第64話『登る太陽、落ちる翼』
どこまでも柔らかく、温かい光が瞼の裏を優しく撫でていた。
アスフィ・アル・アンドロメダは、ゆっくりと目を開ける。視界に広がったのは、普段見慣れた工房の煤けた天井ではなく、最高級の織物で設えられた豪奢な天蓋だった。
身体を包み込んでいるのは、雲のように軽い最高級の羽毛布団。背中も腰も全く痛くない。
いつもなら、数時間おきにアラームをかけ、目をこすりながら未処理の書類の山に立ち向かい、ポーションの在庫計算に追われるのが彼女の「当たり前の朝」だった。
「……朝、か」
アスフィは上体を起こし、周囲を見渡した。
机の上には羊皮紙の山も、インクの瓶も、魔道具の設計図もない。誰かが扉を叩いて「団長、急ぎの決済が!」と怒鳴り込んでくることもない。
ただ、静寂と穏やかな朝の空気が満ちているだけだ。
昨夜、マヤの前で子供のように泣き崩れてしまったことを思い出し、アスフィは少しだけ頬を赤く染めた。十年以上も自分を縛り付けていた呪縛。それを、彼は一瞬で解き放ってくれた。
胸の奥にあった重たくて冷たい鉛のような塊が、すっかり消え去っている。こんなに身体が軽い朝を迎えたのは、一体いつ以来だろうか。
アスフィは備え付けのクローゼットから真新しい衣服を取り出して身支度を整えると、そっと客室の扉を開けた。
黄昏館の長い廊下を抜け、中庭へと足を踏み入れる。
そこには、オラリオ最大派閥の「日常」が広がっていた。
「お、起きたか。おはようさん」
「……あ、おはようございます」
中庭の芝生の上には、昨日と同じようにアウトドアチェアが並べられ、小さなテーブルを囲むようにして、マヤ、ロキ、フィン、リヴェリア、そして黒いベールを被ったアルフィアが座っていた。
「恒例のキャンプ、朝食バージョン」といったところだろうか。テーブルの中央では、特注の魔石コンロを使って、ヴァレッタが手際よくホットサンドを焼き上げている。香ばしいパンの焦げる匂いと、淹れたてのコーヒーの深い香りが朝の空気に溶け込んでいた。
「よく眠れましたか、アスフィ様。さあ、こちらへ」
ヴァレッタが優雅な手つきで椅子を引き、アスフィを促す。かつてオラリオを震撼させた闇派閥の幹部が、完璧なメイドとして朝食を振る舞っている光景は何度見てもシュールだったが、アスフィは素直にその椅子に腰を下ろした。
「ほれ、遠慮せんと食べ。ウチのヴァレッタの飯は絶品やで」
マヤの膝の上にちょこんと座ったまま、ロキが気さくに笑いかける。
フィンやリヴェリアも、「おはよう。疲れは取れたかな?」と、まるで昔からの身内であるかのように温かく声をかけてくれた。
「いただきます……」
ヴァレッタから手渡されたホットサンドを一口かじる。表面はサクッと、中はチーズと肉汁がとろけ出し、絶妙な塩気が口いっぱいに広がる。あまりの美味しさに、アスフィの顔が自然とほころんだ。
不思議と、焦りは全くなかった。いつもなら「私がいないとファミリアが回らない」とパニックになっていたはずなのに、今はただ、目の前の温かいコーヒーをゆっくりと味わうことができている。
心が満たされ、重圧から解放されたからだろうか。
誰かに命令されたわけでもないのに、アスフィの頭の中にふと、純粋な好奇心が芽生え始めていた。
(……マヤたちのために。この人たちがダンジョンで安全に戦えるように、最高の『アイギスの盾』を作ってみたい)
自分を使い潰すための道具ではなく、純粋なクリエイターとしての意欲。素材の配合、術式の最適化。頭の中で自発的に構想を練る楽しさが、ふつふつと蘇ってくる。彼女はすでに、心の中では完全にロキ・ファミリアの一員としてなびき始めていた。
「盾もいいが、まずは休めよ?」
アスフィの表情から何かを察したのか、マヤが優しく声をかけた。
「ゆっくりでいいんだ。それと、いきなり大層なもんじゃなくて、自分で完全に一から簡単に作れるやつとかないのか? 肩慣らしってやつさ」
「簡単なもの、ですか」
アスフィはカップを置き、少しだけ得意げに口を開いた。
「各種の回復ポーションや、魔導爆弾などでしたらすぐにでも。あとは……多少の資金と高級素材さえあれば、『ハデス(透明化の兜)』なども作れます。装着した者の姿や気配を完全に消すことができる魔道具です。一度作成した経験があるので、素材さえあれば再現は可能です」
「姿や気配を完全に消す……? ほう、それは大したもんだな」
マヤが感心したように頷き、フィンやリヴェリアも「それは素晴らしい」「戦術の幅が劇的に広がるな」と称賛の声を上げた。
その時だった。
マヤの斜め後ろに座っていた黒いベールの女性——アルフィアの肩が、ピクリと大きく反応した。
彼女は一言も喋らない。さすが『静寂』の二つ名を持つだけはある。しかし、そのベールの奥の瞳が、獲物を見つけた鷹のように爛々と輝いているのを、マヤだけは見逃さなかった。
(……あいつ、絶対『それがあれば、いつでもこっそりベルに会いに行けるじゃない!』って思ってやがるな……)
マヤは内心で苦笑しながら、話を元に戻した。
