黄昏館の奥深くに位置する、来客用の応接間。
普段はギルドの要人や他派閥の主神を迎え入れるためのその部屋は、重厚なマホガニーの扉と、足音が完全に吸い込まれるほどの分厚い絨毯、そして絢爛な装飾が施された調度品で満たされている。数日前に黄昏館へと保護されたアスフィ・アル・アンドロメダは、その豪華な空間の中で、どこか落ち着かない様子でソファに身を沈めていた。
すでに数日が経過し、彼女の頬には以前のような死相とも言える青白さはなく、健康的な血色が戻ってきている。目の下にあった深い隈も消え、本来の美しい顔立ちがはっきりとわかるようになっていた。
応接間の長椅子には、すでにオラリオ最大派閥の首脳陣が顔を揃えていた。
一番端にアスフィ。その隣には、ゆったりと腰掛けるマヤ。そしてマヤの膝の上には、ロキが当たり前のように陣取って彼の首に腕を回している。さらにその隣には、ファミリアの団長であるフィン・ディムナが背筋を伸ばして座り、一番奥には副団長のリヴェリア・リヨス・アールヴが静かに目を閉じている。
そして、マヤとフィンの背後には、黒いベールをすっぽりと被ったアルフィアが、音もなく直立していた。
重々しい静寂が空間を支配する中、不意にノックの音が鳴った。
扉の傍に控えていたメイド服姿のヴァレッタが、音を立てずに重厚な扉をゆっくりと開け放つ。
「神ヘルメスをご案内いたしました」
ヴァレッタの澄んだ声と共に、見慣れた旅装束に身を包んだ男が、飄々とした足取りで応接間へと入ってきた。ヘルメスは、並み居るロキ・ファミリアの幹部たちを前にしても悪びれる様子は一切なく、用意された対面のソファへと腰を下ろす。
ヴァレッタはそのまま一礼し、扉の横へと静かに下がった。
ヘルメスはオレンジ色の瞳を細め、まっすぐにアスフィを見た。
「アスフィ、迎えにきたよ」
どこまでも軽く、悪気など微塵も感じさせない声だった。
「街中で倒れたって聞いてね。でも、アスフィがいないと団が回らないんだ。本当にごめんよ、少し休ませるから、団へ帰るんだ。このままだと、ロキのファミリアにも迷惑がかかるからね」
その言葉を聞いた瞬間、アスフィの肩がビクッと跳ねた。
「迷惑をかける」「君がいないと回らない」。十年間、彼女を縛り付け、すり減らせてきたその言葉の鎖が、再び彼女の首に巻き付こうとしていた。
ヘルメスは視線を動かし、マヤの膝の上で退屈そうにしているロキへ向けて、愛想よく手を合わせた。
「というわけで、本当にうちのアスフィがすまなかったね、ロキ」
「…………」
ロキは、半眼を開けてヘルメスを冷ややかに見据えた。
「お前、アホちゃうか?」
「えっ?」
「ま〜、好きに話しとってえな。ウチは忙しいんや」
ロキがマヤの胸元に顔を埋め、視線を完全に切る。
ピシリ、と。
目に見えない何かが、応接間の空気を凍てつかせた。
最大派閥の主神が放った明確な拒絶。それに気づかず、アスフィは完全にフリーズしてしまっていた。瞳が揺れ、過去の呪縛と現在の安らぎの間で、彼女の呼吸が浅くなっていく。
トン、トン。
隣に座るマヤが、大きくて温かい手で、アスフィの震える背中を優しく叩いた。
『大丈夫だ、お前はもう何一つ背負わなくていい』と伝えるかのような、不器用だが確かな体温。その合図のような温もりを受け、アスフィは小さく息を吐き出し、フリーズしていた思考を少しだけ取り戻す。
マヤのその動作を皮切りに、団長であるフィンが、完璧に作り上げられた微笑みを浮かべて口を開いた。
「神ヘルメス。本日はわざわざご足労いただき、ありがとうございます」
フィンの声には、一切の感情が乗っていなかった。
「ですが、こちらは迷惑など一切しておりませんので、どうぞお気遣いなく。我が団は、寝床には困らないほどの規模と設備がございます。休息が必要な方がいれば休ませる。……ただ、それだけのことですよ」
