ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第60話『英雄の試験と、絶望の木の枝

黄昏館の最奥に位置する、幹部のみが立ち入りを許される広大な秘匿修練場。

外界の喧騒も、神々の監視の目すらも届かない絶対の隔離空間において、ただ風を切る鋭い刃の音だけが連続して響き渡っていた。

 

「ハァァァァァァァッ!!」

 

白髪の少年、ベル・クラネルが、全身の筋肉を軋ませながら神速の踏み込みを見せる。

手にしたショートソードが、標的の関節、腱、喉笛といった人体の急所のみを冷徹に狙い澄まし、不可視の斬撃となって襲い掛かる。隠れ里の怪物たちから骨の髄まで叩き込まれた、純粋かつ極限の暗殺術。

さらに今のベルは、ただでさえ規格外の速度を二重のバフによって常軌を逸した領域へと引き上げていた。

 

右手のショートソードから左手の予備剣へ、そして牽制の投擲を挟んで腰の『ヘスティア・ナイフ』へと、目まぐるしく得物を切り替える【変幻自在】のスキル。武器の持ち替えをトリガーとする爆発的なステイタス補正が、ベルの敏捷と筋力を一時的にLv.5の領域にまで押し上げている。

何よりも、己の人生の指針であり、絶対的な憧憬の対象である『英雄』が、他でもない自分を真っ直ぐに見つめ、立ち塞がっているという事実。

魂の底から沸騰するような高揚感が【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】を極限まで励起させ、ベルの肉体から白い闘気すら立ち昇らせていた。

 

——しかし。

それほどの超絶的な猛攻を繰り出しながら、ベルの刃は、ただの一度も『標的』を捉えることができていなかった。

 

「……っ、あ……ぁっ!」

焦燥と驚愕が、ベルの思考を白く染め上げる。

 

ベルの眼前に立つ赤髪の男、マヤ。

彼は、手にした『細い木の枝』を振るうことすらしていなかった。ただ、そこに立っているだけだ。

ベルの神速の刃が首筋を裂こうとする刹那、マヤの重心が数ミリだけズレる。心臓を貫こうとする切っ先が触れる直前、木の枝がベルの手首に軽く触れ、その軌道をほんの僅かに逸らす。

回避行動と呼ぶことすらおこがましい。ただ呼吸をするように、ただ風に揺れる柳のように、マヤは最小限の身体操作のみで、ベルの全力を『空間の虚無』へと流し去っていた。

 

(当たらない……! 読まれてるんじゃない、僕の攻撃が、最初からそこに存在していないみたいに……!)

ベルは絶望的な格の違いを肌で感じながらも、決して歩みを止めなかった。三本の武器をローテーションさせ、死角を作り出し、必死に英雄の懐へと食らいついていく。

 

その圧倒的なまでの『次元の差』を見つめながら、修練場の端に控えていたロキ・ファミリアの幹部たちは、複雑な表情を浮かべていた。

 

「……羨ましいな」

小人族(パルゥム)の勇者、フィン・ディムナが、ポツリと本音を漏らす。

その瞳には、マヤが握る『木の枝』への根源的な恐怖——かつて自分たちに向けられた、死なない程度に身体を砕かれ続ける地獄のトラウマ——が宿っているものの、同時に、今のベルに向けられている『手加減』への強烈な羨望があった。

 

「全くだ。いきなりボコボコにされず、あんなにじっくりと動きを見てもらえるなんてな」

重傑ガレスが、腕を組みながら深く頷く。

「ワシらの時は、初手からいきなりばしーんとやられたもんだわい、回復させられながら無限に殴られ続けたからのう……。マヤの奴、あの白ウサギには随分と甘いじゃないか」

「やれやれ。彼も、少しは教導というものを覚えたということだろう。……それにしても、あの少年の執念と純物理の極致、見事なものだ」

リヴェリアもまた、呆れたようにため息をつきながら、ベルの動きを正確に弾き続けるマヤの背中を見つめていた。

彼ら三幹部にとって、マヤの『稽古』とは、医療チャクラによる完全回復を前提とした極限の絶望とエクセリア稼ぎである。それゆえに、一切の反撃を行わず、ただ相手の刃を躱して動きを見極めるという今のマヤの姿は、ひどく新鮮であり、そして羨ましくもあったのだ。

