「今回の件は、誰にも口外するなよ。内密に頼むぜ」
イシュタル・ファミリアの玉座の間を後にする直前、マヤはへたり込む美の女神に向かってそう釘を刺した。
イシュタルはただ無言で、力なく首を縦に振った。彼女自身、ギルドに隠れて闇派閥(イヴィルス)と癒着しようとしていたという致命的な後ろ暗い事情がある。最大派閥からの不問の対価として、今日の屈辱と事実を胸の奥に封じ込めるしかなかったのだ。
マヤは気絶したままの狐人(ルナール)の少女を軽々と肩に担ぎ上げると、出口付近で立ち尽くすアマゾネス、アイシャ・ベルカの肩をポンと叩いた。
「狐の嬢ちゃんは、こっちで安全に匿っておく。少し落ち着いたら、お前にも居場所を教えてやるよ」
「え……」
「次の団長は、お前だろ?」
マヤがニヤリと笑う。
「レベルより大事なものがあるさ。頑張れや。あのガマガエルは、フィンのパンチで当分ビビって縮み上がってるだろうしな。お前らが派閥を立て直すには、今が最高の好機だろ」
その言葉に、アイシャは目を見開き、やがて深く深く頭を下げた。自分たち娼婦の心にまで気を配る、底知れぬ男の背中を見送るために。
黄昏館への帰路、マヤは並走するフィンに短い指示を飛ばした。
「フィン。あの白ウサギのところにいる極東の嬢ちゃん……命って言ったか。あいつと、この狐娘の過去の繋がりを調べさせておいてくれ。同郷なら、渡りがつけやすい」
「承知しました。明日中には裏を取っておきます」
フィンは完璧な歩法で駆け抜けながら、静かに首を縦に振ったのだった。
***
それから、丸一日が経過した翌日の夜。
オラリオの中央にそびえ立つ黄昏館の、広大で緑豊かな中庭。
そこには、夜風に揺らぐランタンの柔らかな灯りに照らされた、優雅なキャンプ空間が出来上がっていた。
「——そうか。ベルのところにもう一人、女が増えるのか」
最高級の茶葉の香りが漂うキャンプチェアの上で、ティーカップを傾けながらアルフィアが静かに呟いた。
普段のメイド服ではなく、夜風に合わせたゆったりとしたガウン姿の彼女は、焚き火の炎を見つめながら微かに口角を上げている。
「まーな。狐娘の身元引受先としては、あそこが一番安全で丸く収まる」
マヤが、アルフィアの対面にあるアウトドアチェアに深く腰掛け、薪をトングでいじりながら答えた。
「ベルの道だな。あの子は、お前のような漢になると誓っていたからな。お前が預けると決めたのなら、私から口を挟むことはない」
アルフィアはカップを置き、ポットから新しい紅茶をマヤのカップへと注いだ。
「その預ける女は、今はどうしている?」
「客室でヴァレッタが看病してるよ。長年の疲労と、ようやく安心できたってのがあるんだろうな。泥のように寝てるそうだ」
「そうか。……さあ、紅茶が淹れたてだ。一緒に飲もう」
夜の野外で、最強の修羅と、かつての絶対悪が並んで紅茶をすする。極めてシュールで、しかし確かな静寂と平穏に包まれた時間だった。
だが、その静寂は、背後の草むらを掻き分ける気怠げな足音によって破られた。
「……マヤ。ウチに一番に報告せぇ言うたやろ。なんでアルフィアと茶ぁしばいとんねん……」
とぼとぼと歩いてきたのは、主神のロキだった。
普段の活発な歩き方とは程遠く、まるで生まれたての小鹿のように足元を震わせ、手で腰をトントンと叩きながら近づいてくる。
「数時間でパパッと帰ってきたと思ったら、さっきまで爆睡してたじゃねぇか」
マヤが呆れたように笑う。
「疲れてるみたいだから、起こすのも悪いと思ってな」
「……誰のせいで腰砕けになっとると思っとんねん、このバカ体力……」
ロキは恨みがましくジト目を向けた。昨夜、歓楽街から帰還したマヤに対し、正妻としての労い(という名の独占欲の爆発)を仕掛けた結果、圧倒的なフィジカルの前に完全に沈められていたのだ。
「その歩き方はなんだ。滑稽だぞ」
アルフィアが呆れたようにため息をつき、空いているチェアを指差した。
「みっともないから、そこに座れ」
「うっさいわ。ウチの定位置はここや」
ロキは恥ずかしさなどとうに捨て去った様子で、アルフィアが勧めたチェアを無視し、マヤの膝の上へとごく自然に腰を下ろした。そのまま背中をマヤの広い胸板に預け、大きな手に自分の手を重ねる。
「アルフィア、ウチにも一杯よこしなはれ」
「……自分で注げと言いたいところだが、哀れだから淹れてやろう」
三人の奇妙なティータイムが始まってしばらくすると、館の方からフィンとリヴェリアが連れ立って中庭へとやってきた。
「マヤ殿、ロキ。お待たせしました」
「なんだ、すでに寛いでいるようだな」
幹部たちが揃ったのを確認し、マヤは焚き火の火力を調整しながらニヤリと笑った。
「よし。せっかく夜風が気持ちいいんだ、今日はここで焼肉でもしながら打ち合わせといくか。おい、肉を運ばせろ!」
マヤの一声で、裏口で待機していた下級団員たちが、山盛りの最高級の肉が積まれた大皿と、特注の鉄板を次々と運び込んできた。
ジュワァァァァッ!