オラリオの頂点に立つ『勇者』の、つけ入る隙を与えない完璧な対応。
その間も、マヤはロキの赤い髪を撫でながらいちゃいちゃしつつ、空いた方の手でアスフィの背中を安心させるように撫で続けていた。普段ならロキの嫉妬センサーが最大出力で警報を鳴らすところだが、今回ばかりは事情が事情だ。「くぅー、しゃーない。今は許したるわ」と内心で唇を尖らせながら、大人しくマヤに甘えている。
ヘルメスはフィンの言葉を受け、わざとらしく両手を上げてみせた。
「ははは、さすがはオラリオ最強の団長様だ。器が違うね。Lv.8の貫禄が出ていてすごいじゃないか。いやはや、まいったまいった」
飄々と笑うヘルメスだったが、彼の視線は、ずっとアスフィの背中を撫で続けているマヤの手へと向いていた。
「しかし、詳しく話したのはアポロンの屋敷での宴以来だね。二人は相変わらずだ」
ヘルメスはマヤを真っ直ぐに見据え、少しだけ声のトーンを落とした。
「……ウチのアスフィを、そろそろ撫でるのやめてもらえるかな? ヒモ旦那なんだろ、君。あの宴の時も周りから笑われていたよね。家の外でも中でも、そんな感じなんだね」
その言葉が落ちた瞬間。
応接間にいる全員の思考が、それぞれの形でヘルメスの『底知れぬ愚かさ』を評価した。
(……こうもうまくいくものなのか。自ら退路を断つとは)
リヴェリアは目を閉じたまま、心の中で深くため息をついた。
(みしり、と……空間が歪む音がしましたわね。マヤ様の逆鱗を、靴のまま踏み抜くとは……)
扉の横で控えるヴァレッタが、背筋に冷たい汗を伝わせる。
(親指が疼く……。大丈夫なのか、この神は。真実を知らないということが、こうも残酷な結果を生むとは……)
フィンはテーブルの下で、激しく疼き始めた自身の親指をそっと押さえた。
「ヒモ旦那、ねぇ〜」
ロキが顔を上げ、氷のように冷たい笑顔を浮かべた。
「確かにそうやんな? ウチの大事な大事なオーズ(夫)や。奥さんの目の前で、他の女を撫でてたら文句も言いたくなる。……当たり前やろ?」
ロキの言葉に、マヤは苦笑しながらアスフィの背中から手を離した。
「うーん、触ってるか。ヘルメスには、そういう風に見えちゃうんだね」
マヤは姿勢を正し、赤い瞳で神であるヘルメスを真っ直ぐに捉えた。最初は相手が神であるという体面を保ち、丁寧な口調で紡がれる。
「今、この子がどれだけ不安なのか。今までいた場所と、ここでの安らぎの違いに、どれだけ怯えているのか。……貴方には、分からないんですね」
「な、何を言っているのかな?」
ヘルメスは笑顔のまま、首を傾げた。
「だから、もう単刀直入に言うね」
マヤの声が、一段階深く、静かに沈んだ。
「アスフィは、ウチで面倒を見るって話だよ」
ヘルメスの笑顔が、ピタリと止まった。
「過労寸前になって倒れるまで追い詰められた子を、神であるあんたが使い潰している。そんな状況を、ウチが見過ごせるわけないよね? って話だ」
「それは……」
「こう考えてみてほしい」
マヤはヘルメスの言葉を遮り、淡々と事実を積み上げていく。
「普通、過労寸前で倒れそうな人間が目の前にいたら、人は労り、優しくして、その過酷な環境から逃がしてやろうとするもんだ。だが、貴方は神だから、恩を着せた子供に何をさせてもいいと勘違いしている」
マヤの瞳に、ほんの僅かな、しかし明確な怒りの火が灯った。
「それってさ……闇派閥と何が違うんだよ、ヘルメス」
ヘルメスが息を呑む。
オラリオを長年脅かし続けてきた絶対悪の名前。それを引き合いに出されたことに、彼の飄々とした仮面が僅かにひび割れた。
