黄昏館の中庭には、今日も穏やかな朝の陽光が降り注いでいた。
オラリオ最大派閥『ロキ・ファミリア』の朝は、いつものようにマヤが淹れるコーヒーの香りで始まる。中庭の芝生に置かれたアウトドアチェアに深く腰掛け、マヤは湯気の立つマグカップを片手に、遠くの空をのんびりと眺めていた。
ふと、右の頬にツン、と柔らかな感触が走った。
しかし、マヤの視界の端には誰もいない。気配すらない。ただ、朝の心地よい風が通り抜けていくだけだ。
「……あのな、アルフィア」
マヤがマグカップを置いて小さく息を吐くと、何もない空間からクスクスという微かな笑い声が聞こえた。
「なんで分かったの? 完全に気配を消しているはずなのに」
「そりゃ、アスフィが気を利かせて『ウチの幹部陣には僅かに波長が感知できる』って誓約(ルール)を組み込んでくれたからな。それに……」
マヤは苦笑しながら、見えない相手の口元あたりに指を伸ばした。
「口の端に、ヴァレッタ特製のイチゴジャムがついてるぞ」
「あっ……!」
パタパタという可愛らしい足音と共に空間が揺らぎ、紫色のクリスタルが輝く漆黒の兜——『ハデス改』を被ったアルフィアが、少し顔を赤くして姿を現した。彼女は慌てて口元を拭いながら、少しだけ不満げに唇を尖らせる。
「……せっかく、誰にも見つからずにベルの寝顔をつつこうと思ったのに」
「甥っ子の寝込みを襲うのはやめてやれ。ベルが心臓発作を起こすぞ」
アルフィアはヘラ・ファミリアの一員として、かつては病に縛られ、戦いの中に身を置くことしか許されなかった女性だ。本来なら、十代の少女が経験するはずだった他愛のない悪戯や、純粋な遊び。それらを一切知らずに大人になってしまった彼女が、今こうして魔道具一つで子供のように目を輝かせている。
マヤは優しく微笑み、アルフィアの頭を軽く撫でた。
「ダンジョンに行く時以外は、好きなだけ被って遊んでていいぞ。ただし、ロキの風呂を覗くのだけは勘弁な。俺が後で絞られるから」
「フフッ、善処するわ」
アルフィアは嬉しそうに微笑むと、再びハデスを深く被り、フワリと姿を消した。直後、少し離れた場所で素振りを通していた若手団員が「うわっ!? なんだ今の冷たい感触!?」と飛び上がる声が聞こえ、マヤは肩を揺らして笑った。
黄昏館には、今日も平和で温かい時間が流れている。
***
一方その頃。
迷宮都市オラリオの地下深く、薄暗いダンジョンの中層から下層へと続く道を、重苦しい足取りで進む集団があった。
美の女神フレイヤが率いる戦闘狂の集まり——『フレイヤ・ファミリア』の主力部隊である。
先頭を歩くのは、猪人(ボアズ)の巨漢オッタル。その後ろを、アレン、ヘディン、ホグニといった幹部陣が、ピリピリとした殺気を放ちながら続いている。
彼らの実力は都市でも上位に位置する。オッタルはLv.6、アレンやヘディンたちはLv.4〜5。本来であれば、もっと堂々と迷宮を闊歩していてもおかしくないはずだった。
しかし、彼らの表情には明らかな「疲労」と「悲壮感」が漂っていた。
「……おい、ヘディン。ポーションの残りはどうなっている?」
アレンが、苛立ちを隠せない声で尋ねる。
「言うな。お前の想像以上に絶望的だ」
ヘディンは眼鏡のブリッジを押し上げながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「下級回復薬が数本。上級回復薬に至っては、すでに底をついている。……武器のメンテナンスも十分ではない。このまま下層での長期戦になれば、確実に行き倒れるぞ」
彼らの問題は、極めてシンプルかつ致命的だった。
圧倒的な「資金難」である。
稼ぎがないため、満足な装備もアイテムも揃えられない。さらにフレイヤ・ファミリアは個の力を重んじるあまり、回復役(ヒーラー)を育成する文化が根付いていない。力押しで勝てる階層ならともかく、消耗戦になれば途端にジリ貧になるのだ。
「……ウダイオスは、やはり諦めるしかないか」
オッタルが、重い声で呟いた。
深層の37階層に君臨する階層主(ボス)、ウダイオス。
倒せば莫大なエクセリアと資金をもたらすこの巨大モンスターは、現在の彼らにとって喉から手が出るほど欲しい獲物だった。しかし、オッタルたちにはウダイオスに挑めない決定的な理由があった。
ウダイオスの戦闘では、周囲からスパルトイの群れが際限なく湧き続けてくる。広域殲滅魔法を持つ魔導士や、完璧な連携で群れを捌く陣形、そして何よりダメージを即座に回復できる強力なヒーラーがいなければ、いかにオッタルがLv.6の猛者であろうとも、数の暴力に飲み込まれて無惨に全滅する未来しか見えないのだ。
「……仕方ありません。我々の現状の戦力と物資で安全に狩れるのは、27階層の『アンフィスバエナ』が限界でしょう」
ヘディンの冷静な分析に、誰も反論できなかった。
アンフィスバエナならばLv.5相当。オッタルを軸にし、全員で死力を尽くせば、なんとか犠牲を出さずに討伐できるはずだ。
彼らは枯渇した台所事情を救うため、一縷の望みをかけて『水の迷宮』へと向かった。
***
27階層、『水の迷宮』。
巨大な滝が轟音を立て、青く澄んだ水が広がる大空洞。アンフィスバエナが発生するこの場所に、オッタルたちは息を殺して足を踏み入れた。
(よし、他の冒険者の姿はない。これなら……!)