 

その感情は、彼らの背後で観戦している少女組も同じだった。

 

「……いいな。ずるい」

剣姫アイズ・ヴァレンシュタインが、自身の愛剣の柄をギュッと握り締めながら、不満げに頬を膨らませていた。

強さへの底なしの渇望を持つ彼女にとって、マヤとの時間は何よりも得難い至福である。自分以外の誰かが、あの英雄の視線を独占しているという事実が、彼女の心をチクチクと刺激していた。

「……あとで、私もやってもらお。マヤの、ざっこ♡」

誰に聞こえるでもない小さな声で、彼女は己の弱さを隠すための照れ隠しと、マヤへの甘えが入り混じった呪文を唱える。

 

「アイズ様ばかりに独占させませんよ! リリだって、槍が少し上手くなったんですから……!」

アイズの横で、小人族の少女リリルカ・アーデが、己の身の丈を超える長槍を抱きしめながら、熱を帯びた瞳でマヤを凝視していた。

(マヤ様……見ててくれますよね? リリも、あんな風にマヤ様に手解きを受けたいです……!)

英雄の隣に立つためにフィアナの系譜を継ぐ武器を手にした彼女もまた、マヤの視線を切望してやまない。

 

さらにその後方では、アマゾネスの双子、ティオネとティオナが、極限の雄(アルファ)が放つ暴力的なまでのフェロモンにあてられ、闘争本能とメスの本能を剥き出しにして目をギラギラと輝かせていた。

 

そんな熱狂と羨望が入り混じる観客たちから少し離れた木陰。

黒いベールで顔を隠したアルフィアは、胸の前で両手を組み、ただ静かに、祈るようにその光景を見つめていた。

 

(……よかった。ザルドやマキシムの時のようには、ならないのね)

 

アルフィアの脳裏に焼き付いているのは、約20年前の平原の悪夢。

黒龍という死地へ向かおうとしたゼウスとヘラの最大戦力が、マヤというたった一人の修羅によって、徹底的に、それこそ精神の根幹からへし折られるまで蹂躙されたあの光景。女たちを死地へ送るという選択をした者たちへ向けられた、マヤのどす黒い怒りと圧倒的な暴力。

もしマヤが、ベルの中にかつてのゼウスやヘラの幻影を見て、あの時のように『絶望』を叩き込むつもりだとしたら。その不安が、アルフィアをこの場へ走らせていた。

だが、目の前で繰り広げられているのは、明らかな『試験』であった。

マヤはベルを蹂躙する敵としてではなく、己の技術をぶつけてくる一人の戦士(男)として、正面から受け止めている。その事実に、アルフィアは深く、深く安堵の息を吐き出した。

 

——戦場の中央。

ベルの肺が、限界を告げるように悲鳴を上げた。

 

「ハァッ……ハァッ……!」

絶え間ない連撃と、極度の緊張。そして何より、どれだけバフを重ねても『絶対に届かない』という不可視の壁が、ベルの精神と体力をゴリゴリと削り取っていく。

右手のショートソードを振り抜いた直後。

ほんのコンマ一秒。ベルは疲労から来る酸素欠乏を補うため、無意識に後ろへ半歩下がり、距離を取って息を吸い込もうとした。

 

(あ——)

 

それが、致命的な隙(死)だった。

 

ベルが距離を取ろうとした瞬間、先ほどまで全く攻撃の意思を見せていなかったマヤの姿が、ふき消されたように視界から消失した。

「——っ!?」

ベルの動体視力が、マヤの動きを全く捉えきれない。

気づいた時には、マヤはすでにベルの絶対的な死角——懐の奥深くへと入り込んでいた。

 

「距離の取り方が甘い。戦場で安易に息を継ぐな」

 

