茜色に染まり始めた迷宮都市オラリオの夕暮れ時。
メインストリートの喧騒から少し外れた路地裏を、両手に大きな紙袋を抱えたマヤが歩いていた。袋からは新鮮な葉野菜や、特売で手に入れた上質な肉の塊が顔を覗かせている。オラリオ最大にして最強の派閥、ロキ・ファミリアの台所を預かる男の、平和な日常の風景だった。
しかし、その平穏な歩みは、前方に立ち塞がった巨大な影によって物理的に遮られた。
「…………」
無言のまま路地を塞いでいたのは、筋骨隆々とした二メートル超えの巨漢。猪人(ボアズ)の武人、オッタルであった。
現在のオラリオにおいて、彼のレベルは『6』。上位の猛者であることは間違いないが、オラリオ最強の座は常に完璧な組織力と個の暴力を併せ持つロキ・ファミリアの幹部陣が占めている。ゆえに、彼の立ち位置は「有力なファミリアの第一級冒険者」という枠に収まっていた。
だが、それでも並の冒険者を震え上がらせるには十分すぎる威圧感である。周囲を歩いていた一般市民たちは、その異様な気配に怯え、そそくさと道を譲って足早に去っていく。
そんな重苦しい空気を前にしても、マヤの表情は一切変わらなかった。ただ「なんだ?」とばかりに小首を傾げる。
オッタルは極めて真面目で、しかしどこか胃の痛みを堪えるような重苦しい顔つきのまま、低い声で告げた。
「……我が主が、豊饒の女主人でお待ちだ」
それだけを言い、懐から金色の箔押しが施された豪奢な封筒——招待状という名の果たし状を、マヤに向かって静かに差し出す。
「おっ、マジか」
マヤは紙袋を片手に持ち直し、あっけらかんとした顔で封筒を受け取った。
「シルからか。……なるほど、この間提案した『イシュタル・ファミリアでの歓楽街の黒服バイト』の件、ついに真面目に受ける気になったのかな? お前みたいなデカくて強面な奴が立ってれば、客引きもトラブル防止も完璧だからな。イシュタルも喜ぶぜ。時給の交渉なら乗るから、後で話そう」
オッタルの屈強な顔の筋肉が、ピクッと引きつった。
誇り高き武神の眷族に対して「歓楽街の警備員バイト」を本気で斡旋しようとしてくるこの男のズレた感覚に、オッタルは反論する気力すら削がれたようだった。
「……主が、お待ちだ」
オッタルは屈辱と胃痛を噛み殺すように二度目の伝言だけを口にし、踵を返して路地の奥へと消えていった。
マヤは「愛想のない奴だな」と呟きながら、足の向きを馴染みの酒場へと変えた。
***
酒場『豊饒の女主人』は、その日の営業を停止していた。
看板は「準備中」のまま裏返され、普段は陽気な笑い声が響く店内は、水を打ったような静寂に包まれている。
カウンターの奥では、店主のミア・グランドが腕を組み、極めて不機嫌そうに渋い顔を作っていた。
そして、店の中央に配置された一番大きな円卓。
そこに座っていたのは、純朴な町娘のシル・フローヴァではなかった。
銀色の髪を美しく結い上げ、隠そうともしない神の威厳と、見る者の魂を根こそぎ奪うような圧倒的な妖艶さを放つ『美の女神』。フレイヤその人が、静かにマヤを待ち受けていた。
「来たわね」
マヤが扉を開けて店内に入ると、フレイヤは優雅に足を組み替え、甘く、そして鋭い声で彼を迎え入れた。
「わざわざ貸し切りか。シルちゃんは今日はお休みってわけだな」
マヤは全く臆することなく、フレイヤの対面にある椅子を引いてどっかと腰を下ろした。手荷物の紙袋を隣の椅子に置き、ミアに向かって軽く手を挙げる。
「ミア母さん、水もらえるか? 買い出しで少し歩いたから喉が渇いてるんだ」
「……アンタ、本当に図太い男だねぇ」
ミアが呆れ顔で木製のコップに水を注ぎ、ドンッとテーブルに置いた。
フレイヤは、神の威圧を前にしても「夕飯の買い出し帰り」のペースを崩さないマヤを、銀色の瞳でじっと見つめた。
「単刀直入に言うわ、マヤ」
フレイヤの声が、店内の空気を一段と冷たくした。
「貴方たちロキ・ファミリアによる、ダンジョンの狩り場の完全管理……資源の独占。あれは目に余るわ。あんなやり方をされては、他のファミリアが干上がる。現に、妾の愛する子供たちは、装備の修繕すらままならず、食事すら切り詰めている状態よ」
フレイヤはテーブルの上に肘をつき、マヤの顔を覗き込むように身を乗り出した。
「このままでは、妾のファミリアが飢える。少しは狩り場を譲りなさい。……それとも、貴方が妾の元へ来て、直接その身で償ってくれるかしら?」
甘く蕩けるような、神の魅了(チャーム)すら孕んだ交渉であり、脅し。
並の男であれば、その色香と威圧感の前に即座にひれ伏し、全財産を差し出しても構わないとすら思うだろう。
しかし、マヤの深紅の瞳には、一切の熱も、動揺も浮かんでいなかった。
彼はただ、冷徹な『組織の幹部』としての顔で、目の前の女神を見据えた。
「狩り場を譲れ? 資源を寄越せ? ……いいぜ、構わない」
マヤの意外な即答に、フレイヤの眉が僅かに動いた。
だが、続く言葉は、彼女の甘い期待を正面から叩き割るものだった。
「だが、商売の基本は『等価交換』だ。ウチの利益を譲る代わりに、あんたたちはウチに何を『対価』として差し出してくれるんだ?」
マヤはコップの水を一口飲み、フレイヤを真っ直ぐに射抜いた。
