オラリオの空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
迷宮都市の活気にあふれた大通りを、トリックスターたる神ヘルメスは、ひどく重たい足取りでとぼとぼと歩いていた。
(なんで、アスフィがウチを抜けたんだ……)
いくら考えても、納得がいかなかった。ロキ・ファミリアから突きつけられた理屈は理解している。だが、神である彼にとって、恩を与えた子供が勝手に盤外へ飛び出していったような、そんな現実感のなさがあった。
「おーい、ヘルメス!」
背後から、底抜けに明るい声が響いた。
振り返る間もなく、大きな腕がガシッとヘルメスの肩に回される。
「一緒に帰ろうよ。神同士、親睦を兼ねて歩くのは大事だろ?」
「……へ? マヤくん……それに、アスフィまで!?」
ヘルメスの横には、人懐っこい笑顔を浮かべたマヤがピッタリとくっついていた。そしてその後ろには、アスフィと、涼しい顔をしたフィン・ディムナが静かに付き従っている。
大通りを行き交う冒険者たちは、その奇妙な組み合わせを見てコソコソと囁き合っていた。
『おい、見ろよ。ロキ・ファミリアのフィン団長と、あのヒモ旦那だぜ』
『ヘルメス様と万能者(アスフィ)も一緒だな。珍しい組み合わせだ。どこかの派閥同士で、合同クエストの打ち合わせでもすんのか?』
街の連中は、まだ事の真相を知らない。
周囲の視線などどこ吹く風で、マヤはヘルメスの肩を抱いたまま、にこやかに歩き続ける。そして、周囲の喧騒に紛れさせるように、ヘルメスの耳元へ顔を寄せた。
「——例のあれ、もらいに受けに来た。逃がさねーからな」
マヤの声は笑っていたが、そこには一切の妥協がなかった。
「もし、他の派閥にアイギスの盾が渡ったら大変だろ? そんな物騒なもん、アスフィが抜けた今のヘルメス・ファミリアで管理できるわけがない。違うか?」
ヘルメスは冷や汗を流し、無言で頷くしかなかった。
「アスフィが作った他の持ち物も、素材の代金だけこっちで払って持ち帰らせてもらうからな。……ああ、作りかけのポーションとかは、そのままくれてやるよ」
『ペタソス(飛翔靴)』は、すでにアスフィが普段から身につけている。残るは、装着した者の姿や気配を完全に消す『ハデス(透明化の兜)』と、対象を強力に束縛する『タルタロス(拘束衣)』の二点。それらが彼女の部屋に残されていることは確認済みだ。
「…………」
ヘルメスは何も言い返せず、ただ引きつった笑みを浮かべてマヤの横を歩くしかなかった。
そのまま大通りを進んでいくと、香ばしい油の匂いと共に、元気いっぱいの声が響いてきた。
「じゃが丸くんはいかがかなー! 揚げたてでホクホクだよー!」
「お?」
マヤが足を止める。視線の先では、見慣れたツインテールの小柄な女神が、屋台の前に立ってじゃが丸くんをひっくり返していた。
「おーーい! マヤくん! 買って行っておくれよ!!」
ヘスティアが、マヤの姿を見つけるなり大きく手を振ってきた。
マヤは目を丸くして、屋台へと駆け寄る。
「ヘスティア! なんで働いてるの!?」
マヤは心底驚いた声を上げた。
「アポロンからぶんどったあのでかい屋敷に住んでるし、ベルたちも稼いでるんだから、十分稼ぎはあるでしょ!?」
「ちっちっ! 分かってないね、マヤくん!」
ヘスティアはトングを持ったまま、得意げに人差し指を振った。
「借金がなくても、ベル君たちに私から自分で何かしてあげたいじゃないか! 神様だって、子供たちのために汗水垂らして働くのは当然のことだよ!」
胸を張って言い切るヘスティアの言葉に、マヤの顔がパッと明るくなった。
「お、ヘルメスも一緒かい! そうかー、マヤくんは誰とでも仲良くなれるね。えらいえらい」
「お、おおう。ありがとう」
マヤは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「じゃが丸、今はちょっと野暮用があるから持って歩けないんだ。そうだな……マヤが全部買っていったって言って、今日の分の半分くらい、黄昏館に届けてくれるか? ちょうど、アイズたちが戻ってくる頃だろうしな」
「本当かい!! やったー! さすがだね〜、さすがだね〜! 子供思いだ、このこの〜!」
ヘスティアは上機嫌になり、マヤの腰のあたりをぐりぐりと小突いた。
「ヘスティアに比べたら全然さ。あ、ベルとそっちの家族の分も、代金は上乗せして黄昏館につけておいてくれ。全部俺がやったで通るからさ。……ヘスティアは、嘘つかないだろ?」
そう言って、マヤはヘスティアに向けて軽くウィンクをした。
「っ……!」
ドキン、と。ヘスティアの胸が大きく跳ねた。
以前、アポロンの館での一件の際、マヤの鍛え上げられたピチピチのタンクトップ姿(と、その圧倒的な雄み)を見てしまっているヘスティアにとって、その無自覚なイケメンムーブは完全に目に毒だった。
(も、もうー! マヤくんは、そういうとこだぞ!)
