朝食の温かな喧騒が一段落した黄昏館の大広間で、マヤは一つ咳払いをして全員の視線を集めた。
普段はエプロン姿で朗らかに笑っている彼が、今は深紅のインナーと漆黒のレザーコートに身を包み、静かな、しかし確かな威圧感を纏っている。その空気の変化に、団員たちは自然と背筋を伸ばした。
マヤは真っ直ぐに、エルフの少女——レフィーヤ・ウィリディスの方へと歩み寄り、彼女の目の前で深く頭を下げた。
「マ、マヤさん……? どうかしましたか、いきなり」
レフィーヤが目を丸くして戸惑う。
「まず、謝らせてくれ」
マヤは頭を上げた。その深紅の瞳には、一切の誤魔化しがない。
「以前、アスフィの件があっただろう。ヘルメスのように、下界のルールを破って子供たちを危険に晒す神がいると分かった。だから俺はウチの安全を守るために、フィンとリヴェリアに頼んで、念のため団員全員の交友関係を調べさせてもらったんだ」
「え……交友関係、ですか」
「ああ。そして今から、あるファミリアの主神の元へ、一部の幹部だけで乗り込む。その相手は……お前の親友、フィルビス・シャルリアの主神である『ディオニュソス』だ」
広間が、静まり返った。
レフィーヤは息を呑み、信じられないというように目を瞬かせた。
「ディオニュソス様が……? 何か、悪いことをしているんですか?」
「お前は、親友の主神が悪いことをしているなんて思っていないだろうし、そんな場面は見たくもないだろう。だから、お前を含め子供たちは全員ここで待機だ。いいな?」
マヤはレフィーヤの肩に優しく手を置いた。
「心配するな。フィルビスには指一本触れさせない。彼女の日常は、俺が絶対に守る」
その低く温かい声に、レフィーヤは震える唇を噛み締め、深く頷いた。
***
黄昏館を出たマヤたちは、その足でオラリオ有数の巨大派閥、ヘファイストス・ファミリアの本拠地へと向かった。
鍛冶神が滞在する執務室。突然の最大派閥の訪問に、赤い眼帯をした美神ヘファイストスは怪訝な表情を浮かべていた。
「ロキのところのヒモ旦那が、フィンやリヴェリアまで引き連れて何の用だ? ウチの武具に何か不備でもあったか?」
マヤは彼女の前まで歩みみ出ると、真摯な眼差しで口を開いた。
「神ヘファイストス、お久しぶりです。突然の訪問、すみません。ですが、子供たち……ひいては、オラリオ全体の禁忌に関わることが判明したのです」
マヤはそう言うと、ヘファイストスの両手を真っ直ぐに握りしめた。
「な、なんだ急に……!」
「あなたは善性の塊であり、鑑定においてオラリオで右に出る者はいない。どうか、俺たちについてきてもらいたいのです」
男の熱を帯びた言葉と、強引なほどに真っ直ぐな瞳。ヘファイストスは顔を少し赤くして手を引き抜こうとしたが、マヤは離さなかった。
「自分は普段から『ヒモヒモ』と言われていて、神々からの信用がありません。ですが、ヒモなりに家族のためにエプロンを着て食事を作ったりと、子供たちを本気で愛してきました。……それは、神であるあなたも同じはずです」
マヤは、己のプライドをかなぐり捨てるように、鍛冶神の目の前で深々と頭を下げた。
「ですから、子を愛する気持ちを汲んでください。お願いします」
執務室に、重い静寂が降りた。
オラリオ最大派閥を裏で取り仕切る男が、なりふり構わず頭を下げている。それがどれほどの意味を持つのか、聡明な彼女に分からないはずがなかった。
「……はぁ。お前らの面倒事に巻き込まれるのは御免だと言いたいところだが」
ヘファイストスは頭を掻き、観念したように息を吐いた。
「子供たちを愛する気持ち、か。……分かった。お前のその目に嘘はない。鑑定でも何でも、私の力が必要なら貸してやる」
「ありがとうございます!」
***
かくして、マヤ、ロキ、フィン、リヴェリア、そしてヘファイストスの五人は、ディオニュソスが密かに滞在しているという隠れ家へと向かっていた。
「それにしても、よく尻尾を掴んだな」
道中、ヘファイストスが呆れたように呟く。
「ええ。ヘルメスの一件以降、オラリオの不審な動きを徹底的に洗っていましたから」
フィンが淡々と答える。
「我々の索敵組に、団員たちの交友関係……特に、他派閥の中枢に近い者たちの動向を監視させました。その結果、ディオニュソスが時折、誰の目も届かない隠れ家で、密かに何かを『楽しんでいる』様子が確認されたのです」
「それだけなら、ただの酒好きの神だろう。彼が酒の神なのは周知の事実だぞ?」
ヘファイストスの疑問に、リヴェリアが首を横に振った。
「問題は、彼がその部屋で『酔っ払っていた』ことだ」
その言葉に、ヘファイストスはピタリと足を止めた。唯一の目が驚愕に見開かれる。
「……神が、下界の酒で酔うわけがないだろう」
「その通りです」
