冷たい石畳の感触と、脳髄を揺らすような奇妙な浮遊感。
ベル・クラネルがゆっくりと目を開けると、そこには茜色から深い群青へと変わりゆくオラリオの空があった。
「……あ、れ……? 僕……」
「お、気がついたか白ウサギ。派手に吹っ飛んでたぜ」
ベルが上体を起こすと、パチパチと爆ぜる小気味良い音と、鼻腔をくすぐる暴力的なまでに香ばしい脂の匂いが漂ってきた。
視線を向ければ、先ほどまで自分たちが極限の死闘と絶望を味わっていたはずの黄昏館の秘匿修練場は、いつの間にか巨大で優雅な『キャンプ場』へと様変わりしていた。
柔らかな光を放つ魔石のランタンがいくつも灯され、最高級のアンティーク家具にも引けを取らないアウトドアチェアが並べられている。そしてその中央には、巨大な特注の鉄板が据え置かれ、分厚い霜降りの肉が盛大な音を立てて焼かれていた。
「せっかくだ。お前たちの見事な戦いへの労いと、そこの狐の嬢ちゃんの歓迎会を兼ねて、今日はここで肉を食うぞ」
アウトドアチェアに深く腰掛けたマヤが、片手にジョッキを持ちながらニカッと笑う。彼の膝の上には、当たり前のように主神ロキが座り込み、マヤの首に腕を回して機嫌よく頬を擦り寄せていた。
「ささ、ベル殿。お目覚めになられたのなら、早くこちらへ! 途轍もなく美味な肉が焼けておりますぞ!」
「お、おい命、あんまりがっつくなよ。……と言いつつ、俺もこんな美味い肉は初めて食うがな。すげぇぜ、ロキ・ファミリアの資金力ってのは」
すでに鉄板の前に陣取っていた命とヴェルフが、両手に串や皿を持ってベルを手招きしている。その後ろでは、マヤによって保護された狐人の少女・春姫が、命のそばで安心しきったように、ふくふくと湯気を立てる肉を小さな口で頬張っていた。その目には、もう歓楽街で浮かべていたような絶望の影はなく、ただ温かい居場所に辿り着けたことへの安堵の涙が光っている。
「ほれベル君! 君も早く食べなよ! すっごく美味しいんだから!」
ヘスティアまでもが、すっかりこのアットホームな空気に馴染み、両手で肉の塊を持ちながら満面の笑みを浮かべていた。
「あ、ありがとうございます……っ!」
ベルは慌てて立ち上がり、仲間たちの元へと駆け寄ろうとした。
だが、その時。ふわりと、石畳を滑るような一切の無駄がない歩法で、一人のメイドがベルの前に進み出た。
「お目覚めになられましたか、ベル・クラネル様。さあ、こちらへ。ちょうど一番良い部位が焼き上がったところでございます」
黒のロングスカートに真っ白なエプロン、片目にモノクルを付けた美しい女性。ロキ・ファミリアのメイド長であるヴァレッタだ。
彼女は流れるような優美な手つきで、鉄板の上で完璧な焼き色をつけた肉をナイフで切り分け、ベルの皿へと盛り付けた。
「マヤ様、お肉の焼き加減はいかがでしょうか? 不足があれば、すぐに新しいものを手配いたしますが」
「ん、完璧だ。いつもすまんな、ヴァレッタ」
「もったいないお言葉……っ! このヴァレッタ、マヤ様にお仕えできることこそが無上の喜びにございます!」
マヤからの労いの言葉に、ヴァレッタは頬を紅潮させ、両手で顔を覆いながら身悶えしている。
その狂信的とも言える奉仕の姿に、ヴェルフと命は内心で冷や汗を流していた。(あれが、かつてオラリオを恐怖に陥れた闇派閥の幹部だなんて、絶対に嘘だろ……)と。だが、これもまたマヤという規格外の存在が、圧倒的な器と理詰めで彼女の運命を捻じ曲げ、救済した結果の平穏であった。
少し離れた芝生の広場からは、「おいラウル、焦げてるぞ!」「ご、ごめんアキ! 俺が食べるから!」といった、ラウルやアナキティたちサブ団員たちの和やかな笑い声が夜風に乗って響いてくる。
オラリオの頂点に君臨する最大派閥の本拠地。その最も奥深くにあるのは、血なまぐさい闘争の空気などではなく、ただただ温かく騒がしい『家族の食卓』であった。
ベルは皿に盛られた肉を一口噛み締め、そのあまりの美味さに目を丸くした。だが、彼の心の中には、肉の味よりもさらに強烈な感情が渦巻いていた。
(マヤさん……!)
