迷宮都市オラリオの中心部から少し離れた場所にそびえ立つ、巨大な白亜の館。
かつてアポロン・ファミリアの拠点であったその場所は、先の『戦争遊戯(ウォーゲーム)』を経て、今やヘスティア・ファミリアの新たな本拠地となっていた。
「頼む! 俺をヘスティア・ファミリアに入れてくれ!」
「私、料理も掃除もできます! お願いします!」
館の正門前には、連日、オラリオ中から集まった冒険者たちの長蛇の列ができている。巨額の借金が存在しないこの世界線において、たった三人で巨大ファミリアを打ち破り、広大な屋敷を手に入れたヘスティア陣営は、最も勢いのある優良物件であった。
「悪いが、全員お引き取り願おう」
「私たちは、急に強くなったからと言って擦り寄ってくるような人間を迎え入れる気はありません」
正門の前に立ち塞がり、毅然とした態度で入団希望者を門前払いしているのは、アストレア・ファミリアの団長アリーゼと、副団長の輝夜だった。治安維持の名目でヘスティアに泣きつかれ、護衛と交通整理を請け負っていたのだ。第一級冒険者である正義の乙女たちに睨まれれば、有象無象の冒険者たちはすごすごと引き下がるしかなかった。
その騒ぎが少し落ち着いた昼下がり。
アリーゼと輝夜は、ふと、正門へと続く石畳を歩いてくる『異質な気配』に気づき、反射的に武器へ手を掛けた。
足音がない。
大通りを歩いてくるにも関わらず、雑踏の喧騒から完全に切り離されたような、静謐で無駄のない歩法。
そこに現れたのは、黒のロングスカートに白いエプロン、片目にモノクルを付けた優美な女性だった。
ロキ・ファミリアのメイド長、ヴァレッタ。
「……何用かしら? ロキ・ファミリアのメイドさんが、こんな所へ」
アリーゼが警戒を滲ませた声で問う。彼女たちアストレア・ファミリアとヴァレッタの間に過去の遺恨はないが、その洗練されすぎた身のこなしから放たれる実力者の気配が、正義の乙女たちの防衛本能を刺激したのだ。
ヴァレッタは足を止めると、ロングスカートの裾を軽くつまみ、完璧な作法で一礼した。
「お疲れ様でございます、正義の乙女たち。本日は、館の主であられるベル・クラネル様へ、我が主からの書状をお届けに参りました」
ヴァレッタが懐から取り出したのは、上質な羊皮紙の封筒。
そこに記されていたのは、『アポロン・ファミリアとの戦争遊戯における見事な勝利への労い』、そして『黄昏館への招待状』であった。
その知らせを聞いたベルは、屋敷の奥から文字通り弾かれたように飛び出してきた。
「マ、マヤさんから……! 僕たちに、招待状……っ!」
手紙を受け取ったベルの瞳は、これ以上ないほどにキラキラと輝いていた。隠れ里で育った彼にとって、ゼウスやヘラすらも畏怖する『おとぎ話の英雄』であるマヤからの直接の誘い。それは、神からの恩恵以上の価値を持つ、至上の喜びであった。
「神様! 僕、行ってきます! すぐに行ってきます!」
「あ、うん! 気をつけてねベル君! 僕も心配だからいくよ!」
興奮冷めやらぬベルの様子に、ヘスティアも微笑ましく笑う
ベルはヴェルフと命を伴い、鼓動を早鐘のように打ち鳴らしながら、都市の中央にそびえる最大派閥の本拠地『黄昏館』へと向かったのだった。
***
「……す、すげぇな、おい。これが、ロキ・ファミリアの本拠地……」
黄昏館へ足を踏み入れたヴェルフが、あまりのスケールにポカンと口を開けた。
命もまた、極東の武人らしく気を引き締めているものの、その目は驚きに見開かれている。
広大。いや、もはや一つの『街』である。
二十八年という長きにわたり、マヤの指導の下で徹底した節約と市場操作を行い、莫大な財力を蓄え続けてきたロキ・ファミリア。その資金力は、オラリオの地下迷宮の構造すらも独自に開拓できるほどに膨れ上がっている。