アレンが槍を構え、オッタルが大剣に手をかけたその時。
「あー、オッタルじゃん! やっほー!」
滝の音が反響する空洞の奥から、底抜けに明るい声が響き渡った。
オッタルたちが弾かれたように視線を向けると、そこには、彼らの常識を根底から覆す異様な光景が広がっていた。
「な……んだ、あれは……?」
ヘディンが、驚愕に目を見開く。
大空洞の一角、モンスターが湧きにくい安全地帯に、巨大な『拠点』が構築されていた。
ロキ・ファミリアの旗が掲げられ、ティオナ、ティオネの双子、そしてエルフのレフィーヤを中心に、数十人規模のサブ団員やモブ団員たちが完璧な陣形を組んで待機している。
彼らは決して慢心しているわけではない。談笑しながらも武器はいつでも抜ける位置にあり、周囲への警戒を怠らず、いつモンスターが湧いても即座に処理できる隙のない体制を敷いていた。
さらにオッタルたちを絶望させたのは、その陣形の中央である。
なんと立派な木製のテーブルが設置され、メイド服姿のヴァレッタが、優雅な手つきで香り高い紅茶をカップに注いでいるではないか。
「ティオナ様、ティオネ様、焼き菓子のおかわりはいかがですか?」
「わーい! ヴァレッタのご飯、いつも最高!」
「ほんと、ダンジョンの中でこんな美味しいお茶会ができるなんてねぇ」
深層一歩手前の死地で、優雅なお茶会。
ボロボロの装備でポーションの一本すら出し渋っているフレイヤ・ファミリアの実働部隊からすれば、もはや異次元の光景だった。
「お前ら……こんな所で、何をしている……!」
アレンが槍を握る手を震わせながら吠えた。
「ん? 何って」
ティオナは不思議そうに小首を傾げ、ヴァレッタから受け取ったクッキーをかじりながら無邪気に答えた。
「もうすぐアンフィスバエナの復活する周期だから、みんなでここで待機してるんだよ! ほら、ダンジョンは早い者勝ちのルールだからさ!」
「復活……待ち……だと?」
オッタルは絶句した。
階層主を狩るために、討伐隊を組んで命懸けで未知の死闘に挑むのではない。発生地点に巨大なキャンプを張り、お茶を飲みながらモンスターが生まれるのを「ただ待っている」のだ。それは冒険ではなく、圧倒的な物量と組織力による、迷宮資源の完全な管理作業であった。
「……ふざけるな」
ヘディンが、冷や汗を流しながら前に出た。
「アンフィスバエナを貴様らに譲るというのなら……我々は下層へ向かう。ウダイオスを叩くまでだ」
勝算は薄い。だが、手ぶらで帰ればファミリアは完全に干上がる。その悲壮な決意を込めたヘディンの言葉を、しかし、ティオネが鼻で笑って打ち砕いた。
「あー、無駄無駄。ウダイオスのところに行ってもしょうがないよ」
「何……?」
「あっちはまだ周期が微妙だからさ。今、アイズとリリが索敵がてら、『発生するかどうかの確認』に行ってるんだよね」
ティオネは紅茶を啜りながら、なんでもないことのように言い放った。
「もし復活してたら、そのまま二人で狩ってから帰るって言ってたし。あの子たち、朝の準備運動が日課になってるから」
「そ、索敵がてら……二人で狩る……!?」
アレンが信じられないという顔で後ずさった。
深層の階層主を、たった二人で。しかも「確認のついで」に処理しようというのか。
戦う前から、勝負にすらなっていなかった。
圧倒的な資金力、リソース、完璧に管理された情報網。オラリオの資源は、ロキ・ファミリアという巨大な組織の歯車によって、完全に牛耳られていたのだ。
「……オッタル」
ホグニが、力なく剣を下ろした。
「俺たち……どうあがいても、勝てない……狩り場がない……」
