ねえフリーレン。人生をかけて探したものが、何の価値もないゴミだったときのことを想像できる?
遠い記憶の底から響くようなその問いは、夜風に混ざる煙の匂いにかき消されていく。
ビーア地方の山間にひっそりと佇むルコル村は、かつてない熱気と奇妙な笑い声に包まれていた。広場の石畳には幾つもの大樽が転がされ、赤々と爆ぜる篝火が、集まった村人たちの赤ら顔を照らし出している。夜空には満天の星が瞬き、風が冷涼な木々のざわめきを運んでいたが、村の中心だけは熱狂的な酒宴の渦の中にあった。
事の発端は、頑固なドワーフの愛酒家・ファスが二百年以上もの歳月を費やして追い求めていた幻の古酒――かつて千年以上前の帝国時代に醸造され、地下深くの遺構に厳重に封印されていた皇帝酒「ポースハフト」の発掘だった。
何重もの魔法封印を解き、埃を被った豪奢な酒瓶が陽の光の下に引き上げられたとき、ファスは涙を流して震えていた。伝説の皇帝が愛した至高の美酒。一口飲めばあらゆる傷を癒やし、永遠の若さを保つとすら謳われた幻の酒。
しかし、抜栓されたその液体から漂ってきたのは、芳醇な果実の香りなどではなく、錆びた鉄と泥水を煮詰めたような、鼻腔を刺す異臭だった。
「ぎゃあああっ! な、なんだこれ!? 泥と腐った雑草と、すり潰した硬貨を一緒に飲み込んだみたいな味がする……! 喉が焼ける! 舌が痺れる! 死ぬ! 俺マジで死ぬかと思った!!」
木樽の横で喉を押さえ、涙目で地面を転がっているのはシュタルクだった。あまりの悶絶ぶりに、周囲の村人たちからどっと野太い笑い声が上がる。
「シュタルク様、みっともないです。子供ではないのですから、いくら不味いからといって地べたを這い回るのはやめてください」
呆れたように見下ろすフェルンは、手にした木製の大杯を警戒も露わに遠ざけていた。その紫色の瞳には、好奇心よりも明確な警戒心が宿っている。
「フェルン……お前、一口飲んでみろよ……! 本当にありえねえ味なんだって! 人間が飲んでいいもんじゃない!」
「遠慮しておきます。私は甘口の葡萄ジュースで十分です」
ファスはといえば、自らの人生の半分以上を捧げた夢の結末が、この世のものとは思えないほどの「劇薬じみた不味さ」であったことに、絶望するどころか完全に吹っ切れていた。豊かな髭を揺らし、腹を抱えて豪快に笑い飛ばしている。
「がはははは! 飲んだか坊主! 凄いだろう、これが千年の時を超えて眠っていた皇帝の酒だ! 不味い! 吐き気を催すほどに不味い! だがな、ここまで徹底して不味いと、いっそ清々しいとは思わんか! ほら、村長も飲め! 遠慮するな、千年物の不味さだぞ!」
ファスが樽から柄杓で濁った琥珀色の液体を汲み出し、次々と村人たちに配って回る。誰もが一口含むなり顔を激しく歪め、悲鳴を上げ、そして次の瞬間には大笑いしながら互いの背中を叩き合っていた。落胆を狂騒に変えてしまうのは、長く生きるドワーフならではの逞しさなのかもしれなかった。
その喧騒からわずかに外れた木箱の上に腰掛け、フリーレンは小さな杯を傾けていた。
白いツインテールが夜風に揺れ、透き通るような翡翠の瞳が杯の中の液体を見つめている。彼女は躊躇うことなく口をつけ、ほんの少しだけ喉を鳴らした。
「……フリーレン様、本当に飲んだのですか?」
フェルンが信じられないものを見るような目を向ける。
「……うん。やっぱり、酷く不味いね」
フリーレンは眉ひとつ動かさず、淡々と呟いた。その表情にはシュタルクのような大袈裟な苦痛も、ファスのような破れかぶれの陽気さもない。ただ事実をそのまま受け止める、いつものフラットな声だった。
「これ、熟成に失敗して腐敗したわけじゃないよ。最初から、こういう味として作られてる。……まるで魔力を帯びた鉱物と、苦い野草を無理やり調合したような味だ」
「なぜそんなものを、昔の皇帝は好んで飲んでいたのですか? 悪趣味にも程があります」
「さあね。人間の味覚は時代によっても変わるし……あるいは、味以外の何かに価値があったのかもしれない」
フリーレンは杯を揺らし、かすかに残る魔力の残滓を感じ取っていた。
地下の封印は異常なほど厳重だった。魔導書や財宝ならともかく、たかだか酒瓶の貯蔵庫を守護するために施されていた術式は、大陸魔法協会の一級魔法使いでも解除に難儀するほどの高度な構造。そして何より、その術式の組み方には、どこか見覚えのある酷く几帳面で、それでいてひねくれた癖が残されていた。