高くそびえる尖塔群、手入れの行き届いた巨大な中庭、そして無数に点在する修練場。
ヴァレッタの先導でベルたちが案内されたのは、アルフィアが優雅に野営を楽しんでいる広場とはまた別の、幹部だけが立ち入りを許される『秘匿された大広場』であった。
ギルドの目も、神々の監視の鏡すらも届かない、完全な結界が張られた空間。
「——来たか、白ウサギ」
広場の中心。
心地よい風が吹き抜ける芝生の上で、マヤが気だるげに片手を挙げた。
彼の膝の上には、いつものようにロキが定位置を陣取り、ニシシと笑いながらベルたちに手を振っている。その後方には、フィン、ガレス、リヴェリアの三幹部が静かに控えていた。
「マヤさん……っ!」
ベルが感極まった声を上げる。
だが、命の視線は、マヤの背後に立つ『一人の少女』に釘付けになっていた。
上質な着物をあつらえられ、不安げに黄金色の尻尾を揺らしている狐人(ルナール)の少女。
その面影は、命が幼い頃、極東の地で共に過ごし、ずっと探し求めていた親友のものだった。
「……は、春姫……!?」
命の喉から、震える声が漏れる。
「み、命……?」
春姫もまた、信じられないものを見るように目を丸くし、やがてその大きな瞳からポロポロと大粒の涙を溢れさせた。
「ああ……春姫、春姫ぇっ!!」
命は武器を放り出し、地面を蹴って春姫の元へ駆け寄ると、その細い身体を力強く抱きしめた。
「ずっと、探しておりました……! 生きて、無事で……本当によかった……っ!」
「命……ごめんなさい、ごめんなさい……わたくし……」
二人の少女の嗚咽が、広場に響き渡る。
歓楽街の泥水の中で、殺生石の贄として消費されるはずだった薄幸の少女。それを、マヤという規格外の存在が、魔法も武力も使わず、ただ圧倒的な『雄の器』と理詰めだけで救い出したのだ。
命は春姫から身体を離すと、そのままマヤの御前へと向き直り、石畳の地面に勢いよく額を叩きつけた。
ゴツンッ! という鈍い音が響く。
「マヤ殿……! この御恩は、生涯忘れません! この命に代えても、必ずや報いてみせます!!」
極東の武人としての、最大級の感謝と忠誠。
だが、マヤは苦笑しながら頭を掻いた。
「顔を上げろ、命。俺は厄介事を片付けただけだ」
マヤは膝の上のロキの髪を撫でながら、静かな声で続ける。
「あいつの過去の厄ネタは、もう完全に潰してある。誰の干渉も受けねぇ。だが、うちのファミリアは少し荒っぽくてな。狐の嬢ちゃんには刺激が強すぎる。……だから、善性の強い神(ヘスティア)のところに預けるのが一番だと判断したまでだ。頼めるか?」
「は、はいッ!! 命に代えましても、必ず、春姫をお守りいたします!」
命が涙で顔を濡らしながら、深く頷いた。
「感動の再会ってところ、悪いんだけどよ」
その時。
広場の柱の影から、不遜な笑みを浮かべた一人のアマゾネスが歩み出てきた。
大剣を肩に担ぎ、豊満な肢体を惜しげもなく晒した女戦士、アイシャ・ベルカ。イシュタルの元を離れ、次期団長としての道を歩み始めた彼女は、マヤの手引きによって密かにこの場へ呼ばれていたのだ。
「アイシャ様……」
春姫が不安げに身を寄せる。
「ウチの春姫を、そこの坊やたちのところに預けるって言うなら……本当にそれだけの器があるのか、私が直接試させてもらうよ」
アイシャの瞳に、好戦的な光が宿る。
Lv.4という、第一級冒険者への壁。百戦錬磨のアマゾネスから放たれる闘気は、戦争遊戯で戦ったアポロン・ファミリアの有象無象とは次元が違った。
「面白い」
マヤがニヤリと口角を上げる。
「やれ、ベル。お前たちの連携がどこまで通用するか、見せてみろ」
憧れの英雄からの、初めての名前の呼び捨て。
その瞬間、ベルの背筋に凄まじい電流が走った。
(マヤさんが、僕の名前を……僕たちを見てくれている……ッ!)
