そこにあった。
「だが、相手が悪かったな」
マヤはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「俺の力は神に与えられたものじゃない。俺の魂と、俺自身の研鑽で練り上げたチャクラだ。システム(外付けの理)を破壊するだけのトカゲに、俺の闘気は消せねぇよ」
黒龍がマヤをちっぽけな羽虫と認識し、その巨大な顎を開いた。中から、万物を消滅させる漆黒の炎(ブレス)が放たれようと極大の魔力が収束していく。
「なら、話は早い」
マヤの姿が、ブレた。
忍の極意、瞬身の術。音置き去りにした超高速移動によって、漆黒の炎が放たれるよりも早く、マヤは黒龍の巨大な顔面の真正面——空中に跳躍していた。
「まずは半殺す」
マヤの右手に、目も眩むような超高密度の青いチャクラが収束していく。それは空気を捻じ曲げ、空間そのものを削り取るかのような破滅的なエネルギーの球体。
「悪いが、家に可愛い正妻が夕飯を待っててな。終わらせるぞ」
放たれたのは、一切の慈悲もない純粋な暴力。
チャクラの塊が、黒龍の脳天に直撃した。
『——ッ!?』
声すら上がらなかった。
最凶の能力を持っていようが、純粋な物理的・エネルギー的破壊力の前には何の意味もなさない。
大気を震わせる爆音と共に、山脈のような黒龍の巨体が大きく跳ね上がり、そして——脳を破壊され、クレーターの底へと地響きを立てて沈み込んだ。殺しはしないさ。、半殺しだ。いつでも死ねる。、まだ死なせね。
「ふう」
マヤは静かに着地し、わずかに動く黒龍の身体を見下ろした。
オラリオの悲願は、誰に知られることもなく、あまりにもあっけなく達成されてしまった。
「さて、次は封印術だ。こんなデカブツを残しておいたら、色々と面倒だからな」
マヤは懐から無地の巻物を取り出し、地面に広げた。指先にチャクラを込め、流れるような動作で複雑な封印術式を描き出していく。
「封ッ!」
印を結び、巻物に手を叩きつける。
巨大な術式が黒龍の身体全体に広がり、空間が歪む。次の瞬間、山脈のような巨体はズルズルと空間の渦に吸い込まれ、巻物の中へと完全に封印された。
マヤは巻物をパタンと閉じ、再び懐へとしまう。
「これで厄災は消えた。……だが、このままだと後から来るゼウスとヘラの連中が混乱するな」
マヤは誰もいなくなったクレーターを見渡した。
彼らは黒龍を討伐するために、悲壮な覚悟でやってくる。しかし到着してみれば黒龍はおらず、ただの空き地になっている。それでは彼らの覚悟も行き場を失い、『黒龍がどこかへ飛び去った』と勘違いして、無用な追跡やパニックを引き起こしかねない。
「激戦の末に飛び去った……という痕跡を残すのも悪くないが、それだと奴らはまた黒龍を探し出そうとする。完全に戦意を喪失させ、オラリオから引退させるための『絶望』が必要だ」
マヤは両手を合わせ、練り上げたチャクラを大地へと流し込んだ。
前世の記憶。砂隠れや岩隠れの忍たちが得意としていた、土と砂を用いた高度な創造術(土遁)。
「土塊人形(ダミー)を創る」
大地がゴゴゴゴと鳴動し、膨大な量の岩と土砂が空へと舞い上がる。それらはマヤの精緻なチャクラコントロールによって空中で組み合わさり、形作られていく。
数分の後。そこには、先ほどマヤが封印した『隻眼の黒龍』と寸分違わぬ、巨大な土塊のダミーが完成していた。鱗の一枚一枚、禍々しい角の角度に至るまで、完璧な模造品である。
「よし、造形は完璧だ。だが、これだけじゃただの巨大な泥人形だな。命の危機を感じさせるようなプレッシャーが足りない」
マヤはさらに印を連続で結んだ。
「幻術……『絶望の領域』」
マヤがかつて忍の世界で培った、広域を覆う高度な幻惑術。それを土塊人形に付与し、さらにこの竜の谷一帯に展開する。
これにより、この空間に足を踏み入れた者は、土塊のダミーが『本物の黒龍』であると脳に直接錯覚させられる。同時に、マヤが意図的に放出した強烈な殺気と絶望感が幻術に織り込まれ、対象の精神を強烈に圧迫する仕組みだ。
どれだけ強靭な精神を持つ第一級冒険者であろうと、この幻術空間に入れば、黒龍の圧倒的なプレッシャーに心が折れかけるほどの『偽りの絶望』を味わうことになる。
「これで舞台のお膳立ては済んだ」
マヤは完成した『偽りの黒龍』を見上げ、満足げに頷いた。
ゼウスとヘラの主力部隊が到着すれば、彼らはこの幻術空間に囚われ、偽の黒龍が放つ(マヤが作った)圧倒的なプレッシャーと恩恵剥奪の疑似体験によって、戦う前から絶望を刻み込まれるだろう。
そして、彼らが完全に戦意を喪失した絶妙なタイミングで、俺が介入してこのダミーを粉砕し、彼らをボコボコにして引導を渡す。
「死の運命にあった連中を救い、なおかつ表舞台から平和に退場させるための、最高の茶番劇だ」
マヤはふっと息を吐き、静かに気配を絶った。
「さあ、早く来いよオラリオの英雄たち。理不尽な救済の時間が始まるぞ」
黒龍という本物の絶望はすでに消え去り。
代わりに、一人の鬼が創り出した『偽りの絶望』が、遅れてくる英雄たちを静かに待ち受けていた。