夜空を見上げると、篝火の火の粉が星々の間へと吸い込まれていく。
酒宴の笑い声が響く中、フリーレンの胸の奥に、遠い昔にすれ違った誰かの横顔が、おぼろげな輪郭を結びかけては消えていった。
* * *
夜を徹した狂騒の熱気は冷え込み、朝のルコル村には澄んだ冷たい風が吹き抜けていた。
広場には空になった木樽が無造作に転がり、炭化した薪の残骸から細い白煙が立ち上っている。フェルンはため息をつきながら散乱したガラスの破片を箒で掃き集め、シュタルクは重い大樽を肩に担ぎ上げては荷車へと運んでいた。
「……フリーレン様。手袋をはめたまま座り込んでないで、少しは手伝ってください」
「うん、いま手伝おうと思ってたところ。……この空き瓶、何かに使えないかな」
「使えません。捨ててください」
いつもの平穏なやり取りが交わされた、その直後だった。
大気をびりびりと震わせる濃密な魔力の奔流が、村の入り口から雪崩れ込んできた。
鳥たちが一斉に羽ばたき、木々のざわめきが止む。朝の光を吸い込むような深い影を纏い、ひとつの人影が石畳を踏みしめて歩いてきた。
暗く豪奢な装飾が施された、帝国時代の意匠を残す古びたローブと黒鉄の鎧。
兜の奥からは知性を失った獣のような、だが底知れぬ飢えを宿した赤い眼光が漏れ出している。魔物のような冷酷な魔力を放ちながらも、その佇まいはあまりに人間の男に近かった。
「ひっ……!?」
「ま、魔物だーっ! 逃げろ!!」
片付けをしていた村人たちが悲鳴を上げて散り散りに逃げ惑う。だが、その魔物は逃げる人間に目もくれず、真っ直ぐに村の中央にある酒場へと向かった。
轟音とともに酒場の木の扉が蹴破られる。魔物はカウンターの奥に積まれていた、昨夜の残りの「ポースハフト」の樽を無造作に掴むと、蓋を素手で引き裂き、濁った琥珀色の液体を喉へと流し込み始めた。浴びるように、溺れるように、飢餓感を埋めるためだけにその不味い酒を喰らい尽くしていく。
「――シュタルク」
「おうっ!」
フリーレンの短く静かな合図とともに、シュタルクが地を蹴った。
銀色の大斧が空を裂き、酒を煽る魔物の無防備な背中めがけて叩き込まれる。渾身の一撃は鎧を砕き、肉を断ち、骨にまで達した――はずだった。
「なっ……!?」
手応えが消える。斬り裂かれたはずの肉体が、傷口から吹き出す黒い靄のような魔力とともに、瞬く間に繋ぎ合わされていく。血の一滴すら滴らない。完全な、そして即座の肉体再生だった。
魔物は酒樽を放り捨てると、腰の長剣を抜いた。
「邪魔、だ……」
掠れた、人の言葉とも獣の唸りともつかない声が漏れる。
次の瞬間、空間が歪むほどの速度で繰り出された一閃がシュタルクの斧の腹を捉えた。
甲高い金属音とともに、シュタルクの体が吹き飛ばされ、石畳を何メートルも削りながら激突する。何百年、あるいは千年の時を重ねて磨き抜かれたとしか思えない、絶望的なまでに洗練された剣技だった。
「シュタルク様! ――『ゾルトラーク』!」
フェルンが即座に杖を構え、圧縮された純粋な魔力の砲撃を連続で放つ。弾幕は寸分の狂いもなく魔物の胴体を穿ち、四肢を削り落とした。だが、削られた端から肉が沸き立つように再生し、傷痕すら残らない。
「不死身かよ……どうやって倒せばいいんだ……!」
血を吐きながら立ち上がったシュタルクが、信じられないものを見る目で戦慄する。
フリーレンが前へ出て杖の先端を向け、幾重もの防御術式を展開しながら魔力の塊を打ち込む。しかし、どれほど致命的な一撃を与えても、魔物は怯むことすらしなかった。傷ついたという「結果」そのものが、世界から否定されているかのような異常な循環。
だが、魔物の男は一行を追撃することはなかった。
酒場に残されていた最後のポースハフトの瓶を拾い上げ、一気に飲み干すと、空になった瓶を握り潰す。
そして、周囲に倒れ込むシュタルクや、杖を構えるフリーレンたちに一瞥もくれることなく、ふらつく足取りで村の外へと背を向けた。
魔物なら、目の前にいる人間を喰らうはずだ。
だがその怪物は、ただ酒の味だけを求めて去っていく。
山風が吹き抜け、破壊された酒場に静寂が戻る。
フリーレンは杖を下ろし、魔物が歩み去った森の奥を、薄い翡翠の瞳で見つめていた。
* * *