「……行きます、ヴェルフ、命さん!!」
「おうよ! 前衛は俺が引き受ける!」
「承知!」
ベルがショートソードを抜き放ち、三人が瞬時に陣形を展開する。
模擬戦の開始を告げる銅鑼などない。アイシャが地を蹴り、巨大な大剣を猛然と振り下ろした。
「はぁぁッ!」
「させねぇよ! 【ウィル・オ・ウィスプ】!!」
ヴェルフが即座にアンチマジックを放ち、アイシャが微かに纏わせようとした魔力の流れを爆散させる。魔法の詠唱を阻害されたアイシャは、舌打ちをしながら純粋な膂力で大剣を薙ぎ払った。
ガァァァンッ!!
ヴェルフの巨大な大剣がそれを受け止めるが、Lv.4の圧倒的な腕力に押し込まれ、足元の石畳が砕ける。
「詠唱式——【掛けまくも畏き、いかなるものも打ち破る我が武神よ】!」
ヴェルフがヘイトを稼いだ一瞬の隙を突き、命が極東の太刀を大地に突き立てた。
「【——神武闘征(しんぶとうせい)】!!」
ドゥンッ!!
半径数十メートルに及ぶ強烈な重力結界(フツノミタマ)が展開され、アイシャの身体に凄まじい負荷がのしかかる。
「チッ……鬱陶しい重力魔法だねっ!」
アイシャの動きが、目に見えて鈍る。
「今だ、ベル!!」
ヴェルフの叫びと同時。
重力結界の影響を受けないよう、ギリギリの範囲外から助走をつけていたベルが、爆発的な踏み込みで空間を蹴り飛ばした。
ベルの右手に握られたショートソード。
そこに、ベルの明確な『意志』が込められる。
(これで、アイシャさんの視線を誘導する……!)
右手に持つ武器への明確な使い道。それがトリガーとなり、軽いバフがベルの肉体を底上げする。
シュオォォンッ!
放たれたショートソードが、空気を裂いてアイシャの顔面へと迫る。
「甘いよ、坊や!」
アイシャが大剣でそれを弾き飛ばそうと視線を向けた、その絶対的な死角。
「——ここだッ!」
武器を手放した瞬間。
ベルの腰から、真っ黒な短刀——『ヘスティア・ナイフ』が抜き放たれる。
【変幻自在】のスキルによる、武器の持ち替えをトリガーとした爆発的なステイタス補正。
そして何よりも。
(マヤさんが、僕を見ている……!!)
