ダンジョンに鬼がいたらそうなる件   作:マイナーチョコ

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第62話『アイギスの盾』

迷宮都市オラリオの片隅に構えられた、ヘルメス・ファミリアの本拠地。

その一室で、万能者(アスフィ)の二つ名を持つ少女、アスフィ・アル・アンドロメダは、机の上に積み上げられた羊皮紙の山と、錬金釜から立ち昇る怪しげな煙に囲まれながら、深い深いため息を吐き出していた。

 

「……終わらない。どう計算しても、人間の持ち時間を超えているわ……」

 

目の下に濃いクマを作ったアスフィは、羽ペンを握る右手をさすりながら、虚ろな目で天井を仰いだ。

彼女が背負っている負担は、常軌を逸している。元々ヘルメス・ファミリアの団長を務めていたリディスという男がいたのだが、彼はファミリアの実務と主神ヘルメスの無茶振りに耐えきれず、過労で限界を迎え、前線を退いて後衛の育成係へと逃げ込んでしまった。

その結果、実務能力が飛び抜けて高く、さらには希少な魔道具(マジックアイテム)の作成までこなせるアスフィが、無理やり団長へと繰り上げられてしまったのだ。

 

『あ、ごめんねアスフィ! この魔道具の改良、明日までに頼めるかな? あと、ギルドへの報告書と、市場のポーション買い付けもよろしく! 僕? 僕はちょっと、面白そうな情報を見つけたから歓楽街に……』

 

主神であるヘルメスの軽薄な笑顔と無責任な言葉を思い出し、アスフィはギリッと奥歯を噛み締めた。

ブラック・ゴライアスの召喚による騒動。そして先日の、歓楽街におけるイシュタルとの裏工作。ヘルメスはオラリオの均衡を保つためと称して常に裏で暗躍しているが、その実働と尻拭いをさせられるのは、いつだって団長であるアスフィなのだ。

 

「あの馬鹿神……いつか絶対に、私の手で天界に送還してやる……」

物騒な独り言を呟きながら、アスフィが再び羊皮紙へ向かおうとした、その時だった。

 

「——お疲れのようですね、万能者(アスフィ)様」

 

「っ!?」

窓も扉も閉まっているはずの執務室の中に、唐突に、極めて滑らかで静かな声が響いた。

アスフィは心臓を跳ね上がらせ、反射的に腰の短剣に手を掛けながら立ち上がる。

大通りに面した部屋ではない。ファミリアの団員たちも多数駐在している拠点の中枢に、誰にも気付かれず、足音一つ立てずに侵入した者がいる。

 

「……何者ですか」

鋭い視線を向けた先。部屋の影から音もなく歩み出てきたのは、黒のロングスカートに真っ白なエプロン、片目にモノクルを付けた優美な女性だった。

姿勢を正し、完璧なメイドの作法で一礼するその姿に、アスフィの瞳孔が収縮する。

 

「ロキ・ファミリアの……ヴァレッタ」

「お見知り置きいただき、光栄に存じます。本日は、我が主からの伝言をお届けに参りました」

 

かつてオラリオを恐怖の底に陥れた絶対悪が、なぜロキ・ファミリアのメイドに身をやつしているのか。その経緯を知る者は少ない。だが、目の前に立つヴァレッタから放たれる気配は、かつての狂気ではなく、ただ一人の主へ絶対の忠誠を誓う狂信のそれであった。

 

「……伝言、ですか。最大派閥からの要件なら、正規のルートでギルドを通すか、団長であるブレイバーから直接……」

「主の命により、極秘裏に動いております。ヘルメス神には、決して悟られぬよう」

ヴァレッタのモノクルの奥の瞳が、冷たく光る。

「我が主が、黄昏館にてあなたをお待ちです。どうか、ご足労願えますでしょうか」

 

アスフィの背筋に、冷たい汗が流れた。

極秘の呼び出し。ヘルメスには内緒。そして、呼び出したのはフィン・ディムナではなく、『ヴァレッタの主』——つまり、あのロキ・ファミリアを裏で牛耳り、先日イシュタルを言葉だけで屈服させたという、得体の知れない赤髪の男だ。

(……バレたの? ゴライアスの件か、それとも歓楽街の件で、あのヒモ旦那と呼ばれる男の逆鱗に触れた? ヘルメス様のやらかしの落とし前を、私がつけらされるの……?)

