迷宮都市オラリオに、柔らかな朝の陽光が降り注ぐ。
都市の頂点に君臨する最大派閥『ロキ・ファミリア』の本拠地、黄昏館。その広大な中庭には、今日も活気と笑顔が溢れていた。
早朝の訓練を終えた団員たちが、芝生の上に設営された巨大なテントの周りで、和やかに朝食の準備を進めている。オラリオの他の冒険者たちが見れば、深層を日常的に踏破する戦闘集団の拠点とは思えないほどの、穏やかで牧歌的な風景だった。
そんな和気藹々とした空気の中、新しい専用の工房から顔を出したばかりのアスフィの前に、マヤが静かに歩み寄った。
その屈強な肉体を包む深紅のインナーと漆黒のレザーコートが、朝日に照らされて静かな存在感を放っている。
「マ、マヤさん……? どうかしましたか?」
アスフィが小首を傾げた、その次の瞬間だった。
「アスフィ。君は、本当によくやってくれた。まずは、心からの感謝を」
マヤは足を揃え、深々と、その頭を下げた。
「えっ……!?」
アスフィは目を丸くし、全身を硬直させた。
驚いたのは彼女だけではない。周囲でスープを煮込んでいた団員たちや、武器の手入れをしていた。ガレスにアイズやリリたち、レフィーヤ、ヴァレッタ、果ては遠くで書類に目を通していたフィンやリヴェリアまでもが、一斉に動きを止めて驚愕の視線を向けた。
「ま、マヤ(様)が、頭を下げた……!?」
ざわめきが波紋のように広がる中、マヤの背中にひょいっと飛び乗ったロキが、ニシシと笑いながら口を開いた。
「あんな、アスフィ。あんた、ごっつ凄いことされてんで? ウチらのファミリアの身内以外で、こいつが本気で感謝して頭下げたん、あんたが初めてやで?」
「……え? そ、そんな……! な、何故ですか!?」
アスフィは慌てて両手を振り、自分も頭を下げ返した。
「なんか、すいません! むしろこちらこそ、最高の場所を提供してくださって、過労から救っていただいたのに……私の方こそ、感謝してもしきれないくらいで……!」
(マヤさん……そんなに、私のことを大事に思ってくださっているなんて……)
胸の奥が熱くなり、アスフィの瞳が潤みかける。
マヤはゆっくりと頭を上げ、温かい深紅の瞳でアスフィを見つめ返した。
「なんだ、本当に感謝してるんだよ。……約束通り、正体を明かす。アスフィ、今、君の目の前に『誰か』がいるのは認識できるよな? ハデスを被っている子のことだ」
マヤが視線を横に向けると、何もないはずの空間が僅かに揺らいだ。
アスフィが組み込んだ『幹部にだけは僅かに波長が感知できる』という誓約の術式。アスフィ自身にも、その輪郭はうっすらと見えていた。
「はい、確かに誰かいらっしゃいます。……これが、あのベールの方なんですか?」
「そうだ。これは俺たちの、重大な秘密なんだ」
マヤの声が、少しだけ真剣なトーンに変わる。
「君は、俺たちの願いを聞き、最高の形で成し遂げてくれた。だから、約束だ。……兜を取って、素顔を見せてやってほしい」
マヤの言葉に応じるように、スウッ、と空間から一つの兜が持ち上がった。
紫色のクリスタルが輝く漆黒の兜『ハデス改』が取り外され、その下から、日の光を受けてキラキラと輝く美しい銀髪と、オッドアイの瞳が現れる。
透き通るような美貌を持つその女性を見て、アスフィは息を呑み、そして一歩後ずさった。
「え……嘘、でしょ……!?」
アスフィの声が、震えていた。オラリオの歴史を知る者であれば、その顔を知らないはずがない。
「『静寂』の、アルフィア……!? 黒竜討伐の失敗で、行方不明になったと聞かされていましたよ!?」