「昨日も言ったが、金と素材の心配はしないで大丈夫さ。ウチの金庫は潤沢だからな」
マヤはロキの赤い髪を撫でながら、真っ直ぐにアスフィを見る。
「だから、まずはゆっくり寝て食って、自分のペースを取り戻せ。たまにダンジョンで身体を動かしたければ、今、行ってる連中と一緒に行ったりしてもいい。フィンとリヴェリアは、今は書類整理で毎日カンヅメだけどな」
話を振られたフィンが、「痛いところを突かれますね」と苦笑いする。
「団長と副団長ですからね。デスクワークも大事な戦いです」
「なんでも、役割分担だよ」
マヤは椅子の背もたれに深く寄りかかり、静かなトーンで語り始めた。
「前衛がいて、後衛がいて、支援がいて、事務をやる奴がいる。そうやってきっちり分担しないと、いつか必ず綻びが出て、失敗して大惨事になってしまう。ポーション飲んで疲労回復したって、頭の芯の眠気は取れない。たとえ眠気すら消し飛ばす克服ポーションがあったとしても、そんなのは健全じゃないってことだ」
アスフィはハッとした。自分がヘルメスの下でやってきたことは、まさにその「不健全」の極みだったからだ。
「まー、簡単に言うとだな。もう、引き抜きだ」
マヤは一切の濁しを入れず、はっきりと宣言した。
「昨日のお前の姿や話を聞いてたらな、あんな環境に戻したくないって思ったんだ。確かにお前が抜けたら、あっちの書類や雑務は一気に滞るだろうさ」
(マヤ……さすがやな。ほんま、ウチの旦那は惚れ直してまうで……)
ロキはマヤの胸元に顔を押し付けながら、デレデレに溶けきっている。フィンとリヴェリアも、これは……という顔で静かに頷いていた。
「アスフィが死んだら、その仕事は一体誰がやるんだろうな?」
マヤの問いかけに、アスフィは息を呑んだ。
「わりぃ、こんな言い方で。でも、分かって欲しい」
マヤの赤い瞳が、アスフィを捉える。
「アスフィは一人しかいない。替えのきかない命だ。だがな、お前が一人で抱え込んでいた雑務や使い走りってのは、アスフィ以外にもできるんだよ。他の団員で手分けしたりな。そうやって、団ってのは回っていくもんだ」
マヤは言葉を区切り、遠くの空を見つめるように目を細めた。
「それを一人に押し付けて、回せてないのは上役のせいだ。ましてや、それを神が率先してやってる。おかしいだろ?」
「…………っ」
アスフィの目頭が、再び熱くなった。
自分がどれほど異常な環境にいたのか。そして、このロキ・ファミリアがいかに健全で、仲間を大切にしている組織なのか。それが、温かいコーヒーと一緒に五臓六腑へと染み渡っていく。
「さ、冷めないうちに食おうぜ。ヴァレッタ、おかわり頼む」
「畏まりました、マヤ様」
黄昏館の中庭には、どこまでも優しく、温かい時間が流れていた。
***
一方その頃。
迷宮都市オラリオの歓楽街で、トリックスターたる神ヘルメスは、首を傾げていた。
「……おかしい。何かが絶対におかしいぞ」
ヘルメスは、オラリオの裏事情を探るために歓楽街へと足を運んでいた。目的は、美の女神イシュタルとの接触と調査だった。
しかし、歓楽街は彼の知っている場所ではなくなっていた。
イシュタルに面会を申し込んでも、「美神の取り決めにより、すぐにはお通しできません」と、無下に門前払いされてしまったのだ。以前であれば、自分を招き入れて何らかの取引を持ちかけてくるはずだった。だが、彼女はまるで性格が変わったかのように厳格に歓楽街のルールを敷き、ヘルメスのような者を全く相手にしなくなっていた。
自分が思い描いていた盤上が、見えない誰かの手によって塗り替えられている。
結局、その調査と面会待ちに時間を費やし、気がつけば数日の時間が流れてしまっていた。
「まいったね。これじゃあ情報収集にならないや」
ヘルメスは肩をすくめ、歓楽街を後にした。
彼がオラリオの大通りに戻ってきたのは、太陽が中天に差し掛かる頃だった。
ふと、すれ違う冒険者たちの会話がヘルメスの耳に飛び込んできた。
『おい、聞いたか? ヘルメス・ファミリアの団長、過労で倒れたらしいぜ』
『ああ、ロキ・ファミリアが保護したってよ』
「…………は?」
ヘルメスは足を止め、間抜けな声を漏らした。
自分のファミリアの団長が倒れた? しかも、あのロキのところで保護されている?
「えっ……アスフィが倒れた?」
ここで初めて、ヘルメスは事態の異常性に気がついた。
いや、正確には「自分がやらかしている」という自覚は全くなかった。
「あちゃー……ちょっと最近、色々と頼み事をしすぎちゃったかな。ま、少し休ませれば平気だろうけど」
ヘルメスはポリポリと頬を掻いた。
「それにしても、ロキのところで保護とはね。マヤくんは基本、黄昏館でゴロゴロしてるヒモ旦那だって聞いてるし……奥さんのファミリアの客室を占領しちゃうのは申し訳ない。早く迎えに行ってあげないと」
ヘルメスは足早に歩き出しながら、心中で軽く呟いた。
(いやー、すまんねアスフィ。君が迷惑かけちゃった分は、僕がちゃんとロキたちに挨拶しておくからさ)
そんな軽いノリのまま、ヘルメスは黄昏館へと向かって小走りで駆け出していった。