先ほどの、ほんの一瞬の交錯。自分の全力の猛攻がまるで赤子の遊びのようにあしらわれ、蹴りや殴打すらなく、ただ脆い『木の枝』の一突きで意識を刈り取られたあの絶望。
だが、そこには確かな『導き』があった。マヤは自分を壊そうとしたのではない。戦場における致命的な隙を、己の身をもって教えてくれたのだ。
ベルは皿を持ったまま、マヤのいる大人のテーブルへと歩み寄ろうとした。
圧倒的な教えへの感謝と、どうすればあの神速の死角を突けるのかという質問をぶつけたくて、身体中がウズウズしていた。
「——だーめ」
だが、ベルの行く手を遮るように、金色の髪を揺らした少女がふわりと立ち塞がった。
剣姫、アイズ・ヴァレンシュタイン。
彼女は普段の能面のような無表情をわずかに崩し、ベルを見下ろしながら、ほんのりと頬を染めて意地悪な笑みを浮かべた。
「マヤは今、お肉を楽しんでるの。邪魔しちゃだめ。……ざっこ♡ お肉、食べる?」
「あ、アイズさん!? いや、その、僕はただマヤさんに一言お礼を——」
「アイズ様ばかりずるいです! ベル殿、リリのファミリアのお肉は美味しいですか!? マヤ様が選んでくださった最高級品なんですよ!」
ベルがたじろぐ間もなく、身の丈ほどの長槍を背負った小人族の少女、リリルカ・アーデが小走りで割り込んでくる。彼女もまた、マヤに命を救われ、彼に心酔してロキ・ファミリアに身を置く少女の一人だ。先輩風を吹かせるアイズに対抗するように、リリは得意げに胸を張ってベルに迫る。
「ちょっとちょっと、アタシたちも混ぜなさいよ!」
「白ウサギ君、あんた動きは速かったけど、やっぱ線が細いねー! もっと肉食って筋肉つけなきゃ、マヤみたいなイイ男にはなれないよ!」
さらにそこへ、アマゾネスの双子であるティオネとティオナが豪快に笑いながら乱入してきた。
「わわっ、ちょっと皆さん、押さないで……っ!」
同年代の、しかもオラリオの第一級冒険者である少女たちに囲まれ、ワイワイと弄り倒されるベル。隠れ里で育ち、同世代の女の子との免疫が極端に少ない彼にとって、この距離感は別の意味で死闘に等しかった。
「がはははっ! 若い衆は元気があってよろしい!」
そこへ、巨大なジョッキにエールを並々と思いついだガレスが、地響きを立てるような足取りで近づいてきた。
「客人をもてなすのも、ワシら幹部の役目じゃ! ほれ白ウサギ君、それにそっちの鍛冶師と極東の娘も! 肉を食いながら、少しばかり腹ごなしの組手といくぞ!」
「はぁ!? あんたLv.8目前の重傑だろ! 腹ごなしで死人が出るわ!」
「ヴェ、ヴェルフ殿! 逃げては武人の恥! 私はやりますぞ……っ!」
ガレスの理不尽すぎる提案に、ヴェルフが悲鳴を上げ、命が太刀を構えて吶喊する。
「甘いわァッ! もっと腰を落とさんか!」
ガレスの豪快な丸太のような腕が振り回され、命の太刀が弾き飛ばされ、巻き添えを食ったヴェルフが芝生の上を転がっていく。ベルもまた、少女たちに肉を押し付けられながら、ガレスの圧倒的なプレッシャーから逃げ回る羽目になった。
「あははっ、もう、無茶苦茶だよぉ……!」
ヘトヘトになりながらも、ベルの顔には自然と笑みがこぼれていた。
ロキ・ファミリアの底知れぬ体力と、天井知らずの日常のテンション。圧倒的な強者たちでありながら、彼らの間には一切の壁がなく、ただ互いを信じ、笑い合う『温かな家族』の空気が満ちていた。