驚愕で目を見開くアスフィを見て、アルフィアはクスリと、とても柔らかく、上品な笑みをこぼした。
「そうか。世間にはそういう風にも伝わっていたか。情報とは色々交錯していて、実に面白いな」
「そうだ。あのアルフィアだ」
マヤが、アスフィを安心させるように優しく告げる。
「ウチで、ずっと保護していたんだ。ギルドにも内緒にしてな。アルフィアが生きてる、または何処かにいると分かれば、情報が欲しくて色々と面倒な連中が嗅ぎ回るだろ? 彼女には、もう戦いなんて必要ない。だからウチで匿ったんだ」
アスフィは、目の前で微笑む『静寂』の姿に、言葉を失っていた。
かつては病に縛られ、不治の痛みに耐えながら戦場に立つしかなかった悲劇の女性。その彼女が今、健康的な血色を浮かべ、穏やかな空気を纏っている。
「アスフィ。君は見事、俺たちの信頼を勝ち取った」
マヤが、深く、静かな声で紡ぐ。
「だからこそ、最大の感謝を。……君がハデス改を作ってくれたおかげで、アルフィアはこうして、ようやく外へ出て遊ばせることができるようになった。俺は、彼女のそんな『笑顔』が見たかったんだ」
「遊ばせる、とは……? あ……なるほど」
数々の情報と目の前の現実が繋がり、天才であるアスフィは即座にすべてを察した。
「それだと……ご病気も、完全に治られたのですね?」
「ああ。病も治してもらって、今はこうして毎日キャンプして、遊んで暮らしている」
アルフィアは、それはそれは美しい、純粋な笑顔を浮かべた。
「昔は、普通の子供のように遊べなかったからな。今は、マヤが与えてくれたこの時間が、愛おしくて仕方がないんだ」
その笑顔を見た瞬間。
アスフィの目から、ブワッと大粒の涙が溢れ出した。
今まで自分が作らされてきた魔道具は、誰かを傷つけ、騙し、縛り付けるための暗躍の道具でしかなかった。しかし今、自分の手から生み出された作品が、一人の女性の『失われた青春』を取り戻し、これほどまでに温かい笑顔と安らぎを与えている。職人として、これ以上の幸福があるだろうか。
「ふふっ、これからはハデスを被って、色々なところへ行きましょうね! ダンジョンとか、ダンジョンとか……!」
ティオナが無邪気に笑いかける。
「管理されたダンジョンほど、安全で楽しい場所はないからな……!」
ティオネも肩をすくめて同調し、中庭にドッと温かい笑い声が響き渡る。ダンジョン中毒の少女たちらしい、物騒だが微笑ましいジョークだった。
「本当に、ありがとうな、アスフィ」
マヤはアスフィの肩にポンと手を置き、付け加えるように言った。
「そのうち、君が作ってくれた『タルタロス改』も、アストレア・ファミリアの連中に渡すつもりだ。ただあげるだけだと角が立つから、一応『貸し出し』という名目にする。最初は保証金として少しお金をもらって、返却時に全額返却する……という、形式だけの支援だな。これで、街の治安もより安全に守られる」
アスフィは、もう言葉にならず、ただ何度も何度も頷くことしかできなかった。
自分の技術が、オラリオの平和と、人々の優しい営みの中に組み込まれていく。
マヤという男の、どこまでも不器用で、圧倒的に優しいやり方。アスフィはこぼれる涙を拭いながら、このファミリアの一員になれた自身の幸運に、心の底から感謝していた。
***
その日の午後。
迷宮都市のメインストリートから少し外れた場所にある酒場、『豊饒の女主人』。
まだ夕食時前で客足もまばらな店内には、カウンターに座るマヤの姿があった。
エプロン姿で買い出しに出た帰りに、ふらりと立ち寄って一杯やっているのだ。世間から見れば、妻の金で昼間から酒を飲む、絵に描いたような『ダメなヒモ旦那』の姿である。
