ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第56話:網を張る蜘蛛と、極東の狐

 

迷宮都市オラリオの中央にそびえ立つ巨大な尖塔——黄昏館。

都市の覇者たるオラリオ最大派閥『ロキ・ファミリア』の本拠地であるこの館の、さらに奥深く。限られた最高幹部のみが入室を許される防音の奥室は、重苦しくもピンと張り詰めた空気に包まれていた。

 

ヘスティア・ファミリアとアポロン・ファミリアによる、あの圧倒的な『戦争遊戯(ウォーゲーム)』の決着から数日が経過した夜のことである。

 

円卓を囲むように座っているのは、主神ロキを筆頭に、団長たる『勇者(ブレイバー)』フィン・ディムナ、『重傑(エルガルム)』ガレス・ランドロック、『九魔姫(ナイン・ヘル)』リヴェリア・リヨス・アールヴの三幹部。

そして、ロキの隣に深く腰掛け、両手を組んで静かに目を閉じている赤髪の男——ロキの正夫であり、ファミリアの裏の要であるマヤであった。

 

「……マヤ殿の読み通りでした。ヘルメスは我々を甘く見て、見事に尻尾を出しましたよ」

 

沈黙を破ったのはフィンだった。

彼は手元の革袋から数枚の羊皮紙を取り出し、円卓の中央へと滑らせた。それは、黄昏館が誇る暗部の諜報部隊が、命がけで掻き集めてきたオラリオの『裏』の真実。

 

「先日、ヘルメスが歓楽街の主神・イシュタルとの接触を試み、密会を果たしたことが確認されました。彼が単なる遊びで動くはずはありません。……そして、その密会の裏側にあったのは、我々の想像を超えるおぞましい計画でした」

 

フィンの言葉に、ガレスが太い眉をひそめ、リヴェリアが鋭い視線を羊皮紙へと落とす。ロキもまた、普段のおらついた態度は鳴りを潜め、極めて神聖で厳しい主神としての顔つきになっていた。

 

マヤだけは、目を閉じたまま静かに先を促した。

「……続けろ」

 

「はい。まず、イシュタル・ファミリアは単独で動いているわけではありません。我々の諜報網は、彼女たちが『カーリー・ファミリア』と接触している事実を掴みました。さらに……」

フィンはそこで一度言葉を区切り、重々しい声で告げた。

「彼らは、都市の最悪の敵である『闇派閥(イヴィルス)』の残党とも完全に癒着しています」

 

その名が出た瞬間、室内の空気が一段と冷え込んだ。

かつてオラリオを恐怖の底に陥れ、暗黒期をもたらした狂信者たち。彼らが生き残りを懸けて、歓楽街という伏魔殿に潜伏し、美の女神と手を組んでいたというのだ。

 

「一体、何を企んでおるんじゃ。あの色狂いのイシュタルが、わざわざ闇派閥などと結託してまでなそうとする事など……」

ガレスが渋面を作って腕を組む。

 

「その目的の全容までは、諜報部隊も掴みきれませんでした。ですが……」

フィンはそこで、扉の外に控えているメイドへと視線を向けた。

「我がファミリアのメイド長であるヴァレッタ・グレーデ。かつて闇派閥の幹部であった彼女の知見を借り、断片的な情報から推測を立ててもらいました。……彼女の分析によれば、カーリーの闘国と闇派閥が持つ『何か』、おそらくは『モンスターの掛け合わせ(呪詛の配合)』を用いて、巨大な厄災を生み出そうとしているのではないか、とのことです」

 

「モンスターの掛け合わせ……」

リヴェリアが眉間を揉み解すように指を当てた。

「イシュタルの標的は、十中八九、目の上のたんこぶであるフレイヤだろう。あの狂気的な嫉妬心を満たすために、都市そのものを巻き込むテロを起こす気か」

 

「そして、ここからが本題です」

フィンが最も分厚い報告書に手を置いた。

「ヘルメスがイシュタルに接触した理由。それは、彼女たちが進めている儀式……他者の魂を砕き、魔力として固定する外法の禁術、『殺生石』の存在を黙認し、あまつさえその秘匿に加担、あるいは何らかの情報を引き渡した形跡があります。……ヘルメスは、イシュタルの暴走を利用しようとしている」

 

その言葉が落ちた瞬間。

 

「…………そうか」

 

マヤが、ゆっくりと目を開いた。

彼の瞳は、底なしの深淵のように黒く、そして淀みきっていた。

何の感情も浮かんでいないように見えるその顔から、チリ、と。肌を刺すような微弱な『冷気』が漏れ出し始めた。

 

「つまり……ヘルメスも噛んでるってことだな? ……それだけで、いいさ」

 

マヤの口から発せられた声は、普段の飄々としたヒモ旦那のそれとは全く異なっていた。

地獄の底から這い出してきた悪鬼が、標的の首を刈り取る直前に漏らすような、純粋で濃密な殺意の結晶。

 

ギチ……ギチギチッ……!!

