黄昏館の秘匿された中庭。
最大派閥の幹部たちが見守る中、ヘルメス・ファミリア団長アスフィ・アル・アンドロメダは、ペコリと深く頭を下げた。
「……ご評価いただき、大変光栄です。ですが、誠に申し訳ありません。お引き受けすることはできません」
自派閥の激務と主神の無茶振りに追われる彼女には、新たな魔道具を作る時間など残されていない。たとえそれがオラリオ最強の男からの依頼であろうとも、首を縦に振ることはできなかった。
静寂が落ちる。アスフィが冷や汗を流しながら顔を上げようとした、その時だった。
マヤの後方に控えていた、黒いベールで顔を隠した女性——アルフィアが、音もなくマヤの背後に近づき、その耳元で小さく囁いた。
「——アイギスの盾。本来なら、アストレア・ファミリアに預けられるはずだったゼウスの遺産よ。けれど、私たちが里に退く際、あの軽薄な神が管理すると言って持ち去ったわね」
その囁きを聞いたマヤは、ゆっくりと首を傾けた。
キャンプチェアの背もたれから身を起こし、赤い瞳で真っ直ぐにアスフィを見つめる。
「正直にはなせよ? アスフィ、お前の所に、アイギスの盾はあるだろ? お前はなんでそれがあるかは分かってないと思うがな」
「っ……!」
アスフィの肩がビクリと跳ねた。アイギスの盾の存在は、ファミリアの極秘事項だ。
「……団の秘密ですので、私からはお答えできません」
アスフィは視線を泳がせながら、必死に言葉を絞り出した。
「そうか、団の秘密ねぇ〜」
マヤはポンと膝を叩いた。
「それは仕方ないね。なら、今日はお前、ここに泊まっていけ。決まりな」
「……はい?」
突然の宣告に、アスフィは間抜けな声を漏らした。
「な、何を仰っているのですか。私は帰って仕事を——」
「アイギスの盾の事は言えない。アイギスの盾も作れない。じゃあ、こっちのメンツが立たないわけよ」
マヤは呆れたように息を吐いた。その声にはアスフィを責める響きはなく、ただ別の『誰か』への苛立ちが混じり始めている。
「こっちも、わざわざお前を呼び出した手前、ご足労かけてるのは分かってるさ。でもな、最大派閥が頭を下げて頼んだのに、一日も経たずに足蹴にされたとあっちゃー、ウチのLv.8どもが納得しないわなって話だ」
マヤは顎をさすりながら、言葉を続ける。
「一日かけて説得したっていう大義名分くらい、この派閥にくれてもいいんじゃないか?」
「そ、それは……ですが……」
「これがよ?」
マヤの声が、少しだけ低くなった。
「フレイヤやイシュタルからの呼び出しなら、ヘルメスの野郎は色仕掛けに喜んで飛びついて、すぐになびくんじゃねーの? 義を重んじて最大派閥が頭下げてるわけなのよ。色仕掛けで迫られたら『はいそうですか』って尻尾振るやつの派閥だろ? ……ふざけんなよ? って話だろ」
マヤはアスフィを睨んでいるわけではない。ただ、誠意を軽んじるヘルメスの不義理に対して、呆れと怒りを滲ませていた。
アスフィはその言葉に、返す言葉を見つけられなかった。
マヤの膝の上で聞いていたロキは、(あーあ、ヘルメスやってまってるわ〜)と内心で愉快そうに笑っている。
背後の三幹部たちは、「まずい、マヤ殿が熱くなっている……」と冷や汗を流し、リヴェリアがロキの背中をつついて止めるよう促すが、ロキは動かない。
「まー、マヤの言う通りやで、アスフィ?」
ロキはニヤリと笑ってアスフィを見下ろした。
「ウチらの顔を立てるためにも、今日は泊まっていき」
オラリオ最大の主神にまでそう言われてしまえば、頷くことしかできなかった。
アスフィは力なく首を縦に振り、ヴァレッタの案内によって、自分の寝床とは雲泥の差がある、黄昏館の超豪華な客室へと連れて行かれた。