「ったく、アンタは相変わらず良い身分だねぇ、ヒモ旦那」
カウンターの奥で巨大なジョッキを拭きながら、店主のミア・グランドが呆れたように鼻を鳴らした。
「最近は、ウチの常連だったフレイヤの連中が、めっきり顔を出さなくなった。懐がスッカラカンらしくてね、酒も飲みに来やしないよ。……お前らロキ・ファミリアが、階層主から何から、ダンジョンの美味しいところを根こそぎ持っていくからだろうが!」
ミアの豪快な愚痴に、マヤはケラケラと笑いながら串焼きを齧った。
「おいおい、ミア母さん。俺は知らないなー。ウチのファミリアを『管理』してるだけだしね。金がなくて稼ぎたいなら、プライドなんて捨てて、全員で浅層にこもってゴブリンでもひたすら狩り続ければいいだろ? チリツモってやつだ」
「それが出来りゃあ、あいつらも苦労してないさね」
「俺はダンジョンに入れないし、戦闘もしないヒモだからな。俺に言えるのはそれくらいしかないぜ。俺自身が外で働くのだって、ウチのロキが嫌がるからな。……こうして、お小遣いをもらって飲みに来てるんだ。俺という客が来てるだけ、ありがたく思ってくれよ。主に、ロキにな!」
あっけらかんと笑うマヤに、ミアは「はん、本当に図太い男だよ」と呆れ半分、感心半分の息を吐いた。
「マヤさん、いらっしゃいませ」
そこへ、銀色の髪を揺らした可憐なウェイトレス——シルが、追加の料理を持ってパタパタと小走りでやってきた。
彼女の顔には、大好きなマヤが来店してくれたことへの純粋な喜びが浮かんでいる。しかし、彼女の内面——美の女神フレイヤとしての自我は、現在火の車となっている自ファミリアの窮状に、ギリィッと奥歯を噛み締めていた。
(この男……自分のファミリアが何をしているのか分かっているくせに、とぼけて……!)
シルは料理をテーブルに置くと、小首を傾げて、いかにも純朴な町娘を装いながら口を開いた。
「でも、ミア母さんの言う通り、最近はマヤさんのファミリアがダンジョンを完全に『独占』しているって、街で噂になっていますよ? ……そのせいで、他の冒険者さんたちが困っているみたいですけど……」
可愛らしい表情の中に仕込まれた、鋭い探り。
女神フレイヤとしての、暗黙の抗議であった。
しかし、マヤはシルの言葉を受けても、少しもしどろもどろになることはなかった。
純粋な女性の好意や恋心にはめっぽう弱いが、こと『ダンジョンの理屈』や『組織の在り方』に関して、マヤが揺らぐことは絶対にない。相手が建前上はただの酒場の店員であろうと、真剣に向き合うのが彼の矜持である。
「うーん……シル。それは『独占』とは違うよね。『管理』だよ」
マヤはジョッキを置き、真剣な赤い瞳でシルを見つめた。
「そもそも、ダンジョンってのは自己責任の世界だろ? 自分たちの命と生活は、自分たちで守る。ウチは、それを徹底しているだけだ」
「で、ですが……他の方々に、少しは譲ってあげても……」
「俺はね、あの場で、オラリオ全体に俺の意志を示したつもりだ」
マヤの低く落ち着いた声が、店内の空気を少しだけ引き締めた。
「以前、ウチのやらかしでヘスティア・ファミリアに迷惑をかけた時。俺は、みんなの前で笑われながらも、頭を下げた。ヒモ旦那が、自分の非を認めて多額の賠償金を払ったっていうのは、シルも知ってる有名な話だろ?」
「……はい」
「それに続いて、タケミカヅチ・ファミリアも義理を重んじて、詫びとしてヘスティアのところに身を寄せた。……こうやって、俺たちはダンジョンのルールと『義』に則って、きっちりと落とし前をつけてやってるんだよ」
