破壊された酒場の中は、崩れた梁と砕け散った板壁が影を落とし、乾ききらない泥のような酒の臭気が鼻を突いていた。
ミリアルデは足元の瓦礫を踏み越え、ひしゃげたカウンターの縁に気だるげに腰を下ろした。手に持った酒瓶を傾け、喉を鳴らして液体を流し込むと、瓶の底からは再び濁った琥珀色の液体が泉のように湧き上がり、瞬く間に縁までを満たしていく。
フリーレンはその手元を、感情の読めない翡翠の瞳で見つめていた。
数百年の昔、数少ない同胞と過ごした日々の記憶が静かに蘇る。あの頃から、ミリアルデはどこか掴みどころのない女だった。
「……面白そうな魔法を使ってるね」
フリーレンの呟きに、ミリアルデは瓶を揺らして小さく笑った。
「いいでしょ。『空き瓶を不味い酒で満たす魔法』よ。一生酒に困らないわ」
「な、なぁ……そんなにガブガブ飲んで、大丈夫なのかよ?」
シュタルクが引き攣った顔で尋ねる。決して片時も酒瓶を手離さず、水のように煽り続ける姿は、人間から見れば異様そのものだった。
「それだけ飲んだら、普通は泥酔してぶっ倒れるか、体壊して死ぬんじゃねえの……?」
「ミリアルデは昔からバカみたいに酒に強いんだよ」
フリーレンが淡々と言い添えると、ミリアルデは緑玉の瞳を細め、瓶をフリーレンの方へと軽く差し出した。
「フリーレンも少し飲む?」
「要らないよ。それ、酷く不味いんでしょ? 私も昨日飲んだから分かるよ」
きっぱりと断るフリーレンに、ミリアルデの唇が自嘲気味に歪む。
「ええ。酷く不味いわ。……酔えもしないのにね」
そう呟いた声の奥には、どんな美酒でも埋められない乾きと、冷え切った諦念が滲んでいた。
ミリアルデは視線を酒瓶から外し、破壊された酒場の惨状へと巡らせた。粉々に割れた木樽、壁に残された鋭い斬撃の痕跡、そして空気にわずかに残る、異質で重苦しい魔力の残滓。
「……一足遅かったみたいね」
吐き捨てるように零されたその一言は、あまりに確信に満ちていた。
「あの魔物のこと、知ってるの?」
フリーレンが問いかけると、ミリアルデは答えず、ただ静かに手元の不味い酒を見つめ直した。酒場を吹き抜ける風が、彼女の短い金髪を揺らしている。
砕け散った木板の隙間から、乾いた昼の風が吹き抜け、酒場に散乱する泥色の澱の匂いを巻き上げた。
ミリアルデはカウンターの縁に肘をつき、手元の無骨な酒瓶を傾けた。琥珀色の液体を喉に流し込んでは、また底から湧き上がる不味い酒をじっと見つめる。その瞳には、酔いとは無縁の冷ややかな光が宿っていた。
「……あれはね、皇帝リーデルよ」
短く息を吐き出すように、ミリアルデは口を開いた。
「千年以上の昔、統一帝国がまだ盤石だった頃に実在した男。ポースハフトはね、その皇帝の即位式の折、帝都中の民へ無償で配られたただの安酒だったのよ。酷く不味くて、安物で、舌が麻痺するような代物。……けれど、皇帝リーデルは生涯、その不味い酒だけを好んで愛飲していたわ」
「皇帝が、こんな泥水みたいな酒を……?」
フェルンが眉をひそめると、ミリアルデは自嘲するように薄く唇の端を持ち上げた。
「ええ。当時の記録にも残っているはずよ。彼は聡明で、慈悲深く、民の安寧を第一に考えた――いわゆる『賢王』と謳われた偉大な皇帝だった。……だからこそ、求めてしまったの。自分が死んだ後に訪れるであろう帝国の衰退を恐れ、愛する帝都と民を、永遠に守り続けるための力……そう、『不老不死』をね」
ミリアルデの指先が、酒瓶の冷たいガラス肌をなぞる。
「リーデルはね、自分が愛飲するこのポースハフトにこそ、不老不死の力があると信じて疑わなかった。その結果……彼は千年の時を越えて死ぬことのない怪物――『死皇帝』となり、かつて地下深くへと厳重に封印されたの。けれど、長い年月の果てに術式が綻び、結界が破れて解き放たれてしまった」
「……それで、ここを襲ったのか」
シュタルクが納得したように呟く。