マヤが感情を抑えようと組んだ手の指の骨が、軋む音を立てた。

室内の空気が、急激に重力を増したように感じられる。圧倒的な武力と、『修羅』の力が、マヤの肉体から黒いオーラとなって漏れ出し、円卓の空気を一瞬にして支配した。

 

(っ……!? な、なんだ、この息苦しさは……っ!)

(マヤのやつ……殺気が、どんどん膨れ上がっておる……!)

Lv.8目前の規格外のステイタスを誇るフィンやガレスでさえ、背筋に強烈な悪寒が走り、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。

ロキは厳しい顔をして、何も言わずにマヤの横顔を見つめている。彼女には分かっていた。マヤがどれほど『命を弄ぶ外道』を嫌悪しているかを。

 

そして、フィンの右手の親指が、かつてないほどの激痛を伴ってズキズキと疼き始めた。

(駄目だ……っ。これ以上、僕の口からあの報告書の続きを口にすれば……マヤ殿の理性が完全に吹き飛びかねない……っ!)

 

直感による危険察知。フィンは咄嗟に口を噤み、冷や汗を流しながら、隣に座るリヴェリアへと鋭い目配せを送った。

『リヴェリア、頼む……! この最後の紙に書かれていることだけは、君の口から言ってくれ……!』

 

フィンの意図を察したリヴェリアは、怪訝な顔をしながらもフィンがスッと滑らせてきた一枚の羊皮紙を手に取った。

だが、そこに記された数行の文字を目にした瞬間、リヴェリアの翠玉の瞳が驚愕に見開かれた。

 

(なっ……! これが、殺生石の『核』だというのか……!?)

リヴェリア自身も、その非道極まりない内容に胸糞が悪くなるのを覚えながら、どうにか平静を取り繕って咳払いをした。

 

「……あー、えーと。こほん」

リヴェリアは、マヤの放つ重圧に耐えながら、報告書の続きを読み上げた。

 

「……その、殺生石を作るための儀式についてだ。歓楽街という娼婦の園にいながら、一度も客を取らされていない少女が一人いる。……極東出身の、狐人(ルナール)の少女だ。……彼女の持つ階位昇華(レベルブースト)の妖術こそが儀式の要であり、彼女自身が、石を精錬するための『生贄』であるという……残酷な真実だ」

 

言い終えた瞬間。

パキンッ!! と。

マヤの足元の大理石の床が、蜘蛛の巣状に砕け散った。

 

「…………そうか」

 

マヤの声は、もはや怒りという感情すら通り越した、絶対零度の響きを帯びていた。

「女の園で、女が犠牲になるのか。しかも、自分の意志ではなく、他者の都合による理不尽極まりない理由で」

 

マヤがゆっくりと立ち上がる。

その背中は、正真正銘の『鬼』の姿そのものであった。

 

「……そんなことは、下界(このせかい)には掃いて捨てるほどある。女が理不尽に泣かされることなんてな。俺は神様じゃない。すべてを救えるなんていうおこがましい思い上がりはしねぇ」

マヤが、一歩、扉の方へと足を踏み出す。

 

「だがな」

 

ゴパァッ!! と。

マヤの全身から、ついに目に見えるほどの濃密な殺意の奔流が噴き上がった。

「石っころ一個のための犠牲? 下らねぇ野望のために、女一人の魂をすり潰す? ……笑わせるな」

 

三幹部の顔から完全に血の気が引いた。

(あ、あかん……! マヤ殿が、完全に『修羅』に堕ちかけている……!)

(このまま歓楽街へ行けば、イシュタル・ファミリアはおろか、歓楽街そのものが地図から消え失せるぞ……!)