鼓膜を直接震わせるような、低く冷たい声。

マヤの右手に握られた『細い木の枝』が、ベルの腹部に向かって、音もなく、しかし神速の鋭さで突き出された。

マヤの信条である、蹴りなどの直接的な物理攻撃(己の肉体を使った暴力)は一切ない。ただ、リミッターである脆い木の枝による、純粋な『一突き』。

 

トスッ、と。

服の上から木の枝の先端が触れた、ただそれだけの軽い感触。

 

——直後。

「ガ、あ…………っ!?」

 

ベルの全身の神経系が、爆発した。

木の枝を媒介として、マヤの練り上げられた『浸透系のチャクラ』が、ベルの体内に容赦なく流し込まれたのだ。

内臓を直接握り潰され、全身の神経を無数の針で貫かれるような、言語を絶する激痛と麻痺。物理的な傷は一切ないにも関わらず、ベルの肉体は完全に制御を失い、白目を剥いてその場に崩れ落ちそうになる。

 

(し、死ぬ……っ!?)

声すら出せず、激痛に思考が焼き切れる。

 

だが、ベルの膝が石畳に触れるよりも早く。

「起きろ」

マヤは握っていた木の枝を反転させ、崩れ落ちるベルの顎を下から上へと、跳ね上げるように軽く突き上げた。

 

カァンッ!

 

その打撃と同時に、今度は淡い緑色に輝く『医療チャクラ』が、木の枝を通じてベルの脳天へと一気に流し込まれる。

先ほどまでの神経を焼き切るような激痛と麻痺が、文字通り『一瞬』にして嘘のように消え去った。細胞の隅々までが強制的に修復され、肉体的なダメージは完全にゼロへとリセットされる。

 

しかし、物理的なダメージが消えても、極限の激痛から一転して完全回復させられたという『脳の錯覚』と、顎を打ち上げられたことによる脳震盪の余波が、ベルの意識を刈り取った。

 

「あ……」

ベルの身体が、糸の切れた操り人形のように後方へと倒れ込み、石畳の上にドサリと横たわった。

完全な気絶。

交戦開始から数分。しかし、マヤが『反撃』に転じてからは、わずか数秒の出来事であった。

 

「この痛みを、覚えておけ」

倒れ伏す白髪の少年を見下ろし、マヤは手にした木の枝を放り捨てた。

「今ので、お前は本来なら死んでいる。何故なら、戦場で動けなくなったからだ。……だが、よく食らいついた。悪くない刃だったぞ」

 

それは、かつて「息子のようだ」と突き放した少年を、一人の独立した戦士として、男として認めた、英雄からの不器用な労いの言葉であった。

 

「…………え?」

 

その光景を、少し離れた場所から観戦していたヘスティア陣営の面々は、文字通り言葉を失い、石像のように固まっていた。

 

「……ロ、ロキ……」

ヘスティアの顔から、すべての血の気が失せている。

彼女は震える指で、広場の中央に立つ赤髪の男を指差した。

「な、なんだい、あれは……!? 僕は、マヤくんがただ者じゃないのは分かっていたけど……今のは魔法じゃない! スキルでもない! 何の詠唱もなく、武器が触れただけでベル君が倒れて、しかも傷一つないなんて……あれは、一体なんだい!?」

神であるヘスティアの眼をもってしても、マヤの放ったチャクラという概念の理屈が全く理解できなかったのだ。それは、この世界の法則(システム)から完全に逸脱した、未知の力。

 

パニックに陥るヘスティアに対し、ロキはマヤが用意した極上のキャンプチェアに深く腰掛けたまま、余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。

 

「まー、誤解させたい奴はしたらええねん」

ロキは手に持ったワイングラスを軽く揺らしながら、誇らしげに目を細めた。

「なんとなく感づいとる賢い神もおる。街中では『ヒモ旦那』言うて、有象無象の連中がみんなマヤを小馬鹿にしとるが……それでええねん。むしろ、それが正解なんや」

 