「ポースハフトは当時、どこにでもあるありふれた安酒だったわ。今でもね、このビーア地方には、古い製法を受け継いで似たような不味い酒を細々と造り続けている村がある。怪物はただ、かつて自分が愛し、己の不老不死の源泉とした酒の味だけを求めて彷徨っているのよ。ここ最近、近隣の村々の酒場がいくつも同じように襲撃されているわ」
淡々と語られる過去の残滓。しかし、その語り口の不自然さを、フリーレンが見逃すはずはなかった。
フリーレンは静かに歩み寄り、ミリアルデの横顔を見上げた。
「……ミリアルデ。どうしてあなたが、その皇帝の怪物を追っているの?」
翡翠の瞳が、旧友の奥底にあるものを探るように据えられる。
「それに、魔法の理屈から言ってもおかしいよ。人間の肉体は有限だ。その皇帝が例えどれほど強大な魔力を持とうと、百年足らずで朽ちる人間が『永遠』をイメージすることなんてできっこない。魔法はイメージの世界なんだから。不老不死なんて、ありえないことだよ」
常識と魔法理論に基づいたフリーレンの反論に、フェルンが神妙な面持ちで口を挟んだ。
「……フリーレン様。酒は百薬の長だと、ハイター様が生前よくおっしゃっていました。適切なお酒には、体を健やかに保つ神秘の力があるのではないでしょうか」
「ハイターめ、とんでもない教育しやがって」
フリーレンは心底うんざりしたように頭を振った。
「百歩譲っていくら酒が百薬の長だとしても、人間を千年以上生かすことなんて不可能だよ。あんなの、回復魔法でも肉体強化でも説明がつかない」
フリーレンの言葉を受け、ミリアルデは酒瓶を揺らし、喉の奥で小さく乾いた笑いを漏らした。だが、その笑みはすぐに消え、深い影を落とした緑玉の瞳が、ルコル村の破壊された広場の先へと向けられる。
「……そうね。普通なら、あり得ないわ。魔法はイメージの世界。人間が永遠をイメージすることなんて、本来は決してできない」
ミリアルデはそれ以上語ろうとせず、ただ再び、酷く不味い酒を煽った。
酒場を吹き抜ける風が、破壊された板壁をガタガタと揺らしていく。
ミリアルデはそれ以上語る気はないとばかりに、気だるげに肩をすくめてみせる。まるで千年の重みなど何一つ背負っていないかのように、その横顔は飄々として掴みどころがなかった。
「理由なんて、なんでもいいでしょう?」
ミリアルデは再び酒瓶を傾け、喉を鳴らして不味い酒を一口流し込んだ。
「魔物と化した皇帝リーデルの成れの果て……『死皇帝』を追っているのよ。フリーレン、あなた魔王を倒すくらい強いんでしょ? 手伝ってくれると助かるんだけど」
事も無げに頼み込んでくる旧友の姿を、フリーレンは翡翠の瞳でじっと見つめた。
追っている理由は棚上げか――そう思いつつも、無理に聞き出そうとはせず、フリーレンは淡々と言葉を返す。
「……報酬は?」
「昔なじみに対価を要求するのね」
ミリアルデは薄く苦笑を浮かべ、手にした無骨な瓶をちゃぷちゃぷと軽く振った。濁った液体が瓶の中で鈍い音を立てる。
「……まあいいわ。この魔法でいいかしら。『空き瓶を不味い酒で満たす魔法』。あなた、こういう『くだらない魔法』好きそうだし」
その提案を聞いた瞬間、フリーレンの表情がわずかに輝いた。
「乗った」
「ちょっと、フリーレン様……!」
即答したフリーレンに対し、フェルンが額を押さえながら深い深いため息をついた。その冷ややかな眼差しには、また師の悪癖が始まったことへの強烈な呆れが滲んでいる。
「そんな魔法を手に入れてどうするのですか。昨日のお酒で懲りていないのですか?」
「俺は絶対に飲まねえからな……!」
シュタルクも露骨に嫌そうな顔をして、両手を振って距離を取った。昨夜味わった、喉が焼けるような泥水の味を思い出したのか、頬を引き攣らせている。
「でもさ、フェルン。一生酒に困らないんだよ。それに、魔法の収集は私の趣味だからね」
フリーレンは至って真面目な顔で言い切り、それからミリアルデに向き直った。