その光景を眺めながら、春姫もまた、嬉しそうに尻尾を揺らしている。
一方、彼らの喧騒から少しだけ離れた、キャンプチェアが並ぶ大人のテーブル。
マヤは相変わらずロキを膝の上に乗せたまま、フィンやリヴェリアたちと共に静かに酒を傾けていた。その輪の中には、ヘスティアと、黒いベールで顔を隠し素性を隠しているアルフィアも同席している。
「ふぅ……」
ヘスティアは、ジョッキの果実水を飲み干すと、大きく息を吐き出した。
先ほど、フィンからヘスティア陣営へ向けられた『底冷えするような警告』。マヤの力を外部に漏らせば、即座に命はないという絶対的な死の宣告。その恐怖の余韻を確かに引きずっていたヘスティアだったが、目の前で繰り広げられるあまりにもフランクでアットホームな宴会の空気に、いつの間にか強張っていた肩の力が抜けていたのだ。
(本当に、不思議なファミリアだね。最強の集団なのに、少しも冷たいところがない……マヤくんが、みんなを笑顔にしているんだ)
ヘスティアは、串に刺さった分厚い肉を豪快に噛みちぎっているマヤへと視線を向けた。
「それにしても、マヤくん」
「ん? なんだ、ヘスティア」
「なんであんな急に、ベル君の相手をしようと思ったんだい? 君がロキ・ファミリア以外の子に自ら稽古をつけるなんて、聞いたことがなかったからさ。……ベル君のこと、気にかけてくれてたのかい?」
ヘスティアの問いに、フィンやリヴェリアも密かに耳を傾けた。彼らもまた、マヤが部外者であるベルに対して『絶望の木の枝』を手にした理由を、正確には測りかねていたのだ。
マヤは口の中の肉をじっくりと咀嚼し、ゴクンと飲み込むと、悪びれもせずにサラッと言ってのけた。
「うーん……ま、一回くらい、相手してやってもいいかな? って思ってな」
「…………は?」
ヘスティアが目を瞬かせる。
「いや、なんつーか、その時のノリ? アイシャとやり合ってるの見てたら、ちょっと体が疼いたというか。たまには若えのの壁になってやるのも一興かなーってな」
マヤがケラケラと底抜けに明るい声で笑う。
数秒の沈黙の後。
マヤの膝の上に座っていたロキが、呆れたようにジト目を向けた。
「……じぶん、ほんまそういうとこやで」
ロキはマヤの頬を両手でむにっと挟み込みながら、深くため息をついた。
「フィンやガレスたちがどんだけビビり散らしてたと思っとんねん。あの白ウサギかて、本気で死を覚悟した顔しとったんやぞ。……あんだけ周りを震え上がらせといて、理由が『その時のノリで一回くらい』かいな。アホやろ」
「そ、その軽い『一回』のせいでッ!!」
ヘスティアが青ざめ、テーブルからバンッと身を乗り出した。
「僕はベル君が天界へ送還される寸前だったんだよ!? あのまま死んじゃうんじゃないかって、寿命が縮む思いだったんだからね! ばかマヤくん!!」
「ハハハ! わりぃわりぃ。でも、ちゃんと死なないように調整したさ。かすり傷一つ残してないだろ?」
マヤはヘスティアの抗議を笑って受け流し、手元のジョッキを傾けた。
フィンとリヴェリアが、「あの絶望をノリでやられたらたまったものではないな……」と顔を見合わせて苦笑している。
だが。