熱された鉄板に分厚い肉が置かれ、香ばしい脂の匂いが中庭いっぱいに広がる。
この中庭の奥地は、幹部とマヤの許可がなければ立ち入れない領域となっている。
しかし、少し離れた芝生の広場からは、ラウルやアナキティをはじめとする中堅・サブメンバーたちが集まり、すでに賑やかな宴を始めている声が聞こえてきた。
『おいラウル! お前、昨日の夜どこほっつき歩いてたんだよ!』
『ご、ごめんってアキ! 違うんだ、ちょっと迷子になって——痛っ、耳引っ張るなよぉ!』
和やかな声が風に乗って運ばれてくる。
そのさらに奥の訓練場からは、ガレスの怒号と、金属が激しくぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。
『甘いわァッ! もっと重心を低く落とさんか!』
ガレスの容赦ない大斧の薙ぎ払いに、アイズの剣と、槍に持ち替えたリリの刺突、そしてティオネとティオナの双子の猛攻が入り乱れている。
その横では、レフィーヤとメイドのヴァレッタが、互いに異なる魔法の並行詠唱の精度を極限まで高めるための、血を吐くような特訓を繰り広げていた。
黄昏館は今日も、恐ろしいほどの活気と暴力的なまでの向上心に満ち溢れている。
「さて」
分厚い肉をひっくり返しながら、マヤが視線をフィンへと向けた。
「調べはついたか?」
「ええ。まずは狐の少女——サンジョウノ・春姫についてです」
フィンは鉄板の上の肉にはまだ手を出さず、手元の羊皮紙を開いた。
「マヤ殿の推察通り、彼女とヘスティア・ファミリアのヤマト・命は、極東での幼馴染でした。命は春姫をずっと探していたようで、彼女になら安心して引き渡すことができるでしょう」
「上出来だ。あいつらの屋敷がもう少し落ち着いたら、直接放り込みに行ってやる」
マヤが肉を切り分けながら頷く。
「そして、肝心の闇派閥とカーリー・ファミリアの動向ですが……」
フィンの声が、一段階低くなった。
「イシュタル・ファミリアの動きが完全に停止したことを受け、闇派閥の残党は再び深く地下へと潜伏しました。痕跡を完全に消し去っています」
「カーリーの方は?」
リヴェリアが紅茶のカップを置き、静かに問う。
「渡りがつく前だったようです」
フィンが安堵の息を吐き出した。
「歓楽街の闇ルートを徹底的に洗いましたが、カーリー・ファミリアの闘国からの武器や人員の流入は、まだ計画の初期段階でストップしていました。……あと数週間、あるいは数日遅ければ、本格的な癒着が成立し、あの歓楽街は血みどろの戦場になっていたかもしれません」
ヘルメスが急かしたことで、イシュタルは焦って動き出そうとした。だが、それが結果としてフィンの諜報網に引っかかり、マヤの逆鱗に触れることになった。
彼らの計画は、盤面が揃う前に強引に盤ごとひっくり返されたのだ。
「なるほどな」
マヤは焼けた肉を小皿に取り分けながら、焚き火の炎を見つめて口角を上げた。
「……神(かみ)だけに、紙一重か」
パチッ、と。
薪が爆ぜる音が、妙に大きく響いた。
「…………」
数秒の、完全な沈黙。
ロキはマヤの胸に背中を預けたまま、呆れたようにジト目を向けた。
「……じぶん、恥ずかしないん?」
「ぷっ……くくっ……ふふふっ」
普段は厳格なリヴェリアが、口元を両手で覆い、肩を震わせて堪えきれずに笑い出した。ツボに入ってしまったらしい。エルフの王族らしからぬ吹き出し方に、フィンが目を丸くする。
「……神と紙。同音異義語を用いた言葉遊びか。何が面白いのか、私には理解できんが」
アルフィアだけは、首を傾げて真顔のまま紅茶を啜っていた。
「一人でも笑えば、俺の勝ちだ」
マヤはどこ吹く風で、ケラケラと笑いながら一番よく焼けた肉を箸でつまみ上げた。
「ほらロキ、食え」
「あ〜ん」
ロキが大きく口を開け、マヤが放り込んだ肉を嬉しそうに咀嚼する。
「……もぐもぐ。ん、うまぁ……。やっぱマヤの焼いた肉が一番やわ」
「そうかそうか。フィン、リヴェリアも遠慮すんなよ。お前らも食え」
「ええ、いただきます。……ふふっ、神と、紙……くくっ」
「リヴェリア、まだ笑ってるのか……? マヤ殿、僕にも一つください」
夜風が吹き抜け、ランタンの灯りが家族の食卓を優しく照らし出す。
オラリオの地下で蠢いていた巨大な悪意は、彼らの手のひらの上で完全に叩き潰された。鉄板で爆ぜる肉の音と、穏やかな笑い声だけが、黄昏館の夜の闇に心地よく溶けていった