「まさか、その色香だけでタダで寄越せって言うほど、図々しい神様じゃないよな?」
「なっ……」
フレイヤの表情が、一瞬だけ硬直した。
「対価を出せと言っても、出せる金も、ウチが欲しがるような魔剣やアイテムの蓄えも、今のあんたの所にはないだろう? そもそも、なんでオラリオでも上位にいるはずのファミリアが、そんなに金欠なんだよ」
マヤは容赦なく、フレイヤ・ファミリアの根本的な欠陥を抉り出し始めた。
「あんたの所には、優秀で可愛いヒーラーがいるだろ。……えーと、たしか『ヘイズ』だったか」
マヤの口から出た自派閥の治癒師の名に、フレイヤの目が細められる。
「おたくの幹部連中は、自分が単独で勝手に敵陣に突っ込んで、勝手に傷ついて、馬鹿高いポーションをがぶ飲みしてるだけだろ。あんな優秀な回復役(ヒーラー)がいるのに、陣形を組んで彼女を守ろうともしない。彼女の魔法を使える状況を作らない」
マヤはトントン、と指先でテーブルを叩いた。
「個人の武に固執して、連携を放棄する。そんな非効率な脳筋プレイばかりやってるから、ポーション代で経費が吹っ飛んで金が尽きるんだよ。……経営者として、あんたの采配は三流以下だ」
「貴方……妾に向かって、よくも……っ!」
フレイヤの全身から、明確な怒りのオーラが立ち昇る。
だが、マヤはそれを意に介さず、さらに決定的な提案を突きつけた。
「どうせ宝の持ち腐れだ。そのヘイズって子、ウチにくれないか?」
「……は?」
「ヘイズをウチに完全移籍させる。その対価として、あんたの所の毎月の『ポーション代』と『活動資金』を、数ヶ月間こっちから支払ってやる。……ウチの潤沢な資金でな。どうだ、悪い取引じゃないだろ?」
金がないなら、子供(眷族)を売れ。そうすれば他の子供たちは飢えずに済む。
それは、圧倒的強者の目線から突きつけられた、残酷なまでの『等価交換』だった。
愛する子供を手放すなど、フレイヤにとってあり得ないことだ。しかし、彼が提示した理屈は、現在の彼女たちの経済状況をこれ以上ないほど正確に突いていた。
「ふざけないで……!」
フレイヤはテーブルを強く叩き、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「妾が、愛する子供を金で売り渡すとでも思っているの!? 貴方、自分がどれほど傲慢なことを言っているか……」
「傲慢なのはあんただろ、フレイヤ様」
マヤの冷たい声が、女神の怒りをスッパリと斬り捨てた。
「プライドだけで飯は食えない。子供たちに塩パンだけかじらせて飢えさせてるのは、他でもないあんたの責任だ。……俺の提案が嫌なら、どうする気だ? 金もない、差し出せる対価もない」
マヤは椅子の背もたれに深く寄りかかり、見下ろすような視線でフレイヤを捉えた。
「じゃあ、アレか? どうしてもウチの狩り場や利権が欲しいなら、アポロンみたいにやるか? 神同士の代理戦争……『戦争遊戯(ウォーゲーム)』で、ウチから実力で奪い取ってみるか?」
その言葉が落ちた瞬間、店内の空気が完全に凍りついた。
カウンターの奥で聞いていたミアでさえ、息を呑んで目を丸くしている。
現在のオラリオにおいて、ロキ・ファミリアは絶対的な『最強』である。
レベル6を複数抱え、圧倒的な物量、完璧な連携、そして底なしの資金力を持つ巨大な軍隊。対するフレイヤ・ファミリアは、武の力こそあれど、連携を知らず、資金も物資も枯渇している烏合の衆。
もし今、正式なルールに則って『戦争遊戯』を行えばどうなるか。結果は火を見るより明らかだった。フレイヤ・ファミリアは、ロキ・ファミリアの圧倒的な蹂躙の前に、木端微塵に粉砕されるだろう。
経済でも勝てない。軍事力(総力戦)でも、すでに勝負にならない。
すべてを完璧に管理し、盤石の体制を築き上げたこの男の前に、もはや美の女神が打てる『現実的な手』は、何一つ残されていなかった。
「…………」
フレイヤは、言葉を失った。
圧倒的な八方塞がり。神としてのロマンも、色気も、一切通用しない。ただ純粋な『為政者』としての力量の差を見せつけられ、美の女神は完全なる敗北の淵に立たされていた。
だが、彼女はフレイヤである。美と、そして『戦』を司る女神だ。
どれほど物理的に追い詰められようと、彼女の魂が折れることはない。
俯いていたフレイヤの肩が、微かに震えた。
そして彼女は、顔をゆっくりと上げた。その口元には、絶望ではなく、ひどく歪で、狂おしいほどの熱を帯びた笑みが浮かんでいた。
「……ふふ、ふふふ……」
彼女の銀色の瞳が、マヤを真っ直ぐに射抜く。
資金も武力も及ばない。すべてを論破され、屈辱に塗れながらも、彼女の執着の炎は消えるどころか、かつてないほどの激しさで燃え上がっていた。
「貴方は、これで妾を完全に詰ませたつもりなのね……マヤ」
フレイヤは頬杖をつき、獲物を見定めるような、ぞっとするほど妖艶な視線を彼に絡めつける。
「いいわ。貴方の言う『現実』はよく分かった。……でも、忘れないで。妾は欲しいものは絶対に手に入れる。それがどれほど分厚い理屈で守られていようと、ね」
美の女神は静かに立ち上がり、一切の妥協も諦めも感じさせない足取りで、店を後にした。マヤはその背中を、ただ静かに見送っていた。