その何気ない気まぐれのように見せた言葉の中に、ベルを戦士として認めた『不器用な親心』が含まれていることを、ロキと、ベール越しのアルフィアだけは静かに察していた。
(素直じゃないわね。……あの子に、生き残るための術を叩き込みたかったくせに)
アルフィアはカップの紅茶を啜りながら、ベールの下で微かに微笑んだ。
マヤは、ゼウスとヘラを隠れ里へ追いやったことで、ベルの人生を大きく変えてしまったという深い負い目を抱えている。だからこそ、直接手取り足取り教えるような甘やかしはせず、あえて『理不尽な絶望』という形で、戦場の現実を教え込んだのだ。
「まー、本音はよ」
マヤが、ふと笑い声を収め、芝生の広場でガレスから逃げ回っているベルの背中を見つめた。
その深紅の瞳には、かつて幾多のマルチバースを渡り歩き、数え切れないほどの悲劇を打ち砕いてきた修羅としての、静かで重い光が宿っていた。
「あいつはこれから、色々なもんを背負い込む。あの純粋すぎる魂とバフの力……そのうちどんどん力をつけて、周りからも期待されるようになるだろうさ。だが、油断したらどうする?」
マヤの低い声に、テーブルの空気が引き締まる。
「確かに、今のあいつのファミリアは小規模で、目も行き届いてる。だが、いずれ名が売れて組織が大きくなれば、自分一人ではどうしようもなくなることも必ず出てくる。……その時に、『一発勝負の速度と威力』だけに頼るような戦い方をしてたら、いつか必ず致命的な死角を突かれて死ぬ」
マヤはかつて、黒龍という死地へ無謀にも挑もうとした英雄たちの姿を思い出していた。情報も足らず、ただ自分たちの個の力を過信して死地へ赴こうとした者たち。彼らを力尽くで止めたあの日のように、マヤはベルに『己の弱さ』を叩き込む必要があったのだ。
「一回、本当の理不尽を味わえば、慢心がなくなる。自分は無敵じゃないと骨の髄まで理解できる。……高みは、まだまだ高ぇぞってな」
マヤはそこで言葉を切り、ロキの赤い髪を優しく撫でた。
「あいつが昔、アルフィアと一緒にここへ来て、『ロキ・ファミリアに入れてください』って真っ直ぐな目で言ってきたのを思い出してな。……あの時のガキが、いっちょ前に牙を剥いてきやがった。なら、男として、壁になってやるのが筋ってもんだろ」
マヤの言葉に、ヘスティアは大きく目を見開き、やがて優しく微笑んだ。
「……ありがとう、マヤくん。ベル君は、本当に良い目標(ヒーロー)を持ったよ」
「勘違いすんな。俺はヒーローじゃねぇ、ただのヒモだ」
マヤは照れ隠しのように鼻で笑うと、「おーいベル! 肉が焦げるぞ! ガレスのオッサンなんか放っといて食え!」と、広場へ向かって大きな声を張り上げた。
「ああっ、マヤさん! 今行きます! ガレスさん、タイム! タイムですってばぁ!」
「逃がさんぞ白ウサギィ!」
「アイズさんも、横からちょっかい出さないでくださいよぉ!」
若者たちの賑やかな声が、黄昏館の夜空に吸い込まれていく。
オラリオの頂点に立つファミリアの威圧感など、そこには微塵もない。
ただ、互いを思いやり、笑顔を守り抜くために最強であり続ける家族の、温かく、騒がしい夜が更けていく。
最強の鬼が自ら泥を被り、道化を演じてでも守りたかった平穏な世界。
その中心で、マヤは愛する妻の温もりを感じながら、満ち足りたように杯を干したのだった。