「闇派閥のように、人と人を思わない神たち。最初は闇に染まるような純粋な子じゃなかったのに、子供の時から受けた洗脳教育で、いつの間にか暗闇に落ちていく子。……そんな子が、ウチの身近にもいますよ」
マヤの脳裏には、誰からも守られず、路地裏で生きるためにすべてを騙してきたかつての小人族の少女の姿が浮かんでいた。
「だからこそ、なおさらだ。アスフィをそちらに返すわけにはいかない。道理でしょ? ギルドや街の連中にとっても、アスフィが過労寸前だったっていうのは、倒れる前からの周知の事実なんだ。事実って分かっているなら、誰かが助けてやれって話なんだよ」
マヤは一度言葉を区切り、深く、重たい宣告を下した。
「だから、ウチで保護して、助ける。そして、コンバージョン(改宗)させる」
その言葉が、応接間に決定的な亀裂を入れた。
「……そんなの、認められるわけがない。認めない!」
ヘルメスが立ち上がり、初めて声を荒げた。
「アスフィがいないと、ファミリアの仕事がままならないんだ! 彼女は私のファミリアに絶対に必要なんだよ!」
「ね? 今、自分で言った通りだ」
マヤは少しも動揺することなく、静かにため息を吐いた。
「それは、神の都合で作られた理屈なんだよ。人には人の道理があるんですよ、神ヘルメス」
マヤは自分の胸を指差した。
「団長が抜けた? 死んだ? じゃあどうするの? 彼女が過労で死んだら、ヘルメス・ファミリアは終わるのか? 終わらないよね。残った人間でどうにかするしかない。……なら、ウチが保護しますと言っているだけだよ」
反論の余地がない。ヘルメスはギリッと奥歯を噛み締めた。
「なくなりはしない……だが、それとこれとは——」
「俺はよ、ヒモ旦那だ」
マヤが、自嘲するように、けれどどこか誇らしげに笑った。
「ヒモってのはつまり、このロキ・ファミリアの『父』なんだよ。子供たちの食事を作って、世話をしてる。こんなムキムキの体で、毎日エプロンつけて台所に立ってるんだよ」
マヤの温かい声が、部屋の空気を少しだけ柔らかくする。
「ウチにもね、劣悪な環境で育ったり、地獄を見た子供たちがたくさんいるんだわ。オラリオには、救えない子供たちが星の数ほどいる。神の威光にすがるだけの子、神の下で使い潰されていく者、生まれながらに環境が悪くて野垂れ死ぬ子。……だが、ここには、アスフィよりも年下なのに、毎日腹の底から笑って過ごしている子供たちがいるよ」
その言葉を聞いて。
アスフィの目から、ふたたびツーッと涙がこぼれ落ちた。
十代の少女たちが、命を懸けて迷宮に挑みながらも、帰る場所があるからこそ底抜けに明るく笑い合っている姿。それをこの数日、彼女は特等席で見せられ続けてきたのだ。
「適材適所ってやつだよ」
マヤは立ち上がり、ヘルメスを見下ろした。
「俺は家庭を守る。ロキは主神としてそれを主導するオカン。子供たちは、絶対に帰れる安心な家庭があるからこそ、迷宮(ダンジョン)に挑める。……ただ、それだけのことだよ。あんたのところには、その『家庭』がなかった。だから壊れた。違うか?」
ヘルメスは、完全に言葉を失っていた。
オラリオの裏で暗躍し、常に盤面を支配してきたという自負。それが、目の前の『家族を守るただの父親』によって、木端微塵に打ち砕かれていく。
「コンバージョンの受け入れの準備は、すでにこちらで整えてあります。神ヘルメス」
フィンが、決定打を放つように告げた。
「手続きなんて、すぐに終わるで」
ロキもまた、感情のない淡々とした声で告げる。
ヘルメスはうなだれ、自らの膝に手をついた。
(……まいったな。本当に、どうしようもない。だが、私の『暗躍』そのものがバレているわけじゃないなら、ここは引くしかない……)
自らの野心と目的を天秤にかけ、ヘルメスは苦渋の決断を下した。