 

胃の腑がキリキリと痛み出す。だが、断るという選択肢は存在しなかった。ここで逃げれば、ヘルメス・ファミリアそのものが、明日の朝にはオラリオの地図から物理的に消滅しているかもしれない。

「……分かりました。すぐに向かいます」

アスフィは重い足取りで、ヴァレッタの後に続いた。

 

***

 

ロキ・ファミリアの本拠地、黄昏館。

迷宮都市の頂点に君臨するその巨大な館の最奥、幹部のみが立ち入りを許される秘匿された中庭へと、アスフィは案内された。

 

処刑を待つ罪人のような心境で足を踏み入れた彼女だったが、そこで待ち受けていた光景は、彼女の予想を根本から裏切る、あまりにもシュールなものだった。

 

「お、来たな。待ってたぜ」

広場の中央。最高級のキャンプチェアに深く腰掛けた赤髪の男、マヤが、片手を挙げて気さくに笑いかけてきた。

そして、オラリオ最大派閥の主神であるはずのロキが、あろうことかマヤの膝の上にちょこんと座り込み、マヤの首に腕を回して「んふふ〜」と頬を擦り寄せている。

その後方には、団長であるフィン・ディムナ、重傑ガレス・ランドロック、九魔姫リヴェリア・リヨス・アールヴの三幹部が、まるでそれが日常の風景であるかのように静かに控えていた。

 

「えっと……」

アスフィは、張り詰めていた緊張の糸が変な方向へ弾けそうになるのを必死に堪えた。

「ヘルメス・ファミリア団長、アスフィ・アル・アンドロメダです。……お呼びと伺い、参上いたしました」

「そう硬くなるなよ。俺はマヤ。こっちは……ま、見りゃ分かるか、ウチの主神のロキだ。ヴァレッタ、お茶を出してやってくれ」

「畏まりました、マヤ様」

 

ヴァレッタが流れるような動作でティーカップを用意し、アスフィの前の小さなテーブルに置く。紅茶の豊かな香りが、アスフィの疲れ切った脳をわずかに解きほぐした。

 

「さて、と」

マヤはロキの赤い髪を撫でながら、真っ直ぐにアスフィを見据えた。

その深紅の瞳には、神であるヘルメスすらも震え上がらせた絶対的な威圧感は鳴りを潜め、代わりに、相手の芯の奥底までを見透かすような深く穏やかな光が宿っていた。

 

「お前さんのことは、フィンから聞いてる。色々と苦労してるみたいだな。前の団長が過労か何かで後衛に引っ込んじまって、お前が繰り上がりで団長の重責を背負わされてるって」

「……お見苦しいところを。ファミリアの事情ですので、お気になさらず」

アスフィは平静を装いながら答える。最大派閥の情報網が自分たちの内情を把握していることに驚きはしなかったが、なぜこの男が自分の苦労などに言及するのかが分からなかった。

 

「でだ。お前さん、色々と便利なアイテムを作れると聞いた」

マヤは単刀直入に本題を切り出した。

「うちの連中がダンジョンを攻略するにあたって、少し特殊な防御装備が必要になってな。『アイギスの盾』ってのを作れるか?」

 

「アイギスの盾……」

アスフィは目を瞬かせた。確かに、強固な防御力を持つ魔道具として、彼女の技術であれば作成は可能だ。だが、ロキ・ファミリアほどの組織であれば、専属の鍛冶師や外部のドワーフたちに依頼すれば済む話ではないのか。

 

「作成自体は可能ですが……なぜ、私に?」

「他派閥の団長に個人的な依頼なんて、筋違いだってのは分かってるさ。だが、お前さんの作るアイテムは品質が良いと評判だからな。金はいくらでも出す。作ってくれないか?」

マヤはニカッと笑い、付け加えた。

「ま、俺はただのヒモなんで、金はロキが払うけどな」

 