夜の黄昏館は、静まり返っていた。
女性メンバー組は、ガレスのお目付けのもと、リリの槍の検証も兼ねて恒例のウダイオス討伐へと向かっている。
広間では、マヤ、ロキ、フィン、リヴェリアによる幹部会が開かれていた。
「——他人の遺産をかすめ取った挙句、自派閥の団長に丸投げして過労死寸前までこき使っている、か」
マヤが、腕を組みながら呆れたように呟く。
昼間のやり取りで、ヘルメスのやらかしは完全に確定した。
「そこまで聞いたら、もう遠慮はいらんな!」
ロキがバンッとテーブルを叩き、ノリノリで立ち上がる。
「あのバカ神から、優秀なアイテムメーカーを正々堂々奪い取ったるわ!」
「ああ」
マヤは頷き、フィンへ視線を向ける。
「フィン。下のもんの所へ行き、ギルドへ向かわせろ。誘拐事件にならんように『アスフィが過労で倒れたところをウチが緊急保護した』と根回しをしてこい」
「承知しました」
フィンは即座に動き、広間を後にする。
ヘルメスを社会的に追い詰める包囲網が、音を立てて完成していく。
一方、黄昏館の豪華な客室。
アスフィは、ふかふかの天蓋付きベッドの上に腰掛けたまま、膝を抱えていた。
あまりにも柔らかいシーツ。誰からも急かされない空間。それが逆に、彼女の心をひどく落ち着かなくさせていた。
コン、コン。
控えめなノックの音が部屋に響いた。
「——起きてるか?」
「……はい」
「入ってもいいか?」
「構いません」
扉が開き、マヤが姿を現した。その手には、温かいハーブティーの注がれたカップが二つ乗ったお盆が握られている。
「眠れねぇか? ま、急にこんなとこ連れてこられたらな」
マヤはベッドの傍らにあるアンティークの椅子に腰を掛けると、カップの一つをアスフィへ差し出した。
「少し話をしよう。俺は、お前の事を何も知らない。会ったのも今日が初めてだ。……でもな」
マヤはふうっと息を吐き、少しだけバツが悪そうに笑った。
「あー、失礼。俺はマヤって呼んでくれ。お前のこと、アスフィって呼んでもいいかな? 自己紹介がまだだったな。すまんな、昼間はかなり『依頼主と業者』って感じだったから。ここからは、名前でどうだ?」
昼間の威圧感が嘘のような、気さくで優しい気遣い。
アスフィは瞬きを繰り返し、小さく頷いた。
「……はい。構いません」
「話の続きだ」
マヤはハーブティーを一口飲み、まっすぐにアスフィを見た。
「今日初めて会った俺から見ても、アスフィ、お前の疲れ方は異常だぞ? まだ二十代前半だろ? ある意味狂気じみてるぞ。何が、アスフィをそんなにしてるんだい?」
アスフィの肩が、ビクリと震えた。
「何か言えない事でも、ここでなら言っていいさ。オラリオで一番安全な場所だ。……あ、俺がいるから、男としては危険かな? なんてな。ロキに怒られてしまうな」
マヤがケラケラと笑う。
「何か深い事情があるんだろ? 話してみな。……そこまで、お前がヘルメスに尽くす動機ってやつをさ」
マヤの温かい声に促され。
アスフィは、カップを両手で包み込むように握り締めながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
海国ディザーラの王女として生まれたこと。無能な母に国の道具にされそうになった時、商人に扮したヘルメスと前団長リディスに出会い、国から連れ出してもらったこと。
「あの方たちは、私の命の恩人なのです」
アスフィは、それを美しい救済の物語として語った。
だが。
「…………え?」
マヤの口から漏れたのは、本気で引いているような声だった。
「え? ちょいちょい、待って」