フィンが静かに告げた。
「神は天界の理を持つ存在。下界のいかなる酒を浴びるほど飲もうと、決して酔うことはありません。にもかかわらず、ディオニュソスは自室で上機嫌に酩酊していた。……それが何を意味するのか、鑑定を司るあなたなら分かるはずです」
「……天界の禁忌。神の精神に作用する、造ってはならない酒を下界で密造したというのか」
ヘファイストスの表情が、怒りに険しくなった。
「だからこそ、アンタの力が必要やったんや」
ロキがニシシと笑う。
「ウチらだけで乗り込んで酒を押収しても、『ただのヒモと貧乳女神の言いがかりやろ』って、あのキザ野郎に丸め込まれるかもしれんからな。アンタの絶対的な『鑑定』があれば、奴は言い逃れできへん」
***
オラリオの裏路地にひっそりと佇む、豪奢な隠れ家。
マヤが扉の鍵を物理的に破壊し、音もなく部屋へ踏み込むと、そこには芳醇な果実の香りが充満していた。
「……ふふ、やはり私の造る酒は……最高だ。下界の泥水とは違う……」
ビロードのソファに深く腰掛け、美しいワイングラスを傾けている金髪の美神、ディオニュソス。彼の頬は赤く染まり、目はトロンと潤み、完全に酩酊状態にあった。
突然の侵入者に気づいたディオニュソスは、ビクッと肩を跳ねさせ、慌ててグラスをテーブルに置いた。
「な、なんだ君たちは……!? ロキに……ヘファイストスまで!? 許可もなく私の部屋に押し入るとは、どういう神経をしている!」
ディオニュソスは神の威厳を保とうと声を荒げたが、足元がおぼつかず、ソファから立ち上がることすらままならない。
マヤは何も言わず、テーブルの上に置かれていたコルク栓の抜かれたワインボトルをスッと手に取った。
「おい、それを返せ!」
「おいおい、神様。ずいぶんといい気分じゃないか」
マヤは赤い瞳で冷酷にディオニュソスを見下ろした。
「顔は真っ赤、ろれつも回ってない。……神が下界の酒で酔うわけないよなぁ?」
「そ、それは……私が特別に酒に弱い体質で……いや、これはただの葡萄の果汁だ! 君たちのような無粋な者には分からない、特別な製法の……!」
「言い訳は後で聞いてやる」
マヤはボトルを、背後に立つヘファイストスへと渡した。
ヘファイストスはボトルの匂いを嗅ぎ、指先に僅かにつけた液体を舌に乗せた。その瞬間、彼女の唯一の目が鋭く細められた。
「……間違いない」
ヘファイストスは、地を這うような低い声で断言した。
「これは、神の理を歪め、神の精神に直接作用するように造られた特殊な神酒だ。こんなものを下界で造るなど、正気の沙汰ではない」
「な……っ」
ディオニュソスの顔から、一気に血の気が引いた。
「ディオニュソス」
ヘファイストスが一歩前に出る。
「お前、天界の禁忌に触れるものを、この下界で密造したな?」
オラリオにおいて、最も誠実で、最も鑑定において信頼される鍛冶神の絶対的な宣告。
ディオニュソスはパクパクと口を動かしたが、そこから音が出ることはなかった。額から脂汗が吹き出し、彼が必死に取り繕ってきた『善良で優雅な神』の仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。
「ち、違う! これは……私の眷族たちに振る舞うために、少し遊び心で……!」
「眷族に振る舞う? 神を酔わせるほどの劇物を、下界の子供たちが飲めばどうなるか分かっていて言っているのか?」
マヤの静かな怒気を孕んだ声が、部屋の空気を凍らせた。
「お前は、子供たちを自分の快楽や目的のためのモルモットにする気だったんだろうが」
「き、君に何が分かる! 私には、私の崇高な目的が……!」
「知るかよ」
マヤは冷たく言い放った。
「ウチの子供の親友がいるファミリアだからな。大事にはしたくなかったが、ルール違反はルール違反だ。お前が裏で何を考えてようが、どんなご立派な大義名分があろうが、俺たちには一切関係ない」
マヤはディオニュソスの胸ぐらを掴み、軽々と持ち上げた。
「お前は、神を酔わせる違法な酒を造った。その現行犯だ」
「は、離せ! 私はディオニュソスだぞ! こんな、ただのヒモ風情が……っ!」
「ヒモで結構。だが、俺は家族を守るためなら、お前みたいなふざけた神を何度でも引きずり下ろしてやる」
フィンが歩み寄り、冷徹な目でディオニュソスを見据えた。
「ロキ・ファミリア最大派閥の権限で、緊急の『神会』を招集します」
フィンの言葉は、絶対的な決定事項だった。
「酒の密造、そして神の禁忌に触れた罪。……神々が揃う場で、すべての弁明を聞かせてもらいましょう」
マヤはディオニュソスの首根っこを掴んだまま、部屋の出口へと振り返った。
その手には、言い逃れ不可能な絶対の証拠である、神酒のボトルが握られている。