マヤはそこで言葉を区切り、シルの灰色の瞳をまっすぐに射抜いた。
「それに、ウチのやらかし以外にも……なぜか、ヘスティアのところのベルが、急に上層でイレギュラーなミノタウロスに襲われたこともあったらしい」
ビクッ、と。
シルの中のフレイヤが、大きく心臓を跳ねさせた。
「ダンジョンの異常か、それとも……モンスターを使って、意図的に子供を襲わせようとした薄汚い輩がいるのかもしれない。……そんな何が起こるか分からない危険な場所で、子供たちの命を守るために、集団で陣取って完璧に備える。ウチのやってることは、ファミリアとして当たり前の防衛策だろ?」
圧倒的な、正論。
ベルにミノタウロスをけしかけたのは、他でもないフレイヤ自身である。その『不測の事態』を引き合いに出され、防衛と管理の正当性を主張されてしまっては、フレイヤには一切反論の余地がなかった。
自分自身の暗躍が、そっくりそのまま強固な盾となって、自らの首を絞めているのだ。
「……っ……」
シルは何も言い返せず、俯くことしかできなかった。
「ま、そういうことだ。もし本当に困ってる連中がいるなら、ウチのロキに直接頭を下げるか、実力で奪い取るしかないよな。天秤を動かしたいなら、裏でコソコソ言わずに直接挑んでくるのが筋だろ?」
マヤはニカッと笑い、空になったジョッキをカウンターに置いた。
悔しい。美の女神としての誇りを完全にへし折られ、シルの中のフレイヤは屈辱でワナワナと震えそうになる。
だが、それと同時に。
言い訳をせず、誰のせいにもせず、己のファミリアの子供たちを絶対に守り抜くというその『漢の在り方』に、フレイヤの魂は強烈に惹きつけられ、どうしようもない熱を帯びていくのを感じていた。
「あー、でもそうだな……」
立ち上がりかけたマヤが、ふと何かを思いついたようにシルを振り返った。
「フレイヤ・ファミリアの連中が本当に資金難で飢え死にしそうなら、俺からいいバイトを紹介してやろうか? シル、もし知り合いにいたら教えてやってくれよ」
「え……? バイト、ですか?」
シルが目を白黒させる。
「ああ。黄昏館の中に入れるわけにはいかないからな……そうだな、イシュタルのところの『警備員』でもしてもらおうか」
「……はい?」
「ほら、今イシュタルの歓楽街は改革中で、クリーンになってどんどん客が来てるらしいんだ。だから、治安維持のための強くてデカい『黒服』が必要なんだよ。オッタルとかいうデカい奴なら、かなり高額の時給で雇ってくれると思うぜ?」
ピキィィィン、と。
シルの中で、何かが完全に砕け散る音がした。
かつて自分が見下し、張り合っていたイシュタルの『下働き(黒服)』。それを、自派閥の最強の眷族たちに勧めてきたのだ。
あまりにも強烈な、無自覚の極上の皮肉。
「まー、俺が決めることじゃないんだけどね。俺はただの、ロキのヒモだからさ! ははは!」
「あ……あのっ……マヤさん……!」
絶句するシルと、腹を抱えて笑いを堪えるミアを残し、マヤは「ごちそうさん!」と軽やかに手を振って酒場を後にした。
残されたシルは、真っ赤になった顔を手で覆った。
オッタルたちが歓楽街で黒服を着て頭を下げている姿を想像し、屈辱と怒りで気が狂いそうになる。しかし、それ以上に。
(ああ……なんて、腹の立つ男……! でも、だからこそ……!)
美の女神の心臓は、かつてないほどの早鐘を打っていた。
経済も、ダンジョンも、そして女神の心すらも完全に管理してしまう絶対的な存在。フレイヤの彼への執着は、もはや後戻りできない領域へと足を踏み入れていた。