彼らはマヤを止めなければならないと頭では理解していたが、その圧倒的なプレッシャーの前に、誰一人として椅子から立ち上がることすらできなかった。

 

他者の命や尊厳を道具として使い潰す外道。それが、マヤの最も逆鱗に触れる行為である。

マヤは今すぐ単独でカチコミをかけ、イシュタルだろうが闇派閥だろうが、歓楽街の害虫という害虫を物理的に挽肉に変える気だった。

 

だが、マヤが奥室の扉に手を掛けようとした、まさにその時。

 

「——マヤ」

 

柔らかく、だが確かな神威を帯びた声と共に。

背後から、細く白い両腕がマヤの大きな背中に回され、ギュッと強く抱きしめられた。

 

「…………ロキ」

マヤの足が止まる。

 

「落ち着きーや。お前の怒りは、痛いほどわかる。ウチかて、人の魂をすり潰すなんて外道な真似、虫唾が走るわ」

ロキは、マヤの背中に頬を擦り寄せ、その荒れ狂う殺意の渦の中に一切の躊躇なく飛び込んでいた。

オラリオ最強の修羅の殺気など、彼女にとってはただの「大好きな旦那の怒り」に過ぎないのだ。

 

「落ち着いてられへんのも、ようわかる。……でもな、マヤ」

ロキの小さな手が、マヤの胸元に回され、その力強い鼓動を確かめるように撫でる。

「お前は、修羅やない。ウチの、最高で最強の旦那様や。ウチの大切な『家族』を、怒りだけで血の海に放り込むような真似、正妻のウチが許さへんで」

 

絶対的な正妻としての余裕、そして、マヤという男のすべてを受け入れている果てしない愛情。

背中から伝わるロキの体温と、優しく甘いその声が、マヤの身体を強張らせていた呪縛をスゥッと解きほぐしていく。

 

「…………ハァ」

数秒の沈黙の後。

マヤは深く、長く息を吐き出した。

その一呼吸と共に、室内を支配していた暴力的な殺気と重圧が、嘘のように霧散して消え去った。

 

「……人の魂を砕いて石にする、か。悪趣味な害虫の掃除を、今すぐ俺一人でしてきてやる……」

マヤはロキの腕に自分の手を重ね、自嘲するように笑った。

「って、思ったんだがな。……さすがロキだ。お前が止めてくれなけりゃ、今の俺のまま突っ込んでたら、娼婦館ごとぶっ飛ばして、罪なき者まで巻き込んで殺していただろうな」

 

マヤが振り返り、ロキの赤い髪をくしゃくしゃと優しく撫でた。

その瞳からはすでに修羅の闇は消え去り、いつもの優しく、底抜けに広い『黄昏館のヒモ旦那』の光が戻っていた。

 

「……よかったぁぁ」

「死ぬかと思ったじゃわい……っ」

「寿命が縮むとはこのことだな……」

 

殺気が完全に消え去ったのを確認し、三幹部が一斉に机に突っ伏してぜぇぜぇと肩で息をし始めた。最強の彼らをして、マヤのガチの殺意はそれほどまでに恐ろしいものだったのだ。

 

「すまなかったな、フィン、ガレス、リヴェリア。俺の悪い癖だ……少し、落ち着いたよ」

マヤは申し訳なさそうに三人に笑いかけると、再び自分の椅子へと腰を下ろした。

 

「マヤ殿……歓楽街への単独の強襲は、控えていただけるのですね?」

フィンが冷や汗を拭いながら、恐る恐る確認する。

マヤはニヤリと口角を上げ、ロキの肩を抱き寄せた。

 

「ああ。俺一人で突っ走るような真似はしねぇ。……せっかく、こんなにも頼りになる『家族』がいるんだ。外道の掃除の仕方も、キツネの嬢ちゃんの救い方も、全員で頭を突き合わせて考えようぜ」

 

マヤのその言葉に、三幹部は表情を引き締め、深く力強く頷いた。

「ええ。我らロキ・ファミリアの総力を結集し、最も賢明かつ確実な盤面を構築しましょう」

 

「ふふん、ウチの有能な子供たちの力、存分に見せつけたるわ!」

ロキが誇らしげに胸を張り、マヤの膝の上にちょこんと座り直す。

 

単独でのカチコミは中止された。

だがそれは、イシュタルやヘルメスが許されたことを意味しない。むしろ、オラリオ最大派閥の『組織力』という、単独の暴力よりもはるかに残酷で冷徹な刃が、彼らの喉元へと向けられた瞬間であった。

 

オラリオの地下で蠢く愚かな陰謀に、黄昏館の蜘蛛の糸が静かに、そして確実に絡みつこうとしていた。

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