ロキの赤い瞳が、ヘスティアを真っ直ぐに射抜く。

「あんな理不尽でデタラメな強さを持った男がおるってバレたら、オラリオ中の連中はどう思う? みんな、恐怖に怯えるやろ。マヤはな、他人の負の感情……『恐怖』や『絶望』を何よりも嫌うんや。それを向けられるくらいなら、道化を演じて笑われとる方が、あいつはよっぽど落ち着くんや」

 

ロキの視線の先では、気絶したベルの横にしゃがみ込み、「やりすぎたか?」と頭を掻いているマヤの姿があった。

「ウチの旦那はな、心も器も、この世界の誰よりもデカい。自分の名誉や覇権なんかより、女が、みんなが笑って生きていけることを心から願っとる。……ウチは、そんな不器用で最強の男やから、心の底から愛しとるんや」

正妻としての絶対的な誇りと、果てしない愛情。

そのロキの言葉に、ヘスティアは押し黙るしかなかった。

 

「ただの、ヒモじゃ……ないのかよ……」

ヴェルフが大剣を取り落としそうになるのを必死に堪えながら、冷や汗を拭う。

「あんなバケモン、俺のクロッゾの魔剣が何本あっても勝てる気がしねぇ……」

「ベル殿が、手も足も出ずに……これが、ロキ・ファミリアの真の絶頂……」

命もまた、極東の武人としての本能が、マヤという存在の底知れなさに警鐘を鳴らし続けていた。

 

そんな中、アイシャだけは少し離れた場所で腕を組み、熱い吐息を漏らしていた。

(……なんて、なんて男だい。あのイシュタル様を手玉に取り、そしてこの理不尽なまでの武。……あんなのを見せられちゃあ、女の底が疼いちまうじゃないか……っ)

アマゾネスの本能が、絶対的な雄(アルファ)に屈服し、彼に抱かれたいと強烈に訴えかけている。アイシャは股の奥の熱を誤魔化すように、太ももを強く擦り合わせた。

 

圧倒的な武力と、それを隠し通すだけの器。

ヘスティア陣営がその真実に打ち震えていると、不意に、彼らの前に一人の小柄な影が立ち塞がった。

 

「——最後に、皆さんに言っておくことがあります」

 

ロキ・ファミリア団長、フィン・ディムナ。

彼は普段の温和な笑みを完全に消し去り、氷のように冷徹な『勇者』の顔で、ヘスティアたちを見据えていた。

 

「今の光景を含め、マヤ殿の真の力は、ロキ・ファミリアの最高機密です」

フィンの声には、一切の感情が混じっていない。ただの事実としての宣告。

「マヤ殿が何故いつもおちゃらけて、ヒモだなんて泥を被っているか、お分かりいただけましたね? もし彼が本気になれば、オラリオの勢力など全く関係なく、この都市のすべてを一人で支配できてしまう。……でも、彼はそれを望まない。誰も泣かない、笑顔の街にしたい。それが、ロキの旦那であるマヤ殿の、ひいては我らロキ・ファミリアの総意です」

 

フィンはそこで言葉を区切り、ヘスティアと、その後ろにいるヴェルフやアイシャたちを順に見回した。

その瞳の奥に、都市最大派閥の長としての、底冷えするような殺気が一瞬だけ閃く。

 

「ですので、今日のことは、どうかご自身の胸の内にだけ留め、絶対にバラさないでください」

風が止み、広場の空気が凍結した。

「——もしこの秘密が漏れ、彼が守ろうとしている均衡が破れるようなことがあれば。……その時は、あなた方はすでに自分のお墓に入っていると思ってください」

 

神であるヘスティアですら背筋を凍らせるほどの、絶対的強者からの最後通牒。

英雄の底知れぬ深淵と、それを守り抜くファミリアの狂気的なまでの結束。

未完の少年が新たな扉を開いたその日、黄昏館の秘匿空間には、決して外界に漏らしてはならない『オラリオ最大の禁忌』が、静かに、しかし確かな重力を持って刻み込まれたのであった。

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