「それで、その死皇帝……リーデルは、次はどこへ向かったか分かるの?」
ミリアルデは空を仰ぎ、静かに目を細めた。短く切り揃えられた金髪が、山風にさらさらと揺れている。
「ええ。ポースハフトの匂いを追っているなら、向かう先は一つしかないわ」
* * *
ルコル村の喧騒を背に、一行は鬱蒼とした原生林の獣道を進んでいた。
木漏れ日が苔むした石畳を斑に照らし、奥へ進むほどに湿った土と古い魔力の残滓が濃くなっていく。木々の合間から姿を現したのは、蔦に覆われ半ば崩壊した石造りの地下遺構だった。
階段の前で立ち止まったフリーレンが、周囲の魔力構造を観察しながら口を開く。
「ルコル村の地下にあったのと同じ、酒の貯蔵庫か。……ねえ、ミリアルデ。なんであなたが在庫の所在を知ってるの?」
ミリアルデは歩みを止めず、手にした酒瓶を揺らしながら階段の闇へと足を踏み入れた。
「私が保管したからよ」
「……それはなんで?」
「質問ばかりね、フリーレン」
ミリアルデは振り返ることなく、気だるげに肩をすくめた。短く切り揃えられた金髪が、暗がりの中で淡く揺れる。
「別に、何でもいいじゃない。……どうせ全部、終わったことよ」
冷えた空気が漂う地下遺構の奥からは、すでに鋭い魔力の衝突音と、何かが砕け散る重苦しい音が響いていた。入り口に施されていたはずの何重もの大結界は、まるで紙細工のように無残に引き裂かれ、床一面に青白い魔力の破片が散らばっている。
遺構の最奥、広大な円形の間。
そこに山積みにされていた無数のガラス瓶はことごとく叩き割られ、床には泥のように濁った琥珀色の液体が池のように広がっていた。
その中心に、死皇帝がいた。
暗く豪奢な装飾が施された黒鉄の鎧はひび割れ、異様な黒い靄を纏っている。頭部を覆う兜は、酒を喉に流し込むためだけに顎の部分が無理やり引きちぎられており、そこから滴り落ちる液体で胸当てが濡れそぼっていた。
だが、バイザーの奥は深い影に閉ざされ、かつて賢王と呼ばれた男の素顔を窺い知ることはできない。
「グ……ァ……、足り、ぬ……」
掠れた呻き声を上げながら、怪物は破片を手繰り寄せ、無限の生を貪る亡者のように泥水を啜っていた。
「フリーレン、あいつの足止めをお願い」
ミリアルデが静かに、だが張り詰めた声で告げる。
「リーデルをもう一度、封印するわ。……何千年でも」
「わかった。――シュタルク、フェルン!」
フリーレンの鋭い号令とともに、シュタルクが地を蹴った。
銀色の大斧が唸りを上げ、死皇帝の首筋めがけて振り下ろされる。だが、怪物は目線を上げることすらなく、手にした長剣を抜き放ち、最小限の動きで斧の軌道を弾き返した。
凄まじい衝撃波が円形の間を揺るがす。
「くっ……! 重いっ……!」
「シュタルク様、下がってください! ――『ゾルトラーク』!」
後方からフェルンが放った高密度の魔力弾が、死皇帝の胸板を正確に撃ち抜いた。鉄の鎧が弾け飛び、肉が削ぎ落とされる。しかし、その傷口からは血の一滴すら流れることなく、黒い魔力とともに瞬く間に新しい肉と皮膚が沸き立つように塞がっていく。
「邪魔、だ……」
死皇帝のバイザーの奥で、昏い紅の光がぎらりと光った。
数多の戦争の中で研ぎ澄まされてきたような神速の剣撃がシュタルクを襲い、フリーレンが瞬時に展開した防御魔法が甲高い音を立ててヒビ割れる。死なない肉体と、決して衰えない剣技。ただ耐え忍ぶことすら困難なほどの重圧が、一行に圧し掛かる。
激しい剣戟と魔力の爆発が吹き荒れる中、ミリアルデは酒瓶を床に置き、両手を広げた。
胸元の【聖杖の証】が青白い輝きを放ち、彼女の足元から幾重もの複雑な幾何学模様が、魔力の光を放ちながら床一面へと広がっていく。失われた古代の術式。神話の時代の大魔法使いだけが扱える、永遠に等しい時を縛り付けるための絶対的な封印結界が、急速にその輪郭を編み上げていった。