怪物が去ったあとの広場には、打ち砕かれた木樽や酒瓶の破片と、泥のように濁った酒の強烈な異臭だけが立ち込めていた。
森の奥へと消えていった怪物の足跡を睨みつけながら、シュタルクは脇腹を押さえて呻き声を漏らす。
「あいつ……一瞬、何か喋ったよな。『邪魔だ』って。……魔族なのか? けど、角なんてどこにも生えてなかったぞ」
「ええ。それに魔族であれば、私たちを欺くために言葉を使い、人間を喰らうはずです。あのように酒だけを貪り、人間を一瞥もせずに立ち去るなど……前例がありません」
フェルンは倒れていた木箱を起こしながら、警戒を解かずに眉をひそめた。杖を握るその手には、先ほどの戦闘で感じた底知れぬ不気味さへの緊張がまだ残っている。
「フリーレン様、あの怪物の正体に心当たりはありますか?」
「……ううん。魔力の感触は魔族って感じじゃなかった。魔物と人間が混ざったような……」
フリーレンは足元に転がるポースハフトのガラス片を杖の先で突いた。
「それに、あの異常な再生能力。あんな即座の修復は通常の回復魔法でも、魔族の肉体変化でも説明がつかない。……まるで初めから『傷つかないこと』が世界の絶対法則になってるみたいな術式だったよ」
「……なあ、あいつの剣だけどさ」
大斧の柄を握り直し、痺れの残る両腕をさすりながらシュタルクが口を開いた。その表情には、戦士としての拭いきれない戦慄が刻まれている。
「あの剣筋、魔族のそれじゃない。昔、師匠に読まされた大昔の剣術指南書にあったような、ひどく古臭い型の剣術だった。……ただ、型自体は人間臭いのに、太刀筋の重みがおかしいんだ。人間の寿命じゃ絶対に届かないような、それこそ何百年も実戦で振るってきたみたいな……そんな気味の悪い練度だった」
「人間の剣術を、寿命以上の年月をかけて磨き上げた怪物……ということでしょうか。……やはり、魔族の戦士かもしれませんね」
フェルンが静かに呟く。
「数百年の剣技を使う、不死身の魔物……か」
フリーレンは静かに息を吐き、怪物が去っていった森の奥へと視線を向けた。朝の冷たい風が吹き抜け、破壊された酒場に泥のような酒の臭気だけが澱んでいる。
「考えても今は分からないね。あいつがまた戻ってくるかも不明だし……とりあえず、ファスとの約束通り片付けを終わらせよう」
フリーレンの淡々とした言葉に、シュタルクは肩を落とし、フェルンは小さく息をついて再び箒を手に取った。ひとまず議論を棚上げにし、三人は散乱した瓦礫と酒樽の回収へと戻る。
それから半刻ほどが過ぎ、昼下がりの柔らかな陽光が村を照らし始めた頃だった。
村の入り口のなだらかな坂道を、ふらふらと覚束ない足取りで上がってくる人影があった。
陽光を浴びて淡く輝く金髪のショートボブ。
どこか気だるげで眠たげな緑玉の瞳。
簡素な旅装の胸元には、大陸魔法協会が設立される遥か昔――統一帝国時代に神話級の大魔法使いにのみ授けられたとされる、古びた【聖杖の証】がぶら下がっていた。
そして何より異様なのは、その女が片手に無骨な酒瓶を握りしめ、まるで水でも飲むかのように絶え間なく喉を鳴らしていることだった。
「ぷはぁ……。相変わらず、酷い味ね」
女は眉をひそめて呟くが、その表情には酔いの気配が微塵もない。どれだけ煽っても、その瞳は冷たく醒めきっていた。
箒の手を止めたフェルンが、信じられないものを見る目でその姿を凝視する。
「白昼堂々、あんなに飲んで……酔わないのでしょうか。それにあれは……昨日のお酒と同じ瓶?」
フリーレンは持っていた木箱を地面に下ろし、静かにそのエルフを見つめた。
「……ミリアルデ」
エルフの女――ミリアルデは、広場の惨状とフリーレンの姿を認めると、薄く唇を歪めて片手をひらひらと振った。
「やあ、フリーレン。……何百年ぶりかしら。相変わらず小さなままで、なんだか安心したわ」
酒瓶の注ぎ口を指先で弄びながら、ミリアルデは気だるげに歩み寄ってくる。
その無防備で、どこか自暴自棄な佇まいを見た瞬間、フリーレンの脳裏に、かつて交わした古い記憶の断片が鮮やかによみがえった。
――ねえフリーレン。人生をかけて探したものが、何の価値もないゴミだったときのことを想像できる?
数百年前、森の中で幾らかの時間を共に過ごした同胞。
常に冷めた瞳で世界を眺め、決して酔うことのできない体質を呪うように酒を煽っていた、かつての旧友の横顔だった。