その言葉に、後ろに控えていたフィンたちが、わずかに目元を引きつらせた。

(またマヤ殿はそうやって自分をヒモだと下げて……。黄昏館の隠し金庫を、フラッと出かけては黒剣などのレアドロップでパンパンに埋め尽くしているのは、どこの誰だと思っているのか……)

幹部たちの無言のツッコミが中庭の空気に漂ったが、彼らは誰一人として口を挟まなかった。それが、彼らの日常の空気感だった。

 

アスフィは、マヤの依頼に戸惑いながらも、深く頭を下げた。

「……ご評価いただき、大変光栄です。ですが、誠に申し訳ありません。お引き受けすることはできません」

「ほう。金が足りねぇか?」

「いえ、そうではありません。単に……時間が、ないのです」

アスフィの口から、隠しきれない疲労の混じったため息が漏れた。

「ヘルメス様の無茶な依頼と、ファミリアの日常業務、後進の育成。……それだけで、私の時間は限界を超えています。ロキ・ファミリア様のご依頼となれば、生半可なものは作れません。ですが、今の私には、それに没頭するだけの余力がないのです。申し訳ありません」

 

オラリオ最大派閥からの直々の依頼を断る。それは、冒険者として致命的な選択になりかねない。だが、アスフィには本当に余裕がなかった。これ以上何かを背負い込めば、彼女の心身は間違いなく崩壊する。

 

アスフィの悲痛な断りの言葉を聞いて、フィンもリヴェリアも、「仕方がない」というように僅かに目を伏せた。彼女の過労ぶりは、誰の目にも明らかだったからだ。

 

しかし。

マヤは、拒絶されたことに対して怒るわけでもなく、ただ不思議そうに首をコトンと傾けた。

 

「ん〜……」

マヤは、ポンと手を打った。

「なら、うち来いよ」

 

「……はい?」

アスフィの思考が停止した。

「あの、今、なんと……?」

 

「だから、うちのファミリアに来いって言ったんだよ」

マヤは、今日一番の明るい声で、とんでもないことを言い放った。

「お前、そのヘルメスってブラック上司の下でボロボロになってんだろ? そんなとこ辞めちまえ。コンバージョン(改宗)のやり方なら、昔ヴァレッタの時に色々と面倒な手続きをやったから知ってるぜ? その線でいこうや」

 

「はぁぁぁぁぁっ!?」

アスフィだけでなく、後ろに控えていた三幹部までもが、一斉に素っ頓狂な声を上げた。

 

「ば、馬鹿を言えマヤ!」

リヴェリアが普段の冷静さを投げ捨てて前に進み出た。

「他派閥の団長を、そう簡単に引き抜けるわけがないだろう! ましてや、相手はあのヘルメスの眷族だ。無理やり引き抜いたとなれば、都市の均衡が崩れかねんぞ!」

「そうですマヤ殿! いくらアスフィ殿の技術が惜しいからといって、無茶苦茶です!」

フィンも慌てて制止に入る。

 

だが、マヤはケロッとした顔で言い返した。

「えー? いいじゃんかよ。この子、あんなバカ神にこき使われて、疲れてんの目に見えてるじゃん」

 

マヤは唇を尖らせ、いじける子供のような口調で続けた。

「俺さぁ、便利なアイテム作れる奴が欲しいんだよ。うちには脳筋ばっかで、そういう繊細なことできる奴がいねぇだろ? だから、この子が欲しい。……『アイテム作れる奴が欲しいって、ヒモがダダこねたから仕方なく引き抜いた』ってことにすれば、角も立たねぇだろ?」

 

あまりにも横暴で、無茶苦茶で、子供じみた理屈。

それをオラリオの最強の男が、大真面目に口にしているのだ。

 

「アホぬかせッ!!」

マヤの膝の上に座っていたロキが、バンッとマヤの胸板を叩いた。

「そんな理由で引き抜いたら、ウチが、アンタの言うことなんでもかんでもホイホイ聞く、アホ神みたいになっとるやんか!」

「なんだよ。俺の頼み、聞いてくれねぇのか?」

マヤが、少しだけ上目遣いで、ロキの顔を下から覗き込んだ。

 