マヤは信じられないものを見る目でアスフィを見つめた。
「俺でもさすがに……え? 嘘でしょ? それが尽くす理由なの? 9歳か10歳で助け出されたのは、まー良しとしてだ。そこから十年以上? ずっとこんな感じなんだろ? ええ?」
アスフィは戸惑った。自分の覚悟を、真っ向から不思議がられている。
「アスフィ。うちの子らの中にもさ、そういう過酷な境遇の子がいるのは知ってるだろ?」
マヤは姿勢を正し、真剣なトーンで語りかけた。
「有名なのは、リリだ。あいつはソーマ・ファミリアで地獄を見てた。それを、俺が自ら七年前に路地裏で助けたんだよ。……これは秘密な。お前と境遇が似てるから、引き合いに出しただけだ」
「リリルカ……さんが」
「あいつがLv.6なのは、ギルドの発表で知ってるだろ?」
アスフィは頷いた。あの小さな少女が第一級冒険者に至っている事実は、オラリオ中の誰もが知っている。
「そんな生活をしていたリリと、アスフィ。出目はお前の方が優雅だよな? リリはどん底からのスタートだ。……で、今はどうだ?」
マヤの言葉が、アスフィの胸に落ちてくる。
「過労死寸前になってるか? 違うだろ。むしろリリは、たった七年でLv.6になった。アスフィよりも強くなったぞ。リリの頑張りもあるだろうが……恩返しってのは、そうやってするもんじゃないのか?」
マヤの言葉に、アスフィの胸の奥で何かが軋んだ。
「今のアスフィは、恩は十分に返して、今は逆になってるだろ? アスフィ、言い方は悪いが、今のお前は『洗脳状態』になってるぞ」
「せ、洗脳……」
「ああ。お前はもう十分に、義理は尽くしたはずだ」
マヤの深紅の瞳が、アスフィの揺れる瞳を真っ直ぐに射抜く。
「そのお前の義理に対して、今のヘルメスは『礼』を返してくれてるのか? 道具のように使い潰すことが、恩人のやることか?」
マヤは首を横に振った。
「俺には、断じて否と思えるぞ」
——プツリ、と。
アスフィの心の中で、十年間、自分を縛り付けていた鎖が音を立てて千切れた。
義理はもう返した。恩人の名を借りて、自分をすり減らさせていたのはヘルメスの方だ。
「あ……れ……?」
アスフィの視界が、急に歪んだ。
目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出し、シーツの上に染みを作っていく。
止まらない。十年分の疲労と孤独が、決壊したように溢れ出した。
「おかしい、な……私……なんで……」
両手で顔を覆い、しゃくり上げるアスフィ。
マヤは静かに椅子から立ち上がると、アスフィの頭に、その大きくて分厚い手を置いた。
ポン、ポン。
子供をあやすような、どこまでも優しく、不器用な手のひら。
「俺は、泣いてる女の顔は見たくねぇんだ」
頭上から降ってくる声は、途方もなく甘く、安心感に満ちていた。
「俺んとこで、今度はゆっくり……お前の好きな発明でもしろや」
「う、あ……ぁぁぁぁぁぁっ……!」
アスフィはついに声を上げて泣き崩れ、その顔をマヤの胸元に押し付けた。
最強の鬼の腕の中は、ヘルメス・ファミリアのどの場所よりも温かく、彼女がずっと求め続けていた居場所だった。
客室の重厚な扉の向こう側。
そこには、やり取りを盗み聞きしているロキ、フィン、リヴェリアの姿があった。
「……あのアホ神。とんでもないことしとったんやな……」
ロキが、ギリッと奥歯を噛み締める。
「マヤ殿を……本気で怒らせましたね」
フィンがぽつりと呟く。
「ええ。明日のヘルメスは、無事では済まんぞ」
ヘルメスが自らの犯した罪の重さに気付くのは、翌朝、自身の名声が地に落ちた噂を耳にする時であった。