オッタルは、静かに目を閉じた。
武の頂を極めんとする彼の誇りが、物理的・経済的な厚い壁の前に音を立てて崩れ去っていく。
「……帰還する。我々に、ここで得るものは何もない」
最強と謳われた猪人は、力なく背を向けた。
その後ろ姿は、かつてないほどの哀愁と、圧倒的な『貧困』の匂いを漂わせていた。
***
天空にそびえ立つ、バベルの最上階。
下界のすべてを見下ろす神の部屋は、重苦しい静寂に包まれていた。
「……なるほど。迷宮の主要な資源はすべて、ロキ・ファミリアの大部隊によって管理され、独占されていると」
銀色の髪を揺らし、窓辺に立つ美の女神フレイヤ。
彼女の声は静かだったが、その背中からは尋常ではない冷気が立ち上っていた。
「申し訳ありません、フレイヤ様。我々の力不足ゆえ……」
片膝をついたオッタルが、深く頭を下げる。
「階層主に近づくことすら叶わず、結果として、今回の遠征での利益はゼロに等しい状況です」
フレイヤは振り返り、優雅な手つきで一枚の羊皮紙を手に取った。
それは、フレイヤ・ファミリアの今月の収支を記録した『帳簿』である。その紙面は、血のように真っ赤な文字(赤字)で埋め尽くされていた。
「…………」
ピキッ、と。
フレイヤが握りしめた細いペンが、真っ二つに折れた。
フレイヤ・ファミリアの台所事情は、慢性的な火の車である。
本来であれば、オラリオには彼女の元幹部ミア・グランドが営む酒場『豊饒の女主人』が存在する。もし最大派閥であるロキ・ファミリアがその酒場で夜な夜な大盤振る舞いをしていれば、その莫大な利益は巡り巡ってフレイヤ陣営を潤すはずだった。
しかし、現実は違った。
二十八年前、ロキが降臨し、その隣には常にあの赤い髪の男——マヤがいた。
マヤはファミリアの家計を徹底的に管理し、自らエプロンをつけて完璧な手料理を振る舞ってきた。結果、ロキ・ファミリアは結成当初から『完全自炊』の組織であり、豊饒の女主人で莫大なツケを作るような「太客」には一度もならなかったのだ。
最大の上客を持たない酒場の利益だけでは、レベルの高い戦闘狂ばかりを抱える巨大ファミリアの胃袋と装備代を賄うことなど到底不可能。
対するロキ・ファミリアは、ヒモ旦那の節約によって金庫を限界まで潤わせ、あまつさえその豊富な資金力でダンジョンの資源を根こそぎ独占している。
「……妾の箱庭が、干上がってしまうわ」
フレイヤは、折れたペンを窓の外へと放り投げた。
その美しい顔には、女神としての余裕も、妖艶な笑みもない。ただ、明日の食費と眷族の維持費に頭を抱える、切実な怒りだけがあった。
しかも腹立たしいことに、かつて歓楽街で妾に張り合っていたはずのイシュタルは、最近どういうわけか心を入れ替え、イキイキと健全な経営で資金を潤わせているという噂まで耳に入ってくる。
「……いいわ」
フレイヤは、ギリィッとハンカチを噛み締めるようにして立ち上がった。
「ダンジョンで稼げないなら。そして、このまま座して死を待つくらいなら」
美の女神の瞳に、爛々とした決意の火が灯る。
「資源を牛耳っている張本人に、直接話をつけるまでよ」
ターゲットは決まっている。
ロキ・ファミリアの財布の紐を握り、このふざけた格差を作り上げた諸悪の根源。
豊饒の女主人に時折ふらりと顔を出し、シルとしての自分を無自覚に翻弄してくる、あの憎たらしくも愛おしい赤い髪のヒモ男だ。
「覚悟なさい、マヤ……。妾の眷族を飢えさせた代償、きっちりと払わせてあげるわ」
オラリオの頂点に君臨する美の女神は、女神の威厳もプライドもかなぐり捨て、ついに直接交渉(という名のクレーム)へと乗り出すのであった。