「っ……!」

その瞬間。ロキの顔が、爆発したように真っ赤に染まった。

出会ってから二十八年。マヤはいつだって、ロキたちを守るために自ら泥を被り、誰かのためにしか動かなかった。彼が自分自身の欲求として、「これが欲しい」「この人が欲しい」と、ロキに『おねだり』をしたことなど、ただの一度もなかったのだ。

 

「ま、まー! アンタの頼みなら、なんでも聞くんやけどな!!」

ロキは顔を真っ赤にしながら、マヤの首に激しく抱きついた。

「しゃーないなー! マヤがそこまで言うんやったら、あのバカ神(ヘルメス)シバき倒してでも、この娘ウチで引き取ったるわ! あーもう、マヤがウチにおねだりしてくれた……っ! ほんま、マヤのそういう不器用なとこも、いっぱいちゅき……っ♡」

ロキは完全にデレデレに溶けきり、マヤの頬に何度もキスを落としている。

 

「おいおい、シバくのはやりすぎだろ。円満にな、円満に」

マヤはケラケラと笑いながら、ロキの腰を抱き寄せてイチャつき始めた。

 

そのコントのような、しかし当人たちは大真面目なやり取りを見て、フィンとリヴェリア、そしてガレスは、深い深いため息をつくと同時に、すべてを理解した。

 

(ああ……マヤ殿は。この疲労困憊の少女を、ヘルメスの重圧から『保護する』気なのだな)

 

アイギスの盾など、恐らくどうでもいいのだ。

目の前で、ブラックな環境にすり減らされ、泣き出しそうな顔をしている不遇な女がいる。泣いた赤鬼を救う青鬼であるマヤにとって、それは絶対に見過ごせない『理不尽』だったのだ。

だからこそ、彼は自ら道化を演じ、「便利なアイテム屋が欲しいから」という己の我儘にすり替え、ロキの権力を使って彼女を強引に救い出そうとしている。

 

「……えっと、あの」

アスフィは、目の前で繰り広げられる極上の甘々空間と、自分を巡るあまりにも強引な引き抜き話に、完全に思考が追いついていなかった。

 

「お前さん、名前は?」

不意に、マヤがロキを抱き寄せたまま、アスフィに視線を向けた。

「アスフィ・アル・アンドロメダ、です」

「そうか、アスフィ。いい名前だ」

 

マヤは優しく微笑んだ。

「お前、本当に限界なんだろ。一人で全部背負い込んで、バカな神の尻拭いばっかさせられて。……本当は、もう全部投げ出したいって、そう思ってるんじゃないのか?」

 

「っ……!」

アスフィの胸の奥を、鋭く、しかし温かい矢が射抜いた。

誰も、そんなことを言ってくれたことはなかった。団長だから、万能者だから。出来て当たり前だと言われ、重責を背負わされ続けてきた。

 

「俺はヒモだからよ、難しいことはわからねぇけどな」

マヤは、真っ直ぐにアスフィの瞳を見つめた。

「お前がこれ以上、そのバカ神のところで擦り減る必要はねぇ。お前がその気なら、俺が責任持って、お前をうちの家族にしてやる。……お前の居場所は、俺が作ってやるよ」

 

ドクン、と。

アスフィの心臓が、これまで感じたことのないほど大きな音を立てて跳ねた。

オラリオで最も有名な苦労人。誰かのために自分を犠牲にし続けてきた彼女の心に、この規格外の雄が放つ『理不尽なまでの優しさ』が、強烈な揺らぎを生み出していた。

 

(私を、保護する……? この、最大派閥の、絶対的な強者の腕の中で……?)

 

ヘルメスの顔が脳裏をよぎるが、不思議と、これまでのような重圧は感じなかった。

目の前にいる男の、果てしなく広く、分厚い胸板。彼に寄りかかれば、これまでのすべての苦労から解放されるのではないか。

いや、彼のために、彼のためだけに魔道具を作り、彼から褒められる日々を過ごすことができたら、それはどれほど——。

 

アスフィは、無意識のうちに己の両手を強く握り締めていた。

迷宮都市の裏側で、また一人。

不遇な運命を背負った少女が、最強の青鬼の圧倒的な器に触れ、その運命を大きく変えようとしていた。

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