全身の血が沸騰するような、究極の英雄への純粋な憧憬。
【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】のバフが、マヤの視線という最強の起爆剤を得て、ベルの限界を完全に突破させた。
現在Lv.3のベルのステイタスが、一時的にLv.5の領域すらも脅かすほどの異常な神速へと跳ね上がる。
「なっ……!?」
アイシャが驚愕に目を見開く。
視線を誘導された一瞬の隙。重力結界による機動力の低下。そこに、黒ゴライアスの魔石を砕いた時と同等、いやそれ以上の威力を伴った黒い刃が、アイシャの懐へと潜り込んだ。
隠れ里の怪物たちから叩き込まれた、関節と腱を的確に削る純粋な暗殺術。
ベルのヘスティア・ナイフが、アイシャの大剣を握る手首の腱を寸止めで捉え、同時に左手の予備のショートソードが、彼女の首筋にピタリと添えられた。
「……勝負、ありです」
ベルの静かな、しかし確かな熱を帯びた声が響く。
風が止んだ。
アイシャは、首筋に添えられた冷たい刃と、完全に無力化された自身の手首を見下ろし……やがて、肩の力を抜いてフッと笑った。
「……完敗だ。本当に、とんでもない坊やたちだね」
アイシャが大剣を地面に下ろす。
「いい目だ。これなら、春姫を安心して任せられる」
「アイシャ様……!」
春姫が胸を撫で下ろし、嬉しそうに微笑んだ。
ヴェルフと命も、完璧に決まった戦術にガッツポーズを取る。
——だが。
勝者であるはずのベルだけは、ナイフを下ろしながら、微かに唇を噛み締めていた。
(勝てた。でも……アイシャさんは、最初から殺し合いの覚悟じゃなかった。もしこれが本当の死闘で、僕の投擲が読まれていたら……僕は、次の手を持っていなかった)
バフの重ね掛けによる圧倒的な速度と威力。それに頼り切った、いわば『一発勝負』の戦術。それが通じなかった時、自分はどうすればいいのか。魔法を持たない自分は、純粋な物理戦闘の技術を、さらに上の次元へと引き上げなければならない。
ベルの瞳の奥に宿る、強さへの底なしの渇望。
それを見逃すような男は、この広場にはいなかった。
「…………」
芝生の上に座っていたマヤが、不意に立ち上がった。
そして、焚き火の薪として置かれていた中から、程よい長さの『細い木の枝』を無造作に拾い上げた。
ヒュッ、と。
背後に控えていたフィン、ガレス、リヴェリアの三幹部が、一斉に息を呑み、顔面を蒼白にさせた。
「ま、マヤ殿……?」
フィンが震える声で呟く。
彼らは知っている。マヤが『木の枝』を手にするという意味。それは、彼が本気で、しかし相手を絶対に殺さないように無意識の闘気を抑え込むための『拘束具(リミッター)』を付けたということだ。
「マヤ……ええの?」
ロキが、少しだけ驚いたようにマヤを見上げる。
これまでの二十八年間、マヤがロキ・ファミリア以外の者に、自ら進んで稽古をつけたことなど一度もなかったからだ。
「……よし」
マヤは木の枝を軽く振り、風を切る心地よい音を鳴らした。
そして、真っ直ぐにベルを見据える。
「ベル。少しだけ、俺が相手をしてやる」
その宣言が響き渡った瞬間。
広場の入り口から、わらわらと足音が近づいてきた。
「マヤが、他の人に稽古……!?」
「マヤ様の稽古ですと!? リリも拝見します!」
「うおおお! 旦那の戦闘だ!」
アイズ、リリ、ティオネ、ティオナ、レフィーヤといった少女組が、噂を聞きつけて目を輝かせながら集まってくる。
さらに、離れた木陰には、黒いベールで顔を隠したアルフィアの姿もあった。彼女もまた、マヤが『部外者』であるはずの甥に、初めて直接の指導を行う瞬間を見届けるために足を運んだのだ。
「ぼ、僕の相手を……マヤさんが……っ!?」
ベルの全身が、歓喜と、それ以上の圧倒的なプレッシャーで震え上がる。
アイシャでさえ、マヤが放ち始めた異次元の威圧感に、思わず数歩後ずさった。
「お前たちの連携は完璧だった。だが、白ウサギ……お前個人の戦術には、まだ『次』がある」
マヤは木の枝を片手に、ゆっくりとベルへと歩み寄る。
「死なない程度に、絶望を教えてやる。……三本の武器、全部使ってかかってこい」
夕暮れが迫る黄昏館の秘匿空間。
最強の英雄が振るう『絶望の木の枝』を前に、未完の少年の、極限の暗殺術の扉が今、開かれようとしていた。