「……アスフィ。君は、そちらに……うん、行きたい感じなんだね」
ヘルメスは顔を上げ、できる限りの作り笑いを浮かべた。
「色々あったけど。そこまで言われたら、神としてその話を受けよう。……ただし、アスフィ。そちらに行っても、泣かせないでくれよ?」
その白々しい台詞を聞いた瞬間。
応接間にいるロキ・ファミリアの全員が、(どの口が言ってるんだ、こいつ……)と心の中で一斉に盛大なツッコミを入れた。
「……今まで、お世話になりました」
アスフィは立ち上がり、深く、静かに一礼した。それは、十年に及ぶ呪縛への、完全な決別であった。
「さーて、話がついたなら早速やろかい」
ロキがポンと手を叩き、ソファから飛び降りた。
「フィン、マヤ。あんたらは外に出とき。女の裸は見せられへんからな」
「了解した」
「マヤ殿、行きましょう」
マヤとフィンが応接間から退出する。
リヴェリアは「私は少し離れた場所で見守ろう」と言って、部屋の隅へと移動した。
「お願いします、ロキ様」
アスフィは、新しい主神の前に背中を向けた。
神血(イーコール)が交わり、古い恩義の証が消え去り、新たな家族の証が刻み込まれる。その光景は、神聖で、どこまでも温かい儀式であった。
***
数十分後。
コンバージョンが滞りなく終了し、マヤとフィンが再び応接間へと戻ってきた。
アスフィの表情は、完全に憑き物が落ちたように晴れやかだった。
帰り支度を整え、足早に応接間を去ろうとするヘルメス。
その後ろ姿に向けて、マヤが声をかけた。
「あ、そうだ。ヘルメス」
「……まだ何かあるのかい?」
「アイギスの盾、あんたが持ってるんだろ?」
ビクッ、と。
ヘルメスの肩が、今日一番の大きな反応を見せた。
「ゼウスの爺さんのとこにあった遺産だろ。……アスフィから聞いたからよ」
マヤはカマをかけるように、わざとアスフィの名前を出した。アスフィ本人は何も言っていないが、これでヘルメスは『ファミリアの機密まで完全に吐いた』と思い込む。
「後で、アスフィと一緒に取りに行くから。こっちの派閥で管理させてもらうよ。……おいたしないようにな」
「…………っ」
ヘルメスは何も言い返せず、逃げるように応接間の扉を抜け、黄昏館を後にした。
(アイギスの盾までバレたのは痛すぎる……。だが、何とかして渡さない方法を……)
一人寂しく大通りを歩きながらも、彼の胸の奥にある英雄への野心と暗躍の渇望は、まだ完全に消え去ってはいなかった。
***
ヘルメスが去った応接間。
マヤは大きく伸びをすると、ホッとしたような顔で微笑むアスフィへと歩み寄った。
「アスフィ。お前は、少し俺と似ているな」
「え……?」
「自己犠牲ってやつだ。自分をすり減らしてでも、誰かの役に立とうとする。……でもな、もうその必要はない」
マヤは大きな腕を広げ、アスフィの細い身体を軽く、本当に優しく抱きしめた。
「お前はもう、俺たちの家族だからな」
「っ……はい……!」
アスフィは、マヤの胸元で嬉しそうに、そして安堵の涙を滲ませて頷いた。
「もー、ウチの目の前で抱きつくなんて。すこーし妬いてまうが……まー、しゃーない。今回は特別に許したる。その代わり、後でたっぷりサービスせぇよ! マヤ!」
ロキがプクッと頬を膨らませながらも、嬉しそうにマヤの背中に飛びつく。
フィンとリヴェリアも、そしてアルフィアも、その温かい光景を見て「よかった」と静かに微笑んでいた。
「さあ、皆様。特製の紅茶が入りましたよ」
ヴァレッタが、完璧な所作でティーカップをテーブルに並べていく。
オラリオ最大派閥に、また一人、傷ついた優秀な万能者が加わった。
黄昏館の応接間には、新しい家族の誕生を祝う、どこまでも温かいお茶会の香りが満ちていた。