顔を真っ赤にしながら、ヘスティアはプイッと顔を背けてじゃが丸くんをひっくり返す作業に戻る。
「神ヘスティア。マヤ殿の言う通りで問題ありません」
フィンが一歩前に出て、にこやかに補足した。
「今から少し用事がありますので、我々はこれで失礼します」
「あ、ありがとうー! 毎度ありー!」
ヘスティアは元気に手を振り返しながら、内心で冷や汗を流していた。
(マヤくんの奢りなんて知ったら、ベル君、このじゃが丸くんを崇拝しそうで怖いんだが……)
歩き出しながら、マヤはフィンとアスフィに向けて、ポツリと呟いた。
「……あれが、『良い神』ってやつだ」
その言葉は、隣を歩くヘルメスへの痛烈な皮肉でもあった。
子供のために神の威厳を捨てて汗を流すヘスティアと、子供にすべてを丸投げして使い潰していた自分。ヘルメスは、ぐうの音も出ない。ただ無言のまま、自分のファミリアのホームへと向かう道を歩き続けることしかできなかった。
***
その後、ヘルメス・ファミリアのホームに到着したマヤたちは、スムーズに目的のものを回収した。
主神であるヘルメスが完全にうなだれているため、事態を呑み込めていない団員たちも止めることができなかったのだ。
アスフィは自身の部屋から『ハデス』と『タルタロス』、そして厳重に封印されていた『アイギスの盾』を回収する。フィンは持参した素材代金の小切手を机に置き、一切の未練を残さずにその場を後にした。
夕暮れ時。
西の空がオレンジ色に染まる頃、マヤたちは黄昏館の正門へと帰り着いた。
「お、帰ってきたな」
門をくぐると、そこにはロキ、リヴェリア、ガレス。そして深層から戻ってきたばかりのアイズ、リリ、ティオネ、ティオナの双子、レフィーヤたちが出迎えていた。
彼女たちの手には、先ほどヘスティアが届けてくれた熱々のじゃが丸くんが握られている。
「まや〜〜! おっかえーり〜〜!!」
誰よりも早く、ロキが両手を広げて走り出した。
しかし、その主神の突撃よりも遥かに速い影が二つ、風のように駆け抜けた。
「マヤ、おかえりなさい!」
「マヤ様っ! お帰りなさいませ!」
完璧な瞬動で飛び込んできたアイズと、幻影のように現れたリリが、ロキをあっさりと追い抜いてマヤの両脇にピタリと張り付いた。
「なんやのー!! 雌猫レーダー働きすぎやろ!!」
遅れて到着したロキが、バチバチに火花を散らして地団駄を踏んだ。
「お前ら、ウチの旦那から離れんかー!」
「マヤのおごり、美味しい。マヤも好き」
「マヤ様のじゃが丸くん、最高ですっ」
アイズとリリは全く悪びれることなく、マヤに甘え続ける。
ガレスが「かっかっか!」と豪快に笑い、双子やレフィーヤたちもわちゃわちゃと集まってきた。
アスフィは、その後ろで立ち尽くしていた。
目の前で繰り広げられる、オラリオ最大派閥の日常。
そこには、神への畏れも、張り詰めた緊張感もない。あるのはただ、家族としての温かさと、絶対的な安心感だけだった。
「……あ……」
アスフィの瞳から、自然と涙がこぼれ落ちた。
帰る場所。自分が自分として、ただ息をして、笑って、技術を振るうことができる場所。十年間、ずっと探し求めていたものが、今、目の前にある。
「ほら、お前も来いよ」
マヤが、両腕に少女たちをぶら下げたまま、アスフィに向かって優しく微笑んだ。
「今日からは、ここがお前の『家』だぞ」
リヴェリアも、ガレスも、フィンも、温かく頷いている。
ロキが腰に手を当てて、ニシシと笑った。
「そういうこっちゃ。ウチのファミリアは騒がしいで? 覚悟しときや、アスフィ」
「はい……っ」
アスフィは、袖口で涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、戻りました……!」
「ああ」
マヤの深く、温かい声が黄昏館に響く。
「おかえり、アスフィ」
***
そして数日後。
オラリオ中に、一つの大きなニュースが駆け巡った。
『万能者(アスフィ)がヘルメス・ファミリアを脱退し、ロキ・ファミリアへ改宗(コンバージョン)した』
オラリオの勢力図を揺るがす重大事。
しかし、冒険者たちの反応は意外なほどあっさりとしたものだった。
『あー……まあ、仕方ないよな。ずっと過労で倒れそうだったし』
誰もが、その移籍を「当然の結果」として納得していたのだ。
その噂は、オラリオの頂点に君臨する神々の耳にも届いていた。
バベルの最上階。
銀髪の美の女神フレイヤは、眼下に広がる街並みを見下ろしながら、妖艶な笑みを浮かべた。
「……あの男は、本当に規格外ね。また一人、優秀な子供を自分の庭に囲い込んだ。ロキが羨ましいこと……」
そして、歓楽街の奥深く。
美の女神イシュタルは、窓辺から黄昏館の方向を見つめ、熱っぽい吐息を漏らしていた。
「ふふっ……またあのアホ男(いいおとこ)は、迷える女を救っておるのか。……妾も、負けてはおれんな」
イシュタルの目に、かつてのような嫉妬や悪意はない。
「あの背中に見合う、本物の『いい女』に磨きをかけねばな。待っておれよ、マヤ」
女としての純粋な闘志を燃やし、イシュタルは自身の歓楽街の浄化と改革に一層の精を出すのであった。
一方——。
一人寂しくファミリアのホームに取り残されたヘルメスは、空っぽになった工房を見つめていた。
優秀な手足であったアスフィを失い、遺産までも奪われた。
しかし、彼の瞳の奥にある光は、まだ死んではいなかった。
(……だが、まだまだ諦めんよ。英雄を、本物の英雄を……!)
彼が執着する野心だけは、どれだけ打ちのめされようとも決して消え去ることはない。
オラリオの空に、新しい家族の笑い声と、次なる時代への風が吹き始めていた。